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葛城王朝の栄華の址 秋津遺跡発掘(橿考研)

 2010年11月28日、橿原考古学研究所は葛城王朝の栄華の址と浪漫溢れる『秋津遺跡』の発掘調査の現地説明会を開催した。

 発表資料 橿考研発表資料(秋津遺跡 現地説明会)

Photo  新聞各社の報道については

 朝日新聞 4世紀の権力者の祭祀場か

 読売新聞 空白の4世紀を埋める最大級施設群

 葛城の地は朝鮮半島で活躍した葛城襲津彦が一番有名です、航空写真で観れば秋津遺跡の南西方向に全長238メータの前方後円墳がありますが、彼の墓の候補と考えられています。

 遺跡の近くに秋津小学校がありますが、戦前の人ならば日本の事を『秋津島』と呼んでいました。そんな由緒正しい地名を持つ場所です。遺跡は4世紀初頭の頃の大型建物という発表は今年最大の考古学世界での事件ではないでしょうか。

 この頃の日本の状況は中国の資料には存在しない為に古来、謎の4世紀と呼ばれていたのです。葛城氏は雄略天皇の頃に滅ぼされるのですが、それ以前の歴史については、大王家に妃を送り続けたという記紀の記録から大王家と肩を並べる勢力であったと推察されて来た。

 特に、第5代 孝昭天皇(葛城掖上宮)、第6代 孝安天皇(秋津島宮)と天皇の宮が葛城に建設されていました。その後、第7代 孝霊天皇(娘はヤマトトトビモモソヒメ、息子は吉備津彦)、第8代 孝元天皇と奈良時代に命名された天皇の名前に『孝』がつく天皇が連続して4代も続いたのです。

 何れの天皇も欠史八代と呼ばれ伝説の天皇であると現在は考えられているが、私は何らかの伝承が存在していたと考えています。ある研究者は三輪山周辺の纏向地域の王権と葛城地域の王権が並立していたのではないかと言う仮説を述べる人もおられます。

 葛城襲津彦は神功皇后・応神天皇の時代に朝鮮半島で大活躍をした人物として記紀には記録されています。渡来系集団として葛城氏は大陸と交易し最新の技術を持っていたのではないでしょうか。葛城という場所は背後に吉野の材木が持ち込まれる場所であり、膨大な造船の原材料・製鉄の原材料を確保した一族だったと考えます。5世紀末に雄略天皇に滅ぼされ、鴨氏・秦氏・蘇我氏は葛城を去ったと考えています。

 今年は、牽牛子塚古墳の発掘成果も斉明天皇の陵墓ではないかという衝撃的な成果を挙げています、纏向遺跡では桃の実が2千粒も発掘されました、面白い1年でした。

 参考 古代奈良盆地南部

 参考 葛城一言主神社

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古刹を巡る鎌倉散歩(4) 浄妙寺→報国寺

 承前 古刹を巡る鎌倉散歩(3) 鎌倉宮(大塔宮)→杉本寺

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201011kamakura_123  鎌倉五山の一つ、浄妙寺です。由緒を読んで頂ければ寺の概要が判ると思います。室町時代は23も塔頭を抱えた大寺院だったのですね。それより、気になるのは鎌足稲荷神社が鎌倉の名前の発祥だと書かれていますね。奈良時代は相模国鎌倉郡でしたね、その前の話なんでしょうね。鎌足と言えば謎の人物で出自がよく判っていない、子供の頃は鹿島神宮で育ったと何処かで読んだ記憶があります。鎌倉の由比ヶ浜と三浦郡のあった三浦半島から房総半島への古代の航路が気になります。

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 境内では紅葉が始まっていました、もう少しで見事な紅葉を観れそうですね。

この寺では石窯ガーデンテラスというのが有名だそうです、沢山の観光客が並んで席を待っていました。

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201011kamakura_135  石窯で焼き上げた美味しいパンを料理と一緒に頂けるそうです。沢山の人が並んでいましたので、失礼しました。パンだけでも買えば良かったですね。

 何でお寺が石窯でパンを焼くのか、理由は不明ですが、お洒落なお店でした。

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 茶室と枯山水の庭が有名です。小さな庭ですが、広がりを感じる素晴らしい庭だと思います。

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古刹を巡る鎌倉散歩(3) 鎌倉宮(大塔宮)→杉本寺

  『鎌倉宮』

 悲劇の護良親王(もりながしんのう)殺害の場所の訪問です。後醍醐天皇の皇子として楠木正成とともに鎌倉幕府軍と戦いました。しかし、征夷大将軍となった後、足利尊氏との対立から捕縛され、尊氏の弟の直義により鎌倉に護送され、東光寺の土牢に閉じ込められた。悲劇が起こったのは、9か月後の建武2年(1335年)7月23日でした、北条氏の残党を率いた北条時行の軍が鎌倉を攻め、持ちこたえる事が出来ないと判断した足利直義は部下の淵辺義博(ふちべのよしひろ)に護良親王の殺害を命じました。

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 明治になり東光寺跡に護良親王(大塔宮)の歴史的活躍を称え、鎌倉宮という神社勅命が明治天皇から出されました。白い鳥居で有名です。私は、吉川英治の『私本太平記』で大塔宮護良親王の歴史を学びました。司馬さんの本でも学んだ記憶があります。28歳の若さで弑逆された親王の恨みは幾許だったでしょうね。

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201011kamakura_081  『厄割り石』と書いてあります。素焼きの盃に息をかけ、思い切り石に投げ付け割るそうです。京都のお寺で『かわらけ投げ』がありますが、同じで厄除けなんですね。

盃とか食器を割るという行為は葬式でも行いますが、ひょっとすると縄文時代から日本列島で綿々と続く信仰なのかも知れません。土偶もそうですが、古墳時代の割られて埋納された銅鏡なども同じような信仰だったのではないでしょうか。

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201011kamakura_087  『獅子頭守(ししがしらまもり)』です、護良親王が戦の時に兜の中に小さな獅子頭のお守りを常に入れておられたそうです。私が子供の頃には正月に「獅子舞」が各家庭を訪問し子供の頭を噛んで厄除けをしてくれました。

