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中欧4カ国紀行 その5 旧市庁舎広場・天文時計

 承前 中欧4カ国紀行 その4 カレル橋

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 カレル橋から世界遺産に登録されてる歴史地区の旧市庁舎前広場に向かいましょう。

中世の雰囲気が残る美しい街です。

 マイフォト 世界遺産 プラハ旧市街とカレル橋 カレル橋の写真のあとに旧市庁舎広場の写真を追加しました。

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 左が旧市庁舎の塔があり正面がティーン聖堂です。ここが大きな広場になっています。

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 旧市庁舎の建物であり有名な中世時代の最高傑作と呼ばれる天文時計です。上の時計が天文時計で、下が暦表盤と呼ばれるものです。

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 これが天文時計と呼ばれるものですが、プラハのオルロイと呼ばれているそうです。製作は1410年ですから足利義満が死んだ時代にあたりますから金閣寺を建てた頃ですね。

 私には難しすぎるので、興味のある人は是非勉強して下さい。真中の青い円形は地球を上の外側の青い部分は地上から観る天空を現すそうですから、太陽の針が今は午後ですから青い部分にあります。外周のローマ数字はプラハの24時間分割の今の時間を示しています。あと12宮とか夏時間補正とか難しい仕掛けが有り私には判りません。

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 これは暦表盤と呼ばれるものだそうで、12時の所に針があり丸の中の絵を見ると種まきの時期を示しているんでしょうか。高島暦を絵で表現した機械仕掛けとでも理解しておきます。廻りの人形は1時間おきに動きます。丁度、夕方6時に再度、この時計を眺めましたのでその時の模様も写真に収めました。暇な人は、マイフォトを参照下さい。

 我が家のアメリカ在住の頃に購入した柱時計にも太陽の顔や月の顔があり回転すのですが、今だ何の事か判らんです。(笑)

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46年前のワンゲルの思い出

 私が青春時代を過ごした大学の体育会ワンダーフォーゲル部は創部50周年を迎えたそうだ。記念に雑誌を出そうという事で、私も幹事から頼まれ同期の担当ページの作成に関与した。

 昨日、ついに完成し昨日自宅に50周年記念特集号の『六甲育ち』が自宅に届いた。『六甲育ち』とは、創部以来、年一度、部活動を報告する関係者だけに配れる雑誌である。内容は殆どが各シーズンに行われる合宿の山行記録であるが、リーダー会による部活動方針やグループでの山行記録(パーワンと呼んでいる、パートワンでリングの略である)や部活動を取り巻く環境に対しての活動報告書である。

 嬉しかったのは、50周年記念特集号だけでなく、今まで過去に発刊された『六甲育ち』がデジタル化されCD ROMが同時に送付されて来たことである。早速、大学1年生の頃からの自分の書いた記事や、先輩・同輩が記録してくれた山行記録と写真を眺めていた。

 46年前です、ほぼ半世紀に近い遠い昔の話なのについ、昨日のように蘇ってきた。それだけ、青春時代の強烈な思い出は脳に焼き付いているのだ。1年生の夏に20キロ以上の荷物を担ぎ、後立山連峰の烏帽子岳のブナたて尾根の急坂の道を登り、雲の平から薬師岳への縦走の記録、途中、雲の平で数日間台風の襲来に耐えた記録は一生忘れない。

 当時の装備は現在ほど優れたものでは有りませんでした。米軍放出のような重いテントを担ぎ、10人前は同時に作れる巨大鉄鍋を亀さんみたいに担ぎ、哀れな格好で山に登っていた。今のように火力の強いホエーブスは高価だし、ガソリンは危険なので、灯油の火気を使用していた。

 問題は最初にノズルを暖める為に、携帯燃料を使用しそれに火をつけるが、テントの中でやると目が痛くなり、大変でした。岩や石ころだらけの所でもテントを張るので、エアーマットを膨らませその上でシュラフザックの中に入り寝た。身動き出来ないような狭い場所で寝るのが普通だった。

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中欧4カ国紀行 その4 カレル橋

 承前 中欧4カ国紀行 その3 世界遺産 プラハ城・聖ヴイート教会

 プラハ城をを後に、丘を下るとモルダウ(ヴルタヴァ)川に出会います。ボヘミヤの王で神聖ローマ皇帝に初めてボヘミヤ王が撰ばれ、このプラハ城がキリスト教国(カソリック)の首都になった話は前回しました。その王が1357年に建立した橋が有名なカレル橋です。

