平安京と渡来の文化
桓武天皇が遷都された平安京の造営に大きな役割を果たした渡来人の活躍についてメモを残しておきます。京都の上田正昭さんが『古代日本の史脈』(人文書院 1995年)の「秦氏の信仰」、「平安京と渡来の文化」、「京都文化の重層性と世界性」で書かれている内容を引用しておきます。
『平安京の特色』
・1074年間もの長い期間、日本の首都であった。国宝の20%、重要文化財の15%が京都に集中している。しかも特定の時代のものではなく、すべての時代に渡る文化財を含み全時代性の特色を持つ。
・平安京の歴史と文化の内実がすこぶる多様であった。即ち、宮廷(公家)文化、武家文化、町衆(商工業)文化、差別され迫害された被差別民衆文化も京都の歴史と文化の創生と深いかかわりが存在した。文化の多様性が特色である。
・幾多の戦乱や飢饉、流行病に悩まされた歴史であった。古くてしかも、新しい伝統と変革の街としてたゆまなく構築されてきた歴史を持つ。即ち、苦難と血と汗がにじむ歴史であった。
・京都の歴史と文化は国際性(グローバリズム)が保有されている。内なる文化と渡来の文化とが習合し重層して京都の歴史と文化が織り成されて来た。大和魂の言葉が初めて文献に登場するのは、紫式部の『源氏物語』だそうです。
上田正昭さんの話では、式部の大和魂とは『才(ざえ)を本(もと)にしてこそ、大和魂の世に用ひらるる方(かた)も強(つよ)ふ侍(はべ)らめ』と式部は書き、意味は、大和魂とは単なる日本精神ではなく、日本人としての教養や判断力などを大和魂と呼んでいる。才とは漢才(からざえ)を指し、学問論としての才であった。渡来の文化をベースにしてこそ日本の文化は更なる輝きを増すと説いた卓見である、と述べています。
そういえば、紫式部さんのお父さんは漢文に通じた学者で、彼女は子供の時から漢文や大陸の文化を勉強した人でしたね。
『平安京以前の渡来文化』
平安京が建設される以前から京都盆地には渡来の文化と渡来の集団が存在していました。
「秦氏の活躍」(弁韓・辰韓 新羅系)
JoBlogでは今まで何度も秦氏に関する記事は記録しましたが、再度、メモを残します。
・遅くとも6世紀前後には伏見や嵯峨野に基盤を築いていた。太秦(うずまさ)の面影町にある6世紀後半の巨石古墳(蛇塚)は秦氏の首長の墓である。
・秦河勝は聖徳太子から授けられた仏像をあがめ、葛野秦寺(広隆寺)を建立した。秦都利(はたのとり)は701年に松尾大社を葛野に建立した。738年以前に桂川に大堰(おおい)の大土木事業をしたのも秦氏である。伏見稲荷大社を建造したのも、8世紀初めに秦伊侶巨(いろこ)である。
・恭仁京を築いたのは秦嶋麻呂であり、その娘が平安京の初代造京長官の藤原小黒麻呂の奥さんとなり、平安京造営に秦氏が中心になり活躍。平安宮の大内裏は秦河勝の宅とする伝えが『拾介抄』所引の『村上天皇記』に記録されています。平安京の造宮少工には秦都岐麻呂(つきまろ)が活躍しました。長岡京の造営では秦足長(たりなが)=主計頭、太秦公宅守(うずまさのきみ やかもり)=主計介 が活躍した。
・愛宕(おたぎ)郡には奈良時代でも秦倉人らが多数居住していた。
(秦氏が藤原氏の妃に娘たちを送り込み、藤原氏を乗っ取る路線がこの頃から始まったのではないでしょうか。これは、joさんの邪推ですが)
「高句麗系の人々」
・高句麗系の人々もかなり早くから京都盆地には入植していました。特に八坂神社の鎮座する八坂郷のあたりです。八坂造(やさかの みやっこ)らが居住していた。
・洛西の樫原で発掘調査の結果、高句麗の清岩里廃寺跡や定陵寺跡などの八角塔の遺構と同じような遺跡が見つかった。参考 文献(樫原廃寺の再検討)
・京都府南部の山城町上狛(かみこま)の高麗(こま)寺跡は飛鳥時代から平安時代にかけての寺院跡だが、壮大な伽藍は高麗氏が建立した。
「百済系の人々」