 遥かエジプトやペルシャの香りがする信仰ではないでしょうか。拝殿、本殿の裏の崖に土牢跡と伝承のある洞窟がありますが、征夷大将軍で親王を洞窟に閉じ込めたとは思えませんね、土蔵のような建物に閉じ込めたのではないでしょうか。

 何時か、時間があれば『太平記』を再度、本棚から取り出して読んでみるのもいいかも知れない。

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古刹を巡る鎌倉散歩(2) 鶴岡八幡宮→源頼朝墓(法華寺跡)→荏柄天神社

 承前 古刹を巡る鎌倉散歩(1) 鎌倉駅→鶴岡八幡宮

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201011kamakura_049  頼朝のお墓に向かいます。彼はこの場所に持仏堂を建立していたのですが、死後、彼の持仏堂に埋葬されました。そして、法華寺と呼ばれるお寺になります。写真の左は明治維新後に神仏分離で白旗神社(祭神は頼朝)が境内に別に建立されたそうです。

白旗神社は鶴岡八幡宮の境内にも存在しています。白旗は源氏の旗ですね。

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 源頼朝のお墓です。江戸時代に島津氏により建立されたそうです。不思議ですよね、何故、鹿児島の殿様が頼朝の墓を整備するのでしょうか。それは、島津氏の祖が頼朝だからです。

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 島津忠久の墓への案内石碑が頼朝の傍にあります。宝治元年(1247年)三浦一族は北条氏・安達氏が進める政治に反旗を翻し乱を起こします。三浦泰村と北条時頼の戦いです、その時に三浦氏に合力したのが、島津忠久(頼朝が比企義貞の娘に産ませた子)であり、毛利季光(大江広元の4男)でした。彼らは頼朝の菩提寺である法華寺に立て籠もり、500人以上がこの場所で自刃するという悲劇がありました。

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 頼朝は53歳で落馬が原因で死亡しますが、吾妻鏡ではその頃の記述が欠落しており、謎だそうです。北条氏に殺害された可能性もあるという説があるそうです。

宝治の乱で自刃した三浦泰村たちの墓はこの場所から少し、登った場所にある筈です。

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 頼朝が公家政権から武家政権に大きな歴史の舵を切った訳ですが、三代で滅ぶ悲しい歴史もここにあります。

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古刹を巡る鎌倉散歩(1) 鎌倉駅→鶴岡八幡宮

 先日、天気が良いので突然、鎌倉の古刹を歩きたくなり鎌倉駅で下車した。すると、JRさんが駅からハイキングというイベントを開催しており、パナソニックさんが携帯の「旅ナビ」という端末も貸してくれるというので、参加した。

Photo

 『コース』

 ・鎌倉駅東口(スタート)→1キロ、15分→鶴岡八幡宮→1キロ、15分→源頼朝墓(法華堂跡)→0.5キロ、10分→荏柄天神社→0.4キロ、6分→鎌倉宮→0.5キロ、10分→杉本寺→0.7キロ、10分→浄妙寺→0.4キロ、6分→報国寺→2.5キロ、40分→鎌倉駅東口

 総歩行距離 7キロ、歩行時間 2時間、昼食&休憩入れて3時間程度のコースでした。

201011kamakura_004  これが、パナソニックが販売してる『旅ナビ』という携帯端末です。GPSを搭載しており、予めJR東日本の人がコースを設定して下さっていたので、ナビに従い歩けば良い。自動車のナビと同じ機能を持っており、写真機の機能も持っており何処で撮影したかも後で編集可能とか。

 私は、自分の一眼レフで撮影したいので撮影機能は使いませんでした。

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 若宮大路です、桜の季節は素晴らしいですよ。鎌倉駅からこの道を真っ直ぐに歩くと気持ちが良いです。由緒によれば、源頼義が奥州を平定し1063年に京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜に招聘されたのが始りだそうです。勿論、本家は宇佐八幡宮です。その後、頼朝により大きな神社となりました。

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 七五三の季節でしたので、着飾った子供を連れた親御さんが多数参拝されていました。

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 未だ紅葉には少し早いようですが、かなり紅葉は進んでいました。

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 結婚式が執り行われていました、神社で結婚式をするのもいいですね。沢山の参拝客から祝福を受ける事が出来ます。そういえば、義妹は京都の下賀茂神社、姉の息子は平安神宮で式を挙げていました。

此処は、外ですから少し寒いかも知れませんね。

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201011kamakura_025  今年の春、強風で倒れた県指定の天然記念物の大銀杏の再生プロジェクトが進んでいます。幹を移植していますし、元の銀杏の根元からも葉っぱがでています。

実朝を暗殺する刺客が隠れていたという、歴史上の大銀杏ですし、信仰の対象でもあるんです。今回は、これを観たかったのです。

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纏向遺跡フォーラム『邪馬台国からヤマト王権へ』

 11月20日(土曜日)、読売新聞社主催・桜井市後援の掲記セミナーが開催され、参加した。

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 刈谷俊介氏、桜井市教育委員会文化財課係長の橋本輝彦氏、国学院大学教授の鈴木靖民氏、大阪府立近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏、桜井市市長が参加し開催された。

 白石太一郎氏の講演は最近、同じ場所で開催された『三輪山セミナー』の講演で拝聴していたし、彼の纏向遺跡に関する書物は読んでいたので、特に目新しい事はなかった。

  参考 第7回 三輪山セミナー イン 東京

 俳優と考古学者の二足の草鞋を履いている刈谷さんの話を聴くのは初めてで、新鮮でした。既に彼の専門書は二冊程度読んだ記憶がります、確か纏向遺跡の土器編年の専門書だったと記憶しています。所謂、庄内式土器と布留式土器の編年専門書だったと思います。彼は、石塚古墳の発掘の時から現場で発掘をされていた研究者で浪漫の塊のような人です。