 旧市街からプラハ城へ、モルダウ川を挟んで全長500メータを越える16の石造りのアーチが支える大きな可憐な橋です。60年の歳月をかけて建設したと聞きます。橋の両側には30の聖人の像やキリストの像が建立されており、まさに、プラハ城・聖ヴイート教会への参道として相応しい雰囲気を醸しています。

 モルダウ川左岸のプラハ城から旧市街に向かい歩いてみましょう。

 マイフォト プラハ旧市街とカレル橋 写真集

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 カレル橋のプラハ城 城門を眺めました。丁度、時刻の通知を城門の衛士がラッパを城門の上で吹いていました。

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 モルダウ川とプラハ城の方面を眺めた光景です。川には多くの観光船が行き交っています。

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 水車のある静かな光景です。

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 CDを販売する爺さんと美しいモルダウ川が流れるプラハの光景です。

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平安京と渡来の文化

 桓武天皇が遷都された平安京の造営に大きな役割を果たした渡来人の活躍についてメモを残しておきます。京都の上田正昭さんが『古代日本の史脈』(人文書院 1995年)の「秦氏の信仰」、「平安京と渡来の文化」、「京都文化の重層性と世界性」で書かれている内容を引用しておきます。

 『平安京の特色』

 ・1074年間もの長い期間、日本の首都であった。国宝の20%、重要文化財の15%が京都に集中している。しかも特定の時代のものではなく、すべての時代に渡る文化財を含み全時代性の特色を持つ。

 ・平安京の歴史と文化の内実がすこぶる多様であった。即ち、宮廷(公家)文化、武家文化、町衆(商工業)文化、差別され迫害された被差別民衆文化も京都の歴史と文化の創生と深いかかわりが存在した。文化の多様性が特色である。

 ・幾多の戦乱や飢饉、流行病に悩まされた歴史であった。古くてしかも、新しい伝統と変革の街としてたゆまなく構築されてきた歴史を持つ。即ち、苦難と血と汗がにじむ歴史であった。

 ・京都の歴史と文化は国際性(グローバリズム)が保有されている。内なる文化と渡来の文化とが習合し重層して京都の歴史と文化が織り成されて来た。大和魂の言葉が初めて文献に登場するのは、紫式部の『源氏物語』だそうです。

  上田正昭さんの話では、式部の大和魂とは『才(ざえ)を本(もと)にしてこそ、大和魂の世に用ひらるる方(かた)も強(つよ)ふ侍(はべ)らめ』と式部は書き、意味は、大和魂とは単なる日本精神ではなく、日本人としての教養や判断力などを大和魂と呼んでいる。才とは漢才(からざえ)を指し、学問論としての才であった。渡来の文化をベースにしてこそ日本の文化は更なる輝きを増すと説いた卓見である、と述べています。

  そういえば、紫式部さんのお父さんは漢文に通じた学者で、彼女は子供の時から漢文や大陸の文化を勉強した人でしたね。

 『平安京以前の渡来文化』

 平安京が建設される以前から京都盆地には渡来の文化と渡来の集団が存在していました。

 「秦氏の活躍」(弁韓・辰韓 新羅系)

  JoBlogでは今まで何度も秦氏に関する記事は記録しましたが、再度、メモを残します。

 ・遅くとも6世紀前後には伏見や嵯峨野に基盤を築いていた。太秦(うずまさ)の面影町にある6世紀後半の巨石古墳(蛇塚)は秦氏の首長の墓である。

 ・秦河勝は聖徳太子から授けられた仏像をあがめ、葛野秦寺(広隆寺)を建立した。秦都利(はたのとり)は701年に松尾大社を葛野に建立した。738年以前に桂川に大堰(おおい)の大土木事業をしたのも秦氏である。伏見稲荷大社を建造したのも、8世紀初めに秦伊侶巨(いろこ)である。

 ・恭仁京を築いたのは秦嶋麻呂であり、その娘が平安京の初代造京長官の藤原小黒麻呂の奥さんとなり、平安京造営に秦氏が中心になり活躍。平安宮の大内裏は秦河勝の宅とする伝えが『拾介抄』所引の『村上天皇記』に記録されています。平安京の造宮少工には秦都岐麻呂(つきまろ)が活躍しました。長岡京の造営では秦足長(たりなが)=主計頭、太秦公宅守(うずまさのきみ やかもり)=主計介 が活躍した。

