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韓国 安東・百済・ソウル紀行 その6 百済の歴史(2)

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 百済は高句麗と対抗する為に新羅とも連携を模索していた。493年に婚姻同盟を結んでいたが、新羅は依然として高句麗依存の状態が続いていた。しかし、6世紀に入ると新羅は高句麗従属型の外交を脱し、自立の道を進み始めた。百済は新羅を南朝に紹介する仲介を始めるが同時に南朝に対して百済は伽耶諸国も新羅も百済の附庸国として紹介した。

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 百済のこのような南朝に対する外交を巡り、伽耶諸国も新羅も反発し、伽耶諸国は新羅に接近するようになる。その気運に乗じ新羅は喙己呑(とくことん)・卓淳・南加羅(金官加羅)つまり、洛東江(ナクトンガン)中流域の東部と下流域の一部を併合する事となる。武寧王を継いだ聖王は541年、543年に残る主要な伽耶諸国の首長、及びヤマト王権が安羅に派遣していた吉備臣らを召集して、伽耶の復権の為の会議を主宰したが、百済と伽耶諸国・ヤマト王権との思惑が異なり会議は失敗する。

 (泗沘への遷都)

 聖王は538年に熊津から泗沘に遷都する。理由は拡大成長する新羅との対峙と相変わらず南下を続ける高句麗と戦う為に都を整える為である。グーグルアースの写真に当時の泗沘の羅城を巡らせた百済王都の模様を作成しておきました。元の資料は『韓国の古代遺跡 百済・伽耶編』を参考にしました。

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 551年に百済は新羅と伽耶諸国と連合し高句麗を攻撃し漢城(現在のソウル)を回復したが、翌年に急成長した新羅により奪われてしまった。これに対抗し新羅を討とうと進撃した聖王は554年に管山城(クアンサンソン)=忠北沃川(オクチョン)の戦いで逆に新羅に敗北し殺される。百済は滅亡の危機に直面し、逆に新羅は伽耶諸国を併合してしまった。

 聖王は日本に仏教を伝えた王として有名であり、インドから帰国した沙門権益(クオンイク)に『五分律』を翻訳させ、百済の律宗が始まる。梁からは『涅槃教』を取り寄せ、百済仏教の隆盛期を作り上げた王であった。そして、日本に五経博士を派遣している。

 (百済の滅亡)

 581年に中国では隋王朝が全土を統一する。百済も使節を送り上開府儀同三司・帯方郡公に冊封される。中国は次第に安定に向かうが朝鮮半島では相変わらず三国(高句麗・百済・新羅)の確執は続き一層激しさが増した。

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 その後、隋王朝は高句麗との戦闘に疲弊し、唐王朝が興る。唐は最初は三国と共存を考えていたようだが、遂に高句麗を攻撃するようになる。高句麗は百済と連携し新羅を攻めるようになる。新羅の王の金春秋は唐に救援を要請し660年に蘇定方を総司令官とする百済討伐軍を唐は派遣し百済の王都、泗沘城を攻めた。

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 当時の百済王は義慈王であり、即位当初は「海東の曾子」と号し、忠孝を旨とする政治を目指したが連年の戦争に疲れ、荒んで酒に溺れ良臣を失っていた。攻撃を受けた義慈王は泗沘城から熊津に脱出し、残された宮人達は城北の絶壁から白馬江(錦江)に身を投げた。王は熊津で唐・新羅の連合軍に敗れ降伏する。降伏時の百済は37郡、200城、76万戸という大きな国であった。

 その後、百済遺民の抵抗は続きその中心となったのが、鬼室福信であり、彼は日本に在住していた王子である豊璋(ほうしょう)を迎え反抗が始まり一時は旧領域を取り戻した。しかし、内紛が起こり自滅することになる、663年に日本から救援軍が白村江で全滅すると間もなく豊璋の軍も完全に鎮圧され、百済は完全に滅亡した。

 参考 グーグルアース(南扶余)

「Minamipuyo.kmz」をダウンロード

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