 彼の話によれば、石塚古墳の発掘の時に東の珠城山に延びる直線上の太田北微高地には大型建物列が存在する事を予測していたそうです。そして、本も出版していたそうですね。専門家の間では昨年発掘された大型建物は十分に推測されていたのです。次の大型建物跡の発掘は珠城山古墳群の南の地が候補と考えられていますね。

 宮殿跡の発掘は難しいそうだ、遺物が出にくいそうですね、飛鳥宮跡の発掘も半世紀に渡り続行されているが困難を極めているという。

 『桃の話』

 今年の発掘で大型建物近くで沢山の桃の種と籠が見つかりました、桃を祭祀に使用した痕跡であろうという説が大勢のようです。弥生時代の銅鐸を祭祀に使用していた時代から、突然に銅鐸が破棄され、鏡が祭祀に使用される宗教改革が発生した。鏡の背面には神仙の世界が表現されています。神仙の世界の想像上の動物や西王母、東王父の世界です。

 先日、森浩一氏の『交錯の日本史』(朝日新聞社)を読んでいると、鹿児島県坊津に残る中国人絵師が描いたという西王母は右手に桃の枝を持っていました。桃は中国では神仙の世界では邪気を払う神聖な果物なんです。桃太郎の話も確か吉備地方の伝承だと思うのですが、纏向には吉備の香りが満ちています。

 箸墓古墳にしても、特殊器台は吉備が発祥の地ですから、吉備の影響は大きいと思います。

 とにかく、早く纏向遺跡の近くに国立の文化財研究所でも建設して大規模な遺跡保存と発掘される事を望んでいます。古墳時代発祥の地を大事にして欲しい。

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久留倍(くるべ)遺跡まつり&壬申の乱ウオーク

 承前 充実の古代史紀行から帰還しました

 11月12日(金曜)夜11時に八重洲から高速バスに乗り名古屋を目指し、朝6時に名古屋到着。近鉄電車で桑名経由、富田駅に7時過ぎに到着。食事をして朝の8時には三岐線の大矢知駅に到着した。8時半から壬申の乱ウオークが始まった。

 マイフォト 久留倍(くるべ)遺跡まつり&壬申の乱ウオーク 写真集

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 壬申の乱ウオークは山中章先生が開催されており、もう19回目だそうです。山中さんは長岡京の発掘で有名な先生ですが、宮城研究の第一人者であり、私がハノイに駐在していた時に先生がタンロン皇城遺跡の発掘にも関与されており、何回かメールのやり取りをさせて頂いた。

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 延喜式内社の長倉神社から始まります。伊勢国朝明(あさけ)郡にある格式の高い神社です。この土地には伊賀留我神社もあり、地元の三重大学の山中先生の門下生が研究しているようです。

参考 平安時代伊勢国朝明郡大矢智周辺の状況

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 久留倍(くるべ)遺跡です。国指定史跡になりました。伊勢国朝明郡の郡衙(郡の役所)が存在した場所です。伊勢湾を見下ろす高台にあり八脚門から正殿、脇殿、長大な建物跡が確認されています。

この場所は壬申の乱の時の大海皇子の東国ルートと聖武天皇の東国行幸と関係が深い場所として研究の対象となっています。

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 森浩一さんの講演によれば、740年の藤原弘嗣の乱の折り、東国行幸をされているが、その時の『狭残(さざら)行宮(かりみや)』ではないかと推測されています。聖武天皇は国に一大事が起こると、天武天皇の採られた東国を味方にする戦略を踏襲されたのではないかと推測される。

 実は、天武さんは国際情勢を鑑み真剣に信濃の国に遷都をする計画を練っておられたという。その計画を継いだのが持統天皇だそうです、692年の持統天皇の伊勢行幸、702年の死の直前の三河行幸の目的は信濃国への遷都計画を具体化する行幸であったと考えられているそうだ。

 森先生の話では、信濃の国は日本列島の中央にある山国であるが、北半分は信濃川や姫川により日本海に脱出可能であり、南は天竜川や木曽川で太平洋に出れる。更に南信濃の伊那地方は比較的低平な三河との国境を越えると豊川や矢作川によって三尾勢の内海に出れるのだと述べる。この道筋により、古墳時代後期には信濃の馬が東海や近畿にもたらされた。

 692年の持統天皇の伊勢行幸とは、遠江と三河のどちらが、信濃に入るさいに拠点として相応しいかを実地に検証する為だったと推理する。この結果、非常の際にヤマト→伊賀→伊勢→(海路)→三河→信濃のルートが選択され、道路の整備を開始した。実際、持統天皇は志摩の阿胡(英虞)行宮付近から乗船し三尾勢の内海を通過し、三河に入り、自らも遠江まで出かけたと推理する。

 この計画も持統天皇の死により幻の計画となったそうです。

 

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明日香紀行(5) 亀石・鬼の俎、雪隠の段

 承前 明日香紀行(4) 飛鳥京を偲ぶの段

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 御存知、亀石さんです。現在は南西を向いているが、西を向くと洪水が起こると言う伝説が伝えられているそうです。

 今まで、色んな説が存在しているようですが、現地の説明板で書かれているのは、川原寺の四至(しじ)=四隅を示す標示石ではないかという説があります。私は河上邦彦さんの意見が自然で妥当ではないかと思います。

 即ち、この亀石は橘寺の塔の心礎として計画されていたが、何らかの理由で途中で放棄されたものではないかという意見です。亀は本来背中の上に何かを載せる神として中国では考えられています。塔の心礎として考えられていたとすれば、自然な感じがしますね。

 門脇禎二さんは古墳に関係する遺物ではないかという説のようです。河上さんは傍証として、羽曳野市の野中寺(やちゅうじ)の塔の心柱を支える礎石に亀の陰刻の例を述べています。野中寺は創建者が蘇我馬子とか聖徳太子さんという伝承があるようです。ともあれ、その陰刻の亀の顔が亀石の顔に似てるそうです。

 参考 野中寺 心礎の亀陰刻

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明日香紀行(4) 飛鳥京を偲ぶの段

 承前 明日香紀行(3) 石像物の謎を巡るの段(酒船石遺跡編)