 ・愛宕(おたぎ)郡には奈良時代でも秦倉人らが多数居住していた。

  (秦氏が藤原氏の妃に娘たちを送り込み、藤原氏を乗っ取る路線がこの頃から始まったのではないでしょうか。これは、joさんの邪推ですが)

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中欧4カ国紀行 その3 世界遺産 プラハ城・聖ヴィート教会

 承前 中欧4カ国紀行 その2 チェスキークルムロフ訪問「2」

 世界遺産のチェスキークルムロフを後にして、北に180キロバスで移動です。一度は訪れてみたかった『プラハの春』、スメタナの名曲、交響詩我が祖国『モルダウ』のプラハです。私と同じような年代の人であれば、1968年の夏に突如チェコの民主化運動を弾圧する為に侵攻したワルシャワ軍のプラハ侵攻の記憶があると思います。直後、メキシコオリンピックがあり、体操のプラハ出身のベラ・チャスラフスカ選手の記憶が残っていますよね。彼女も民主化を応援していた一人でした。

 ソビエトの戦車が美しいプラハの街に侵攻する映像は今も忘れる事が出来ません。当時はチェコスロバキアという共産圏に組み入れられた所謂、東ヨーロッパに分類される国でした。私と似たような年代の人には、そもそも「中欧4カ国」なんていう言葉は馴染がないと思います、1993年にチェコとスロバキアは分離独立し民主化された以後は、中欧という言葉が生まれました。今はNATO,EU加盟国であります。

 プラハの地図情報

 さて、今回は世界遺産に指定されたプラハ城と聖ヴィート教会のご紹介となります。プラハ城は世界で最も古くて大きな城と呼ばれていて9世紀には建造されていたそうです。ボヘミヤ国の首都として繁栄しましたが、14世紀にボヘミヤ王のカレル(カール)王が神聖ローマ帝国の皇帝になるに及び繁栄を極めました。

 その戴冠式を始め神聖ローマ帝国の精神的な中心となったのが聖ヴィート大聖堂です。その後はハプスブルク家の支配する大ヨーロッパの中心として栄えました。

 マイフォト 世界遺産 プラハ城・聖ヴイート教会 写真集 約百枚程度の写真を収録しましたので、御参考にして下さい。

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 聖ヴィート大聖堂です。14世紀にボヘミヤ王であり神聖ローマ皇帝のカレル1世が戴冠式や一族のお墓を地下に建造したという。ゴシック様式で建てられている。

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 教会内にはボヘミヤ王の王冠も所蔵されていおり、数年に一度は公開されるそうだが通常は何人もの重要人物が鍵を持ち寄らねば開かない部屋に保管されているようです。

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 見事なボヘミヤン・ステンドグラスが教会の窓を飾っています。有名なミュシャのステンドグラスも観る事が可能です。

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 大聖堂の中の祭壇を眺めます。

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古代史・民俗学関連読書メモ

 海外旅行をすると特に飛行機の中や、滞在先のホテルで暇なので、読書量が増えます。最近読んだ本に関して、感想とメモを残しておきます。

 『古代大和朝廷』 宮崎市定(筑摩書房1988年)

 ・宮崎さんの本との最初の出会いは『アジア史概説』(中公文庫)でした、ベトナムに駐在している時にはこの本を読んでいました。今回の本は20年前に出された本ですので、最近の考古学の進歩により内容面で再考の余地が多い部分があるかも知れませんね。

 ・彼の歴史観で面白いと感じた点が幾つかありました。先ず、ヤマト王権の成立と成長を地中海のフェニキア文明に当てはめ、瀬戸内海の交易路を確保した文明であると比喩されたのは面白いです。吉野の木材を確保し、巨大な船団を組める船を建造し、同時に火力源として吉野の木材資源をヤマト王権の原動力としたという考えです。

 ・ヤマト王権の水軍基地は昭和57年に発掘された和歌山県の鳴滝遺跡であると述べています。吉野の材木を集積し、近接する古代に存在した大池で造船を行ったと述べています。