・御存知、桓武天皇のお母さんは高野新笠(たかのの にいがさ)で百済の武寧王の血脈を受けた和乙継(わの おとつぐ)の娘さんでしたね。平安京造営の折り、藤原小黒麻呂が死んだあとは、和気清麻呂が造京のリーダーになるが、それを補佐したのが百済系の菅野眞道(すがのの まみち)でした。
・平野神社は高野新笠と山部親王の母子が平城京で祭祀していた今木大神を平安京に勧進したものです。平安京の宮内省には韓神社が鎮座し、文字通り朝鮮半島にえにしの神でした。
・桓武天皇の頃から南北朝の頃まで、皇位継承のシンボルの神器(レガリア)に百済国伝来の『大刀契(たいとけい)』が従来の三種の神器に追加されていたそうだ。『中右記』、『禁秘抄』等々の史書による。
如何に渡来系の人々が平安京造営には活躍したかが判ります。
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Comments
おはようございます。
(少々政治的な話になります…)
>差別され迫害された被差別民衆文化も京都の歴史と文化の創生と深いかかわりが存在した。
京都のこうした人々は、元来朝廷との結びつきが深く、また、“特殊技能”や“特殊能力”があるとされ、ある種“畏敬の念”さえ抱かれていた人々もいたと聞きました。
現在、彼らの存在が、「天皇制打倒」の“プロパガンダ”に悪用されているようで、非常に不安を覚えます。
実際のところ、“士農工商+被差別階級”の身分制度を確立して強固なものにしたのは、江戸幕府だと思います。
現在、意図的に「反天皇制」を意識して煽っている外国の反日活動家も多数いるようで、どうにかならないものかと思います。
また、奈良や平安の貴族、戦国武将などが「我が家は○○の子孫である。」などと、中国大陸や朝鮮半島の名家の名を挙げますが、その多くはデマではないか?と疑っています。
古代、大陸や半島の名家の出である事や異国の流れである事を誇る、というブームがあったように思います。
戦後間もない頃から今日に到るまで、韓国が、殆ど“国策”として、天皇が百済人や新羅人や高句麗人の末裔である事を証明しようと躍起になって来た事実を最近知り、またその尋常で無い“熱気”を知り、少し寒気を覚えています。
ps:同化して「漢」の文化に服すれば、元々違う民族であっても「漢族」になれるという魔法が中国大陸にはありますが、「倭」や「大和(大倭)」も多分そうでしょうね。
Posted by: 俄か古墳マニア | 2010.09.26 06:13 AM
俄か古墳マニアさん おはよう御座います
最近、聞きたくないニュースが多く流れていますね。心中穏やかでは有りませんが、暫く、冷静に構えています。
世界中を旅していると、本当に日本列島という島国連合は世界中を見渡しても、稀有な環境として幸いし、生き残って来たのではないでしょうか。殆どの大陸では、異民族の襲来や移動で、同じ場所で、6000年前から生き残った民族は稀有ではないでしょうか。
日本列島には北から、南から、中国大陸から、朝鮮半島から文化・文明は渡来しました。しかし、其処から先に行く場所が無いので、自然と固有の文化・文明と融合するしか道は無かった。
これが、日本の特徴ではないでしょうか。日本独自の天皇制も世界では類を見ない独創的なシステムだと思います。これを考えた藤原不比等は天才だったのでしょうね。天皇をシンボルとして、国内で最小限の流血で政治権力の変更が出来るシステムだと思います。
最近、DNA考古学を推進されている佐藤さんの本を読んでいて、面白いと感じたのは日本の水稲の種類は長江流域から直接伝播したb型は朝鮮半島には存在しないそうです。
水稲は8種類のDNA分類に類別出来るそうですが、日本にはそのうちa型とb型で殆ど占められるが、中国では全ての型(a~h)が存在し、朝鮮半島ではb型を除く全てが存在するそうです。如何に、日本には限られた少数の稲の種類が伝播したかこれで判るそうです。
私は、明後日から又、百済大典が開催されている韓国への旅にでる予定です。
Posted by: jo | 2010.09.26 07:05 AM