 飛鳥京の正確な場所は未だに解明されていません。しかし、橿原考古学研究所は50年の長期に渡り飛鳥京の発掘作業を継続し、ようやく解明されようとしています。舒明天皇の飛鳥岡本宮(630年~)、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643年~)、斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮(656年~)、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672年~)とが明日香村大字岡から大字飛鳥にかけて存在しています。

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201011nagoyanara_220  飛鳥板蓋宮の時代には、あの有名な入鹿暗殺の事件が起こりました。藤原京に遷都するまでの約百年間ほどこの場所が政治の中心だった訳です。それを、50年もかけて発掘しても今だ解明出来ないのが歴史の面白さではないでしょうか。

 昨日、読売新聞社主催の『纏向フォーラム』に出かけましたが、桜井市の教育委員会文化財課係長の橋本輝彦さんは、古墳の発掘と異なり宮跡を発掘するのは、技術的に難しいと語られていました。古墳とか集落跡ならば遺物が出土するが宮跡は柱跡の穴がでるだけで、遺物が少ないという。確かに、聖なる場所ではゴミは捨てませんね。

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 飛鳥寺が見えますね、此処も昨年から今年にかけて橿考研では発掘が行われました。大きな成果がでたようですよ。

  飛鳥京跡第165次発掘調査の概要(橿考研 資料)

  飛鳥京跡第164次発掘調査 外郭北部の調査 (橿考研 資料)

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201011nagoyanara_217  左の写真は伝飛鳥板蓋宮跡から甘樫の丘を眺めていますが、重機とブルーシートが見えますね、165次調査の跡です。右の写真は板蓋宮跡から東方の酒船石遺跡方面を眺めたものです。

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明日香紀行(3) 石像物の謎を巡るの段(酒船石遺跡編)

 承前 明日香紀行(2) 石像物の謎を巡るの段(猿石編)

 伝飛鳥板蓋宮跡の東方の丘陵上には有名な酒船石がありました。丘陵の頂あたりに鎮座し左右は割られています。

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 『酒船石』については今まで数多くの説が唱えられています、未だに謎の儘であります。これまでの説を御紹介はしませんが、割られたのは多分、高取城を築く時に採石場として利用されたのでしょうね。酒を造る装置であるとか、薬を作る装置とか、色んな仮説が今まで提示されて来ましたが、今だ謎の儘です。

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 河上邦彦氏は占いの装置であると仮説を述べています。詳細な説明は省きますが、此処には建物があり貴族達が集まり、自分の盃を浮かべ水を注ぐ事でその盃が何処に流れて留まるかで遊んだのではないかと述べています。面白い説としては、以前、紹介しました小川光暘氏の人身御供の祭壇説です。 参考 酒船石関連記事

 作家の松本清張さんは、斉明天皇がゾロアスター教を信奉されていたと考え、麻薬の製造に使用されたのではないかと説を展開されていた記憶もあります。謎ですね。

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 実はこの丘陵は石垣に取り囲まれていたという事実です。写真は石垣の一部です。日本書紀に斉明天皇2年の条に『宮の東の山に石を累ねて垣とす。』『石の山丘』に符合するのではないかと考えられています。

斉明天皇の『両槻宮』ではないかという考えもあるようです。

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 平成4年に発掘された水の祭祀跡と考えられる施設です。酒船石の丘陵北斜面の谷の底の場所から写真のような施設が発掘され世間を驚かせましたね。

201011nagoyanara_197  砂岩湧水施設から、湧水を取り、小判型の石造物に水を導水しています。上澄みの綺麗な水は下の亀形石造物に漉された綺麗な湧水が注ぐ装置であります。亀ではなく、スッポンであるという考古学者もおられますが、私はスッポン論を支持しています。

 斉明天皇が皇極天皇として即位されていた頃から天変地異が多く起こり、旱や旱魃が多発し民は苦しんだという、そんな責任は全て天皇にありこの場所で水の祭祀を行われたと考える。現地のビデオでは亀形石造物に女帝は入り祭祀をしてる風景が描写されていました。

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201011nagoyanara_195  南北溝と石段があります。祭祀の時に中大兄皇子もこの階段に立っていたのでしょうか。この遺跡は斉明朝(7世紀中頃)から天武朝、文武朝、そして10世紀初頭まで健在であったようです。250年間、水の祭祀場として使用されていたそうです。

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201011nagoyanara_199  遺跡発掘時には、丘の上の酒船石との関係が論議され、導水施設としての酒船石に注目されたが、砂岩湧水施設が見つかり、酒船石とは関係が無いと考えれている。

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明日香紀行(2) 石像物の謎を巡るの段(猿石編)

 承前 明日香紀行(1) 八角形墳を訪ねるの段

 明日香には不思議な石像物が沢山あります、既に解明されたものもありますが、未だに謎の儘残されているものがあります。これが、明日香の魅力の一つではないでしょうか。

 『猿石(吉備姫王墓に存在)』

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 元禄15年(1702年)に現欽明陵の南側、字(あざ)池田と呼ばれる田畑より数体の石像物が掘りだされた。それが、現欽明陵に置かれていたが、明治になり吉備姫王墓に移され現在に至るという。それが4体の猿石である。河上邦彦氏の『飛鳥を掘る』を典拠にご紹介です。

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 先ず『僧(法師)』と呼ばれる石像です。以下、河上邦彦氏の説明を引用します。

 一石丸彫りの、立て膝で座る裸体の男像です。大きな丸坊主頭であるが、短髪らしい表現がある。手足には筋肉の表現が、背には背骨の表現が見える。(我々は見えない場所)下腹部にある二本の線は、褌(ふんどし)と考えられる。底部に径30センチ、長さ13センチのホゾ(臍)が造りだされている。高さ101センチ。河上氏は1998年に宮内庁が石像保存の為に石を掘り起こした時に立会い調査されている貴重な経験をされている。彼の意見は、石像の底部にある突起からこの石像は台座の上に設置されていたと推論する。