 ・ヤマト王権の歴史を概観すると、第一次は瀬戸内海の制海権を確保した段階。第二次は内陸部の西日本を制圧した段階と捉えているようです。この第二次で出雲も制圧したと考えているようです。第一次の段階では日本海航路は依然として出雲が制圧していたと考えている。彼の考えは日本海航路は瀬戸内海航路に比較し、危険が多く圧倒的に瀬戸内海航路がハイウエイとして大陸との交易を独占できたと論述している。

 ・古事記に記録する歴代天皇の名前で初代神武さん(カムヤマト イハレビコノ ミコト)から第11代垂仁さん(イクメイリヒコ イサチノ ミコト)までの、名前を分析すると、全ての天皇名にミコトが存在し、ヒコが10回登場し、ヤマトが6回登場すると分析する。ミコト(命)の意味は王という意味であるが、語源は御言であり神託を受けて他人に伝える人という意味である。ヒコはヒメに対応し男性の尊称であるが、日子であり、日の御子、太陽神の分身である事を意味する。ヤマトは地名であり本来はヤマトヒコがヤマトの王という意味である。

 ・第二段階になり、ヒコ集団はタケル集団を制圧する事になります。イズモタケル、クマソタケルとの戦いです、崇神天皇の時代に四道将軍を派遣する話はこの段階を語っている。ヤマトタケルはクマソから奉っられた名前であり、ヤマト王権の名前ではない。

 ・東洋史の中で日本の古代史を位置づける考えは私も同感ですが、神武さんが1~2世紀に活躍し、神宮皇后を卑弥呼と考えるには少し無理があるように思いました。

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纏向遺跡 大型建物跡近接地より多量の桃の種が発掘される

 今年の夏も、纏向遺跡の発掘は再開されていた。昨年、大きな話題を呼んだ大形建物跡の南の部分を発掘中である。先日、この発掘地より2千粒の桃の種と竹ザルが発掘されたと報道が有りました。

 朝日新聞 纏向遺跡から祭祀用? 桃の種2千超 邪馬台国有力候補地

  記事によれば、大形建物跡に近接する南5メータの位置で楕円形の穴(東西約2.2メートル、南北4.3メートル、深さ80センチ)で桃の種2千個以上が発掘されたようです。桜井市教育委員会の考えは祭祀用に桃が使用され、祭祀の後、遺棄されたものと考えているようです。

 同時に、竹ザル6点(直系30~60センチ)、木製の剣、故意に割られた土器片、朱塗りの弓、獣骨なども出土し、いずれも祭祀に関係するものと考えられるとある。記事に拠れば、古代中国の神仙思想では桃は不老不死の象徴であり、魔よけの霊力を持つと考えられ、邪馬台国の卑弥呼の鬼道との関連が指摘されている。

 同志社の辰巳先生の話では卑弥呼が竹ザルに多量の桃を積み上げ祭祀をしたのではないかと述べられている。

 私は、読売新聞の記事を最初に読みましたが、興味を持って記事を読みました。桃と言えば、桃太郎の物語が思い出されます。今年の春に初めてタイ・アユタヤを紀行しましたが、その時の印象は桃太郎の物語のルーツはラーマーヤナ物語にあるのではないかと強く思いました。

 参考 バンコク紀行 その6 ラーマーヤナ物語

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中欧4カ国紀行 その2 チェスキークルムロフ「2」

 承前 中欧4カ国紀行 その1 チェスキークルムロフ訪問記「1」

 それでは、13世紀に建造が始まったという、チェスキークルムロフ城に登ってみましょう。断崖の上に聳えています。

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 急な坂道を登って行きます。難攻不落の城だったのでしょうね。

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 城門を入ると中庭が有ります。門は幾つも存在したと思います。神聖ローマ帝国時代の領邦であるボヘミヤ王国の南の位置にあり異民族の攻撃から守る砦として築かれたと思います。眼下に主要な交通路であるモルダウ川を睨み、神聖ローマ帝国の辺境の砦として重要視されたと思います。

20109wine_118  これは石を綺麗に球体にしたものです。大砲と一緒に展示されていました。直系30センチは有りますね、噂に聞く中世の時代に存在したスーパーガンの大砲の弾でしょうか。青銅で出来た巨大な大砲が存在し、大きな石の砲弾を飛ばしたと何処かで聞いた覚えがあります。

