韓国 安東・百済・ソウル紀行 その8 百済大典
承前 韓国 安東・百済・ソウル紀行 その7 錦江(白馬江)・皐蘭寺
韓国では現在、百済大典というイベントを公州(熊津)と泗沘(扶蘇山、落花岩の対岸)に於いて開催されています。百済中期、末期に都が置かれた場所です。今回は、末期に都だった泗沘(即ち扶蘇山、白馬江付近)の王興寺址の近くに12年の歳月をかけて建設された、歴史テーマパークを訪問した。テーマパークには泗沘宮や陵寺が再現され百済文化に触れる事が出来ます。3年前に来た時は何もありませんでした。百済の歴史は韓国では冷たい仕打ちを受けていたと思います。
百済王宮の正陽門の再現でしょうか。泗沘宮であるとすればこの場所の白馬江対岸の場所にありました。現在は聖王の銅像が建っているあたりです。この場所の少し東の場所には飛鳥寺のモデルとなった王興寺址があります。(王興寺を建設した技術者が半年後には飛鳥を訪問し飛鳥寺を建設しました。飛鳥寺は元興寺と命名されているが王興寺と名前も似てますね。)
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陵寺の再現です。五重塔が聳えていますね。飛鳥寺は王興寺を建設後に露盤博士や瓦博士、その他技術者が飛鳥に行き飛鳥寺建設に尽力した。ヤマト王権と百済の深い関係が判ります。
百済金銅大香炉の模型ですが、1993年に扶余の陵山里寺址の工房址で発掘されました。高さ61.8センチで龍の上に蓮の花が開きその花の上には神仙の山があり、一番上には鳳凰が立っています。これは、私の解釈では百済が南朝(長江文明)の影響を受けたからではないかと思います。龍は黄河文明(北朝)の象徴であり鳳凰は長江文明(南朝)の象徴であるからです。
派手な色彩ですね、飛鳥時代の五重塔はこんな色彩だったのでしょうか。平城宮の大極殿は確かこんな色彩でしたね。
538年百済の聖王は熊津から泗沘への遷都宣言を行います。南下する高句麗と新羅との本格的な戦争に備える為です。ヤマト王権は継体天皇の時代に日本書紀の記述では任那の四つの県を百済に割譲して協力したとあります。聖王はヤマト王権に仏教を伝えました。
百済王家の群集墓も再現されていました、横穴式石室ですが意外と小さいので驚きました。日本の終末期古墳でももっと立派ですよね。
白馬江の向こうの山は扶蘇山です、例の落花岩のある百済の山城の場所です。3年前に此処を訪れた時には何もない百済文化・文明を韓国の歴史では抹消されてしまったと悲しい思いで帰国した記憶がありました。しかし、新しい大統領の元で百済文化・文明が見直され始めた事に感慨です。歴史テーマパークという形態ですが、週末は10万人も訪れるという話を聞き、百済文化に触れた韓国の多くの人々が、本物の歴史遺物が残る飛鳥に来てくれる事を願っています。
七支刀です、4世紀に百済の皇子からヤマト王権の物部氏に贈呈された刀ですが、今は奈良は天理の石上神宮で収蔵されています。金象眼で文字が刻まれており、百済とヤマト王権の関係の深さが判ります。
現在平城遷都1300年祭が行われていますが、是非、韓国の百済大典と連携した飛鳥のお祭りも考えた方がいいと思いました。週末に10万人人も観光客が来るのであれば、是非、飛鳥にも足を延ばされては如何と思いました。(商売人jo君の意見です)
参考 国宝 七支刀 謎の4世紀
参考 百済の歴史(1)
参考 百済の歴史(2)
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