 この像は丸坊主で褌をつけた筋肉隆々の男であり、力士であると結論している。

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 『山王権現』と呼ばれる石像です。以下、河上氏の説明です。

 表面は内股で両膝を地面につけ、つま先を立てて座っている。全体に裸で下部に陽物を出している。頭部には頭巾を被る。頭はまるく大きい。目、鼻、口、耳を大きく表現する。腹は大きな太鼓腹であり、ヘソの穴がある。裏面は上半身を表した鬼面のようである。(我々には見えない)鼻はシシ鼻で、一文字に閉じた口からは上向きに牙が出ている。高さ131センチ。所謂、二面石である。

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 『女』と呼ばれる石像物です。以下、河上氏説明引用。

 表面は右膝を立てて座る人物で、長い顔に卵形の目、長い鼻、大きな吊り上がる口を持つ。なで肩で右腕は膝頭に沿わせ、手先を下に向ける。右手は腹部に置く。両腕の間にW状の乳房の表現がある。下部に、陰部の表現と見られるものがあり女性を表している。裏面は顔面が爬虫類のような彫刻で、U字状の大きな口の表現がある。卵形の目とその周囲の縁取り。額には小さな突起。こめかみからは角が出ている。側頭部には、たてがみのような線刻がある。高さ110センチである。

 

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 『男』と呼ばれる石像物です。

 表面は内股で、つま先を立ててしゃがみこんで、陽物を出す裸体の男像である。下膨れの顔で、笑う表情を表現しているようである。裏面は前屈みにうずくまる姿をした人物。顔は肉付きがよく、あごが角張る。高さ86センチである。

 裏面画像はありませんが、飛鳥資料館の前庭に行けば、猿石のレプリカがあり、裏面を観る事が可能です。参考記事 飛鳥の石造物

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明日香紀行(1) 八角形墳を訪ねるの段

 河上邦彦さんの『飛鳥を掘る』の本を本棚から取り出し、持参して近鉄飛鳥駅に降り立った。

 承前 バリ島・ジャワ島紀行は中止(天武陵苑の見学)

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 飛鳥駅に到着したのは朝の9時頃でした。駅前のレンタサイクルのおばちゃんからチャリを借り、信号前の喫茶店のモーニングが美味しいと聴き、早速、腹ごしらえで入る。

レンタサイクルは900円、モーニングは580円程度でした。最初は橿原神宮駅で乗り捨てする考えでしたが、おばちゃんが勿体ない(200円追加料金)と説得され、飛鳥駅に戻る計画に変更した。

 今回の明日香紀行、最大の課題は舒明天皇、天智天皇の時代から始まった天皇陵が従来の前方後円墳から、大型円墳に移行し、そして、下方方形、上八角形墳への変遷から、天武天皇の下方八角形、上八角形墳に移行したのをこの目で確かめる事でした。今回、一番確かめる必要があったのは牽牛子塚古墳です。前回の記事で、最新の発掘状況が報道されていた事に興味がありました。

 『牽牛子(けんごし=あさがお)塚古墳』

Photo  地図を観て頂ければ、判りますが飛鳥駅の西方に牽牛子塚古墳、岩屋山古墳があります。最近までは岩屋山古墳が斉明天皇の陵墓であろうと、考古学の世界では考えられていました。しかし、今回の牽牛子塚古墳の発掘により八角形墳が確認され、こちらが斉明天皇の陵墓として注目されています。

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201011nagoyanara_135  朝日新聞ニュース 斉明天皇の墓ほぼ確定

 2006年の明日香村の発表内容。

 本年、11月27日(土曜日)に明日香村では発掘調査報告会が開催されます、最新の飛鳥寺西方遺跡の調査(長谷川透さん)、牽牛子塚古墳の調査(西光慎治さん)が予定されており、注目されます。先着300名ですから、今からでは難しいかも知れませんね。

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201011nagoyanara_130  上三段八角形墳墓は間違いが有りませんね、下八角形である事も確認されたようで、対角長33メータもあるようですが、何段か不明です。しかし、大規模なハ角形墳である事が判明しましたね。

 石室内が二つの空間が設けられ、合葬墓のようですし、出土した歯の鑑定や漆塗の夾紵棺の破片から最高級の棺である事と、歯の鑑定から日本書紀に書かれた間人皇女の歯ではないかと推測され、斉明天皇の陵墓である可能性が高いようだ。

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201011nagoyanara_129  となると、近くの同じく八角形墳である岩屋山古墳の被葬者はだれになるんでしょうね。八角形墳は天皇にのみ許された墳形であり、天武天皇以前の天皇という事になりますが・・・。

 この古墳の近くに、真弓鑵子塚古墳があるのですが、現在石室を見学出来ないそうなので、訪問しませんでした。この古墳も最近の調査で6世紀中葉の墳墓で石室は400個の石を使い巨大なドーム状の石室規模であり石舞台古墳を越える大きさだそうだ。東漢氏の墓ではないかと考えられているが、蘇我稲目の墓説もあるようだ。

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中欧4カ国紀行 その19 ウイーン 美術史美術館(6)

 承前 中欧4カ国紀行 その18 ウイーン 美術史美術館(5)

 美術館にはハプスブルク家が集めたエジプト関連の文化に関する蒐集品がありました。

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20109wine_1240  ミイラに被せられていたマスクと墓の建物の様子です。石室の石柱は象形文字で覆われていました。

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20109wine_1243  今年、春にエジプトを訪問しましたが、過去に於いて多くの歴史的遺物が海外に流出したのが残念です。英国の大英博物館にも多くのエジプトの歴史遺産が収蔵されています。

 故郷を離れたミイラさん達は可哀そうですね。何時か、彼ら彼女らが故郷に帰る日が来ることを願っています。

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20109wine_1252  可愛いいですね、見事な作品ではないでしょうか。

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20109wine_1260  戦いの女神、セクメト神ではないでしょうか。