  参考 スーパーガン

 皆さん御存知、チェコは戦前に於いて武器や自動車等々の工業製品に優れた地域でした、確か大正天皇が乗られていた車はチェコ製ですし、自動拳銃や武器はチェコ製が有名でした。ボヘミヤは工業が進化した地域だったのです。それが、戦後、ワルシャワ軍が侵攻しスラブ人を優遇し優秀なゲルマン人の追放と彼らの工業力を壊滅させてしまったと思う。そして、このチェスキークルムロフの街も廃墟とさせ、ジプシー(ロマの人々)が集まる場所となってしまった。

 ベルリンの壁が崩壊し、チェコにも民主化が訪れ、1989年11月にビロード革命の無血革命により、チェコとスロバキアは分離しゲルマンは復権したのだ。そして、荒廃のまま据え置かれたチェスキークルムロフ城と街は中世の美しかった時代を再現するプロジェクトが起こったのだ。

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 この美しい街は世界遺産に登録を契機に復興されたのです。それまでは、荒廃にまかせるままのひどい状況であったそうだ。ロマの人(ジプシー)が多く住みつき、荒れ放題だったという、今でも、この観光地はスリの被害に会う確率がきわめて高いと旅行社の人や現地案内人の人が注意していました。

 マイフォト チェスキークルムロフ(その2) 写真集を掲載しましたので参考にして下さい。

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中欧4カ国紀行 その1 チェスキークルムロフ訪問記「1」

 承前 中欧4カ国紀行から帰国しました

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 2010年9月7日成田発直行便、ウイーン行きに乗り12時間をかけて夕方に到着。夏時間で時差は7時間です。日本は30度を越える猛暑でしたが、ウイーンは最低6度、最高20度程度のまるで冬の気候でした。

 到着した当日はウイーンの街で宿泊し、二日目は北に270キロの距離にある世界遺産の街、チェスキークルムロフを目指し、観光後は再度、進路を北に180キロ移動しチェコのプラハに向かう旅でした。

 世界遺産 チェスキークルムロフ位置情報(グーグルアース)予めグーグルアースのインストールが必要です。

「cesky_krumlov.kmz」をダウンロード

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 日本のテレビでも何回か紹介されており、御存知の方々も多いと思います。チェスキーという言葉はスラブ語でボヘミヤという意味だそうです。チェコの西半分はゲルマン民族のボヘミヤ王国が支配した場所で、東半分はスラブ人が支配したシレジア公国・モラヴィア辺境伯領でした、これは中世の時代です。

 クルムロフという言葉は川が迂回した湿地帯という意味だそうです。写真を見ていただければ判りますが、モルダウ川がΩの格好で大きく迂回しており、写真の上の断崖の上にチェスキークルムロフ城が聳えています。中世から近世にかけてモルダウ川を利用した水運交通は重要でした、この場所に城を構える事で通商を支配したと考えます。

 この場所に城が建造されたのは13世紀のボヘミヤ王国時代だそうです、モンゴルが欧州に攻め込んでこようとしていた緊迫した時期ではなかったでしょうか。日本では鎌倉時代です。先ずは、この写真のタコの頭のように張り出した中央部のご紹介をしたいと思います。

 マイフォト 世界遺産 チェスキークルムロフ写真集(その1)

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 迂回するモルダウ川の岸壁の上に聳えるチェスキークルムロフ城です。この高さから砲撃されれば無事に航行する事は不可能な事が判りますね。随分と関所として通行税を徴収できたと思います。

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 スウォルノスティ広場です。市庁舎もある広場です。廻りの建物は世界遺産に登録の為に随分と修復され、又、中世の時代の再現を試みたそうです。

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 欧州の中世の街を歩いていると、必ず広場にはこのようなペスト(黒死病)終焉記念塔が建立されているのが特徴です。中世の時代には随分とペストが流行し人口が半減したと伝えられています。

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中欧4カ国の旅から帰国しました

本日、中欧4カ国の旅から帰国しました。オーストリアのウイーンに三泊、チェコのプラハに二泊、スロバキアの首都のブラチスラバでは宿泊はせず、ハンガリーのブダペストで一泊の六泊八日の旅でした。

