明日香紀行(3) 石像物の謎を巡るの段(酒船石遺跡編)
伝飛鳥板蓋宮跡の東方の丘陵上には有名な酒船石がありました。丘陵の頂あたりに鎮座し左右は割られています。
『酒船石』については今まで数多くの説が唱えられています、未だに謎の儘であります。これまでの説を御紹介はしませんが、割られたのは多分、高取城を築く時に採石場として利用されたのでしょうね。酒を造る装置であるとか、薬を作る装置とか、色んな仮説が今まで提示されて来ましたが、今だ謎の儘です。
河上邦彦氏は占いの装置であると仮説を述べています。詳細な説明は省きますが、此処には建物があり貴族達が集まり、自分の盃を浮かべ水を注ぐ事でその盃が何処に流れて留まるかで遊んだのではないかと述べています。面白い説としては、以前、紹介しました小川光暘氏の人身御供の祭壇説です。 参考 酒船石関連記事
作家の松本清張さんは、斉明天皇がゾロアスター教を信奉されていたと考え、麻薬の製造に使用されたのではないかと説を展開されていた記憶もあります。謎ですね。
実はこの丘陵は石垣に取り囲まれていたという事実です。写真は石垣の一部です。日本書紀に斉明天皇2年の条に『宮の東の山に石を累ねて垣とす。』『石の山丘』に符合するのではないかと考えられています。
斉明天皇の『両槻宮』ではないかという考えもあるようです。
平成4年に発掘された水の祭祀跡と考えられる施設です。酒船石の丘陵北斜面の谷の底の場所から写真のような施設が発掘され世間を驚かせましたね。
砂岩湧水施設から、湧水を取り、小判型の石造物に水を導水しています。上澄みの綺麗な水は下の亀形石造物に漉された綺麗な湧水が注ぐ装置であります。亀ではなく、スッポンであるという考古学者もおられますが、私はスッポン論を支持しています。
斉明天皇が皇極天皇として即位されていた頃から天変地異が多く起こり、旱や旱魃が多発し民は苦しんだという、そんな責任は全て天皇にありこの場所で水の祭祀を行われたと考える。現地のビデオでは亀形石造物に女帝は入り祭祀をしてる風景が描写されていました。
南北溝と石段があります。祭祀の時に中大兄皇子もこの階段に立っていたのでしょうか。この遺跡は斉明朝(7世紀中頃)から天武朝、文武朝、そして10世紀初頭まで健在であったようです。250年間、水の祭祀場として使用されていたそうです。
遺跡発掘時には、丘の上の酒船石との関係が論議され、導水施設としての酒船石に注目されたが、砂岩湧水施設が見つかり、酒船石とは関係が無いと考えれている。
河上邦彦氏のこの遺跡に対する考えは、亀形石造物はスッポンであると、理由は三点あり、甲羅が円形であり亀は楕円である事、足の指が4本でありスッポンは見た目が二本が鰭の中にあり4本に見える、そして、縁の肉付きの良い尾がスッポンを表現しているという。
この恒常的な設備は、雨乞いではなく、『延喜式』の時代でも残る行事である祈念祭ではないかと推論する。毎年春先に行われ五穀豊穣を祈る水口祭りであると結論する。水源で水の神にその年に水が確保出来る事を祈る祭りだそうです。水が無ければ稲が実らないからです。天皇は日本の農耕の神々を祭る最高責任者だからです。
天智天皇は近江宮に遷都後、山御井(やまのみい)で水口祭りを行った記録が書紀に残っているそうです、この山御井の施設が飛鳥京の時代の酒船石遺跡の施設ではないだろうか。
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