顔はライオンで身体は人間の女性です。

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充実の古代史紀行から帰還しました

 11月12日夜、東京は八重洲の高速バス乗り場から名古屋行きバスに乗り、夜行で朝6時に名古屋駅到着。近鉄電車に乗り込み桑名を過ぎ富田駅到着は朝の7時過ぎ。駅前のおにぎり屋さんで、温かい味噌汁とおにぎりを食べ、昼食用のおにぎりとお茶を購入した。

 朝8時半から三岐線の大矢知駅前集合の『壬申の乱ウオーク』と『第三回 四日市 久留倍(くるべ)遺跡まつり』に参加した。午後からは特別講演会があり、森浩一先生、奈文研の馬場基さん、三重大学の山中章先生の講演を拝聴した。

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 スピーカを肩から掛けて説明なさるのは山中章先生、生徒は古代衣装をつけています。先生は4キロのウオークを重いスピーカを肩から掛けて、熱心に参加された市民の皆さんにご説明されていました。今回の『壬申の乱ウオーク』は19回目だそうです。本当に熱心なお姿には頭が下がります。

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 久留倍(くるべ)遺跡は山中先生や地元の熱心な遺跡保存推進者の働きで国指定史跡に撰ばれたそうです。伊勢国の朝明(あさけ)郡の官衙跡と考えられており、同時に森浩一先生の話では聖武天皇が藤原弘嗣の乱の時に東国の武士団を味方にする為に伊勢国に行幸し行宮(かりみや)とされた『狭残行宮(さざらのかりみや)』ではないかと論説されていました。  

201011nagoyanara_044  聖武天皇が何故この地を国家存亡の危機の時に行幸されたのかは、天武天皇の先例を踏襲されたからだと思います。

 大海皇子は吉野を抜け出し、最終地点は桑名だったそうですが、この遺跡の近くの迹太川(とほがわ)で天照大神(伊勢神宮)を遥拝した事で有名です。

201011nagoyanara_060  大海皇子は伊勢神宮が味方したお陰で戦勝する事が出来たという事で、伊勢神宮を大事にされたそうです。それまでは、伊勢神宮はそれほど有名でも権威があった訳では有りません。

 

201011nagoyanara_078 森浩一先生の話で面白かったのは、天武天皇は本気で信濃の国に遷都する考えだったそうです。天武さんの意志を継いだのは持統天皇さんでした、彼女は三河まで足を伸ばし信濃の国に遷都するルートの調査や道路の整備を始めたそうです。

新羅・唐の朝鮮半島の動乱は日本列島の政治に大きな影響を与えていたのですね。後日、詳細なセミナーや久留倍遺跡まつりの記録を残したいと思います。夕方、全てのイベントが終わり名古屋に近鉄で戻り、高速バスで京都に3時間をかけて行き、24時間不眠の長い日は終わりました。

 参考 山中章先生のブログ

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袋田の滝と月居山トレッキング(その2)

 承前 袋田の滝と月居山トレッキング(その1)

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 生瀬の滝です。現場までの道が危険で登山道からの眺めです。

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201011fukuroda_078  生瀬の滝で記念写真です。

昼飯も食べずに頑張りました、朝袋田駅10時半から歩き始め、もう午後2時近いです。

 袋田の滝はもうすぐです。

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 日本三大瀑布、袋田の滝です。四段の滝で豪快で迫力が有りました。

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 有料展望台(300円)を払えば、エレベータで展望台まで運んでくれます。少し、紅葉には早かったようです。

 マイフォト 袋田の滝と月居山トレッキング 写真集

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袋田の滝と月居山トレッキング(その1) 

 承前 袋田の滝と月居山から無事帰還しました

 第7回爺さん4人組の温泉と山歩きの会は11月4日~5日、袋田の温泉と月居山トレッキングとなりました。当日朝、8時上野発水戸行きの特急に乗り、水戸経由、袋田駅到着10時31分でした。

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 袋田駅から宿泊予定の袋田温泉、思い出浪漫館まで20分程度歩き、重い荷物はホテルに預け、11時10分程度にホテルから月居山の登山口目指して歩き始めた。

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 ホテルから少し滝方面に歩くと滝に行く道と月居山尾根に向かう道が別れ、少し歩くと写真のような、月居山登山口の標識があります。

此処から登り始め、月居山尾根にとり着きます。30分程度、登りの道は続きいよいよ月居山登山道に取り掛かります。

201011fukuroda_003  月居城址・観音堂方面への登山路を選択します。月居山は双耳峰でして南峰の頂上に月居城址があります。北の峰の峠に観音堂があり先ず峠まで登り、南峰の月居城址を登り、再度折り返し峠に戻り、観音堂から北峰を登り袋田の滝に下山するルートを選択しました。

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 月居城址(南峰頂上)です佐竹藩の時代にここに城があったそうです。平らに整地された跡が残り山城の面影を残しています。

201011fukuroda_008_2  幕末、1864年に有名な水戸藩の天狗党はこの場所に1千名程度が集結したそうです。

 天狗党は京都に向けてこの大子町から出発したそうです。

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201011fukuroda_032  双耳峰の鞍部(峠)の北峰取り着きの場所に月居山光明時観音堂と鐘楼があります。

この観音堂の歴史は古く9世紀初頭のようで、11世紀には奥州征伐で遠征する源義家がこのお堂で宿営したそうです。又、運慶の観音様が納められているそうです、が、観音堂を覗いたのですが、見えませんでした。

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 観音堂からの眺めです。この日は快晴で見事な眺めでした。

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 観音堂から月居山北峰への登山路です、急な石段が続いています。

 参考 マイフォト 袋田の滝と月居山トレッキング 写真集

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中欧4カ国紀行 その18 ウイーン 美術史美術館(5)

 承前 中欧4カ国紀行 その17 ウイーン 美術史美術館(4)

 代表的な絵画は既に紹介しましたので、最後に幾つかの絵画を紹介して終わりにしたいと思います。

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吉原先輩の絵画展

 承前 吉原先輩の絵画展(2009年)