 歴史上欧州を支配したハプスブルク家の本拠地であるウイーン、プラハの春で心に強い印象が残るチェコのプラハ、スメタナの名曲であるモルダウ川の心の景色、そして、我がモンゴル系統の血を引き継ぐハンガリーのブダペスト。ウラルアルタイ語族の北ルートを辿ったフィンランドの人々、南ルートを辿ったハンガリーの人々、蒙古斑点を持つ人々です。

 灼熱の日本から突然に冬のような気候の中欧4カ国を訪問し、衣類の選択には苦労しました。しかし、八日間はあっという間に過ぎ去りました。楽しい旅を過ごして来ました。

 

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 プラハのモルダウ川に囲まれたチェコ最大の美しい街と呼ばれる世界遺産のチェスキークルムロフの街です。

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 プラハの美しい街並みとモルダウの流れです。スメタナの曲が聞こえてきそうですね。

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八ヶ岳 天狗岳西尾根コース登山記

 2010年7月26日~28日の期間、蓼科の古河さんの別荘をベースに入笠山で事前の足慣らしを行い、八ヶ岳 天狗岳西尾根コースを登り唐沢鉱泉に下るルートを踏破しました。

 『八ヶ岳 天狗岳を登って来ました』

 『入笠(にゅうかさ)山 360度展望散策記』

 『天狗岳登山記録 その1(西尾根コース、天狗岳登頂)』

 『天狗岳登山記録 その2(東天狗岳登頂)』

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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行 目次編

 2010年5月31日より8日間の中国西南部の峨眉山・九寨溝・黄龍の旅に出ました。

 『峨眉山・九寨溝・黄龍の旅(企画編)』

 『峨眉山・九寨溝・黄龍紀行から帰国しました』

 『峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その1 成都 大熊猫繁育研究基地』

 『峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その2 中国三大霊場 峨眉山(世界遺産)』

 『峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その3 中国三大霊場 峨眉山(続編)』

 『峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その4 峨眉山 報国寺』

 『峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その5 世界遺産 楽山大仏』

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長安(西安)・北京紀行 目次編

 2010年5月7日より長安(西安)・北京の旅にでました。初めての訪問では有りませんが、長安(西安)何度でも訪問したい古都です。

 『明日から長安(西安)・北京の旅に出ます』

 『長安(西安)・北京の旅から帰国しました』

 『長安(西安)・北京紀行その1 長安・阿部仲麻呂記念碑』

 『長安(西安)北京紀行その2   長安・阿部仲麻呂記念碑(続編)』

 『長安(西安)北京紀行その3  西安・漢陽陵地下遺跡博物館』

 『長安(西安)北京紀行その4 長安城(漢、唐、明 各時代)』

 『長安(西安)北京紀行その5 藍田原人・仰韶文化(半坡遺跡)』

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出汁を引く

  今日は窓から見える新横浜国際競技場は煌々と光がともり、日本とパラグアイのサッカーの試合が始まろうとしています。

 毎日、家政夫をしているが最近は昔のように料理の度に昆布、鰹節から出汁を引かなくなった。しかし、日本料理の基本は出汁にあると信じているので、時折、昆布と鰹節から出汁をを引くようにしている。

 先日、テレビで京料理の専門家が昆布を60度の温度で1時間、そして80度の温度で鰹節を1分程度投入し出汁を引く調理をしていました。昆布は温度を上げると表面に組織保護の膜が出来て旨みが出て来ないそうだ。反対に、鰹節は温度を上げないとイノシンサンが出て来ない、しかし上げ過ぎると魚の嫌な味がでるそうだ。

 日本料理の基本は出汁にあるといいますね、出汁を引くという言葉は旨みを引き出す事らしい。奥が深い言葉が日本料理なんですね。

 世界中を旅していて思うのは、各地の自然環境に沿った美味しい料理を世界中の人々は食べています。結局、人間というのは限られた自然環境の恵みを最大限に利用して生かせて貰っている訳だ。欧州の人々は何故、単位面積あたり獲得出来るエネルギー量が最大の稲作で米を食べないのか不思議でした。

 しかし、現地の大地を見れば判ります、太古は海底であった欧州の大陸は石灰岩の大地です、痩せた国土なのに私はフランスのブルゴーニュで驚きました。小さな玉ねぎ、小さな人参、本当に可哀そうです。子供ん頃勉強したフランスの豊かな農業地という考えは嘘である事を年寄りになって初めて判った。

