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韓国 安東・百済・ソウル紀行 その5 百済の歴史(1)

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 今回は百済の歴史について簡単に概観しておきたいと思います。森浩一さん監修、東潮さん、田中俊明さん編著の『韓国の古代遺跡 百済・伽耶編』(中央公論社)を参考にメモを残します。

 朝鮮半島には紀元前2世紀頃から4世紀頃にかけて馬韓・弁韓・辰韓という国が存在した事は周知の事実であります。馬韓は漢江流域、栄山江流域すなわち現在のソウルから半島の南西部にかけて、韓族の50カ国程度の国々が存在しそれを纏めて馬韓と呼ばれた。洛東江流域には弁韓10カ国程度、辰韓10カ国程度存在し、どちらかというと洛東江下流・中流域に住む韓族の国々を弁韓と呼んだ。(書紀では任那の国と呼ぶ)

 同時に中国の漢王朝は朝鮮半島に楽浪郡、帯方郡を設置して植民地経営を行っていた。百済の前身は漢江下流域に存在した馬韓の1国である伯済(ペクチエ)国であり現在のソウルの漢江南岸地域を中心に存在した。(今は高級住宅地で韓流スターのヨン様もお住まいのあたりから東の河南地域)

 4世紀初めの頃から西晋王朝の内部混乱が起こり中国王朝の朝鮮半島への支配力が弱まる点を突き帯方郡を攻撃し、4世紀半ば頃までに周囲の諸国を併合し領域国家として成長した。近肖古(クンチヨゴ)王の頃には百済国として体裁が整っていたようだ。その頃には朝鮮半島北部は高句麗が勃興していた。神話では百済の始祖は温祚(オンソ)王であり高句麗の始祖王である朱蒙(チョモン)王の子であるとしている。それが事実か不明であるが、そうだとすると中国東北地方に栄えた扶餘(プヨ)族の出自となる。

 百済創建時には帯方郡に在留していた漢人や華北の混乱から逃げて来た漢人も百済建国に参画し寄与したと考えられる。同時にヤマト王権とも緊密な関係を結んでいたと想定される。現在、石上神宮に保管されている七支刀(しちしとう)は近肖古王の太子の近仇首(きんきゅうしゅ)がヤマト王権の王に贈ったものだと考えられている。(彼は14代百済王になる)

  参考 『国宝 七支刀 空白の4世紀』記事 

           『七支刀 関連記事』

 注: 七支刀について宮崎市定さんの本も読みましたが、金象がんの文字の解釈については未だ論争が続いているようです。

 百済の最初の危機は高句麗の広開土王(クアンゲト)が396年に自ら大軍を率いて南下してきた時でした、高句麗の侵攻は凄まじく百済は58カ所の城を奪われ阿花(アフア)王=阿莘王とも言う、は降参し「奴客」となる事を誓ったが、直ぐにヤマト王権に助けを求め高句麗の勢力下に入らすに独立した状態を維持出来た。新羅は完全に高句麗の勢力下に入っていた。

 ヤマト王権に対して王子の腆支(てんし)を人質として送り、阿莘王が死ぬと彼はヤマト王権の軍事力を背景に百済第18代王として即位した。新羅はその後も高句麗従属型の政治を続けたが、百済はヤマト王権と連携し独立を続ける事が出来た。百済は一貫して南朝に使節を送り貢献した。(宋、斉、梁)南朝も北朝との対抗上、特に高句麗の動静を牽制する為に百済を優遇した。

 しかし、475年に百済は遂に高句麗の攻撃を受け、漢城は陥落し蓋鹵王(がいろおう)が殺害されここに百済はいったん滅亡する。しかし、弟の文周は熊津(公州)に逃れ其処で即位し百済を再興した。しかし、政治は安定せずに王の暗殺や重臣の反乱や内部抗争が続く事になる。479年に東城(トンソン)王が即位して以後、ようやく南遷の混乱から立ち直ってきた。

 しかし、王の専制化を急いだ弊害かこの王も501年に暗殺され、北九州の島で生まれた武寧王が跡を継ぎ百済は安定する事になる。武寧王に関しては『日本書紀』の記述が興味のあるところです。『日本書紀』雄略天皇紀5年(461年)の事項として、以下記述があります。

 『日本書紀』より

 百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を人質としてヤマト王権に派遣する時に、ある婦人を与えた、途中で子供が産まれればその子は百済に返すように指示があったという。一行が築紫の各羅嶋(かからのしま、加唐嶋)まで来たところ、子供が生まれたので、嶋君と名前をつけ、百済に返した。その赤ちゃんが武寧王であるという。

 注:実は公州で武寧王陵が発掘され墓誌が発見され、斯麻王(武寧王)が62歳で523年に没した事で日本書紀の記述が正しい事が証明されました。又、武寧王の棺は日本でしか産出しない高野槇の木で作られており、ヤマト王権と深い関係が明らかになりました。又、和歌山県隅田八幡宮所蔵の国宝、人物画像鏡の銘文から503年に継体天皇の長寿を祈り武寧王が鏡を献上したと考えれています。

 という事は、武寧王の父は蓋鹵王という事になりますね。ともあれ、武寧王は積極的に南斉に遣使を送り外交を展開します、そして南下政策を取り始めました。継体天皇6年(513年)の任那割譲4県の記述が今も論争の的となっています。上哆唎(オコシタリ、下哆唎(アロシタリ)、娑陀(サダ)、牟婁(ムロ)の4県、そして次の年に己汶(コモム)、滞沙(タサ)を百済に割譲し全羅南道西半まで領域が広がり、且つ全羅道の大半は百済の領有するところとなった。

 継体天皇から欽明天皇の時期は伽耶諸国を百済と新羅が競って侵略する時期と重なりヤマト王権は朝鮮半島政策で混乱する時期です。

 『参考』

 グーグルアース 武寧王陵

「buneiouryou.kmz」をダウンロード

グーグルアース 加唐嶋

「kakarashima.kmz」をダウンロード

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