 今年も吉原先輩の絵画展がありました。同期の浦川どんと三軒茶屋まででかけ、そのあと新橋で同期の宴会となりました。

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  『白峰三山(夜叉神峠)』 南アルプス、右から北岳、間ノ岳、農鳥岳です。

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 『名古木の棚田』

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 『早春の渋沢丘陵』

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 『麦秋の菩薩』

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近代国家と国境

 最近、日本では島の領有を巡り近隣国と摩擦が表面化している。日本は島の領有を巡り台湾、中国、韓国、ロシアとくすぶり続けており、戦後の自民党は結果的に、棚上げをして臭いものに蓋をするような態度をとってきた。政権交代により隣国は新しい政権がどんな態度をとるか探りをいれてきたのではないだろうか。

 近代国家は国境を線で引き明確にする文化・文明である。しかし、私は曖昧な地域が存在して何が悪いか、不思議に思っている。歴史を振り返ると、琉球国は中国にも冊封し、薩摩にも冊封する国であり貿易で国が成り立っていた。対馬だって日本と中国の国権が衝突したとき最悪の事態を避ける為に公文書を偽造して難を逃れた事実がある。

 近代国家が成立する前には海を生活の場とする海人と呼ばれる人々が陸上の国家間を行き来し潤滑油となっていた。東シナ海から黄海、対馬海峡、済州島、対馬、等々には海人と呼ばれる人々が多く生活していた。瀬戸内海の水軍も同じく陸上の国家に属さない自由の民でありました。ヨーロッパの中世の時代のバイキングも同じジャンルの人々ではないでしょうか。

 実は陸上にもこの海人と同じ国家に属さない人々がいました。遊牧民と呼ばれる人々です。この遊牧民は世界史に於いて重要な役目をした事実があります。それは、ユーラシア大陸の西と東で古代国家を崩壊させ中世の国家を誕生させたと言われています。西では4世紀から5世紀にかけてフン族が西に移動しゲルマン民族の大移動を起こし西ローマ帝国は崩壊し封建社会である中世の国々を誕生させた。

 東では2世紀の頃に漢帝国が崩壊し新しい中世の中国が生まれたと考える学説は京都学派の人々です。東大の学派では唐王朝の崩壊から宋の王朝の誕生の頃を中世の始まりと考えるようですが、何れにせよ遊牧民が引き金を引いた事は確かである。

 第二次世界大戦のあと、中東やアフリカでは幾何学的な国境線と国が誕生した。中東では石油利権がからんでいるので、より複雑だが元来、彼らは遊牧民のDNAを引き継ぐ人々であり、宗教の対立が論評されているが、真の問題は彼ら遊牧民の自由な国境線に縛られる事に対する反撃ではないだろうか。自由を掲げる民主主義の国々に対して自由な移動を求める人々との対立が原点にあるような気がする。皮肉な事だと思う。

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韓国 安東・百済・ソウル紀行 その8 百済大典

 承前 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その7 錦江(白馬江)・皐蘭寺

 韓国では現在、百済大典というイベントを公州(熊津)と泗沘(扶蘇山、落花岩の対岸)に於いて開催されています。百済中期、末期に都が置かれた場所です。今回は、末期に都だった泗沘(即ち扶蘇山、白馬江付近)の王興寺址の近くに12年の歳月をかけて建設された、歴史テーマパークを訪問した。テーマパークには泗沘宮や陵寺が再現され百済文化に触れる事が出来ます。3年前に来た時は何もありませんでした。百済の歴史は韓国では冷たい仕打ちを受けていたと思います。

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 百済王宮の正陽門の再現でしょうか。泗沘宮であるとすればこの場所の白馬江対岸の場所にありました。現在は聖王の銅像が建っているあたりです。この場所の少し東の場所には飛鳥寺のモデルとなった王興寺址があります。(王興寺を建設した技術者が半年後には飛鳥を訪問し飛鳥寺を建設しました。飛鳥寺は元興寺と命名されているが王興寺と名前も似てますね。)

 マイフォト 韓国 扶余 百済大典 写真集

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 陵寺の再現です。五重塔が聳えていますね。飛鳥寺は王興寺を建設後に露盤博士や瓦博士、その他技術者が飛鳥に行き飛鳥寺建設に尽力した。ヤマト王権と百済の深い関係が判ります。

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 百済金銅大香炉の模型ですが、1993年に扶余の陵山里寺址の工房址で発掘されました。高さ61.8センチで龍の上に蓮の花が開きその花の上には神仙の山があり、一番上には鳳凰が立っています。これは、私の解釈では百済が南朝(長江文明)の影響を受けたからではないかと思います。龍は黄河文明(北朝)の象徴であり鳳凰は長江文明(南朝)の象徴であるからです。

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 派手な色彩ですね、飛鳥時代の五重塔はこんな色彩だったのでしょうか。平城宮の大極殿は確かこんな色彩でしたね。

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中欧4カ国紀行 その17 ウイーン 美術史美術館(4)

 承前 中欧4カ国紀行 その16 ウイーン 美術史美術館(3)

 16世紀末から17世紀初頭に活躍したフランドルの画家ルーベンスの絵の紹介です。

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 『エレーヌ・フールマン、毛皮のコートをまとった画家の女』

 ルーベンスは1626年に最初の妻を亡くします、1630年に友人の妹エレーヌ・フールマンと結婚しました。美しい妻を描いた作品です。この作品は16世紀初頭の画家ティツィアーノの作品『毛皮のコートをまとう婦人』をルーベンスは模写しており、この絵を土台に妻を女神にしたてて描いたのではないかと言われています。それでは、そのお手本となったティツィアーノの作品を観てみましょう。

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 ルーベンスの模写絵はクイーンズランド美術館に展示されています。けど、奥さんを描いた方が肉感的ですよね。ついでに、ティツィアーノの絵をもう一枚ご紹介します。

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 『ダナエ』 ダナエとはギリシャ神話に登場する王アクリシオスの娘だそうです。そしてゼウスに愛されたという。スペイン王フェリペ2世の依頼で16世紀中葉に描かれたものです。

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袋田の滝と月居山トレッキング 無事終了

 恒例の爺さん4人組の今回の温泉と山歩きの旅は袋田の滝と月居山トレッキングでした。快晴に恵まれ、素晴らしい旅となりました。詳細は後日、記録を認めますが、取りあえず無事に帰還しました。

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 袋田の滝は日本三大名滝の一つだそうです。4段の豪快な滝には驚きました。下山しながら、紅葉が始まった木漏れ日から眺める滝も格別でした。

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 月居山の山頂ですが、昔はここに山城が存在していたのです。佐竹氏の時代のようです。

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 下山途中で眺めた袋田の滝の一番上流の部分です、廻りは紅葉が始まっています。

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 観音堂から眺めた袋田の街と近くの山々の眺めです。

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2010年赤とんぼ秋合宿 晩秋の白馬村 岩岳散策

 承前 2010年赤とんぼ秋合宿 八方尾根トレッキング(3)

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 岩岳の山小屋周辺はススキの原が拡がっています。山小屋管理人はやおらススキの根元から引き抜き、根本近くの葉っぱを取り外し、大空めがけて投げました。夕日の空に放物線を描いて飛んで行きました。子供の頃に還る、ひととき、が赤とんぼの合宿なんですね。

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 山小屋近くの「うば百合」も枯れ果ててしまいしたが、しっかりと種を蓄えています。

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 岩岳のスキー場です、夕闇迫るスキー場には誰も居ません。あと数日で雪に覆われ、沢山のスキー客が各地から押し寄せ、賑やかになるでしょうね。この静寂が気持ちいいです。

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 又、山小屋管理人がススキを投げるようですよ、ホンマ子供みたいですね。

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 八方尾根にも夕日が沈みそうですね。もうしばらく、歩いてみましょう。

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中欧4カ国紀行 その16 ウイーン 美術史美術館(3)

 承前 中欧4カ国紀行 その15 ウイーン 美術史美術館(2)

 『デイエゴ・ベラスケス』の絵画のご紹介です。

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 『薔薇色の衣装のマルガリータ王女』(三歳)

 写真が少しピンボケで申し訳ありません。有名なスペイン国王フェリペ4世と後妻のマリアーナ・デ・アウストリアを父母とするマルガリータ・テレサ 3歳の時の絵です。スペイン国王からオーストリアのハプスブルク家に見合い写真(絵画)として送付されたものです。

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 『白い服の王女マルガリータ・テレサ』(五歳)

 マルガリータが5歳に成長した時のベラスケスが描き、オーストリアに送付したものです。本当に可愛いですね。

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 『青い衣服を身に着けたマルガリータ王女』(8歳)

 1666年彼女が15歳の頃に予定通りオーストリアの神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚し皇后となります。旦那は父の従兄であり、母の叔父という血が濃い結婚です。彼女は4人の子供を産みますが3人を1歳までに失い、唯一人の子供だけが生き残りました。そんな彼女も22才の若さでこの世を去る。そんな、彼女の生涯を考えながらこの絵を眺めていると何処か美人薄命の感傷が襲いますね。

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中欧4カ国紀行 その15 ウイーン 美術史美術館(2)

 承前 中欧4カ国紀行 その14 ウイーン 美術史美術館(1)

 『ブリューゲル』の絵画群

 ウイーン美術史美術館の目玉はブリューゲルの絵画群です。16世紀中葉のフランドル地方(オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部)の画家であり、息子二人も画家として活躍し孫まで画家一族として活躍したそうです。

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 『農民の婚宴』という絵画ですが、貧しい農民の婚礼祝いの模様を描いています。主役はグリーンの幕の前に座る少し太った女性です。婚礼の時だけ髪を垂らす事が許されたそうです。隣に座るのはお母さんでしょうか。右端に座る偉そうな人はこの地方の領主さんだそうです。

 真中に立つ二人はバグパイプのような楽器を抱えています。運ばれる粗末な皿に入るプリンか粥か不明ですが、食料を早く食べたそうに眺めています。ブリューゲルはお茶目な画家で皿を運ぶ前の人の足を三本描いています、見落としがちです。(笑)

 地べたに座り込んだ子供が皿を舐めています、貧乏が伝わるようですね。ブリューゲルは農民の画家とも呼ばれ、愛情溢れる気持ちで貧しい農民の生活を描いています。ガイドさんの説明では、その気持ちが床に落ちた孔雀の羽根に表現されていると言います。神が祝福を与えている表現であると説明されていました。此処は花嫁の家のようですね、お婿さんは呼ばれていません。

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 有名な『バベルの塔』です。ノアの大洪水のあと生き残ったノアの子孫は奢り、天に届くような塔の建設を始めました。怒った神は人々が話す言葉を違えるようにして会話が出来ないようにして、塔の建設を失敗させました。多言語の起源についての旧約聖書の内容です。建設途中のバベルの塔の内部まで詳細に描いているのが印象的です。そして、崩壊が始まっています。

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 『雪中の狩人』ですが、厳冬期の犬を沢山連れて狩りに行く場面を描いています。村の人々は氷りついた池の上で何をしているんでしょうか。魚を捕ろうとしているのでしょうか。不気味なカラスが木の上にいます、遥か彼方の山々は雪を被りまるでアルプスの山々のようです。厳しい冬の農民の生きる姿を描こうとしたと想像します。

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中欧4カ国紀行 その14 ウイーン 美術史美術館(1)

 承前 中欧4カ国紀行 その13 ウイーン シェーンブルン宮殿

 ハプスブルグ家が欧州に君臨した400年間に蒐集された美術品が展示されている。必見の美術館の一つです。何回かに分けてご紹介したいと思います。

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 マリアテレジアの像を挟んで自然史博物館の前に美術史美術館は建っています。

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 ハプスブルグ家はオーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギー、オランダを領土としていました。参考 公式サイト(英語版)

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 19世紀末に美術館専用の建物として建造されました。豪華な大理石をふんだんに使用した建物です。天井ドームも凄いですね、可憐です。

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 天井画はムンカーツィーの『ルネサンス賛歌』が描かれている。

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