 所詮は牧草地にして、エネルギー効率の悪い牧畜で生活するしか道は無いとその時に感じました。考えてみると、世界の文明の発祥地は全て、豊かな大河の場所にあります。上流の森から運ばれた栄養分の豊富な河口に文明は開化した。ナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河・長江、全てそうだ。

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筑波山登山と温泉の旅 目次編

 2010年5月18日~19日、爺さん4人組は筑波山を登りました。その時の記録です。

 『日本百名山 筑波山から帰りました』

 『日本百名山 筑波山登山紀行 その1(白雲橋コースを登る)』

 『日本百名山 筑波山登山紀行 その2(白雲橋コース登頂)』

 『日本百名山 筑波山登山紀行 その3(男体山 自然研究路)』

 『日本百名山 筑波山登山紀行 その4(温泉と二日目登山)』

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バンコク・アユタヤ紀行 目次編

 バンコク・アユタヤの旅の記録です。バンコクでは激しいデモが展開している時期でした。

 『週末はバンコクのアユタヤです』

 『明日から暫く休載します』

 『バンコク・アユタヤ紀行から帰国しました』

 『バンコク・アユタヤ紀行 その1 歴史について』

 『バンコク・アユタヤ紀行 その2 龍蓮寺(ワット・マンコン)』

 『バンコク・アユタヤ紀行 その3 ワット・ラカン(鐘の寺)』

 『バンコク・アユタヤ紀行 その4 ワット・スタット』

 『バンコク・アユタヤ紀行 その5 ヒンドゥー教寺院(スリ・アリアマン)』

 『バンコク・アユタヤ紀行 その6 ラーマーヤナ物語』

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中国雲南紀行 目次編(昆明・羅平の菜の花畑)

 念願の雲南を旅する事が出来ました。紀元前に滇王国が栄え漢の武帝から金印を貰った事でも有名です。最近は美しい段々畑に咲く菜の花に人気があります。本当に美しい農村の風景が広がる世界でした。

 『雲南省 滇王国の故郷に出かけます』

 『雲南省 昆明・羅平から帰国しました』

 『中国雲南紀行 その1 羅平のホテルで観た不思議な日本地図』

 『中国雲南紀行 その2  羅平 朝日が輝く菜の花畑』

 『中国雲南紀行 その3 布依(プイ)族』

 『中国雲南紀行 その4 夕日の羅平 菜の花畑』

 『中国雲南紀行 その5 多依河 九龍瀑布』

 『中国雲南紀行 その6 羅平 牛街からの菜の花畑展望』

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三輪山周辺を歩く 目次編

 2010年1月、三輪山周辺を歩きました。

 『笠縫邑を歩く(多神社・秦庄・笠縫神社・秦楽寺) その1(多神社)』

 『笠縫邑を歩く(多神社・秦庄・笠縫神社・秦楽寺) その2(秦庄)』

 『石見鏡作神社 唐古・鍵遺跡を歩く その1(石見鏡作神社)』

 『石見鏡作神社 唐古・鍵遺跡を歩く その2(唐古・鍵遺跡)』

 『石見鏡作神社 唐古・鍵遺跡を歩く 唐古池でみかけたラジコン青年』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その1(概要説明)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その2(大和神社)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その3(萱生(かよう)環濠集落へ)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その4(西山塚古墳)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その6(中山大塚古墳)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その7(柿の森を歩く)』

 

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古代日本列島人の蛇神信仰について その3 隼人と百越人

 承前 古代日本列島人の蛇神信仰について その2 筒と住吉神

 隼人の祖先は海部(あまべ)でありそのルーツは長江下流域に拠点を持っていた稲作と青銅・金属加工の技術を持つ百越(ひゃくえつ)の民であると民俗学の大家、折口信夫は考えていると谷川健一氏は『古代海人の世界』で紹介している。

 漢の武帝が南越を征したあと、飽くなき漢人の誅求を逃れた百越の民は、黒潮に乗り九州西海岸の南と北に辿り着いたという。屋久島沖で黒潮は二手に分かれその一つが北上して対馬海峡に向かい北九州に漂着したのが安曇族であり、南九州に漂着したのが隼人族ではないかと説明する。滝川政次郎氏の説でもあり谷川氏も肯定している。

 中国の江南地方は中国でも金属文化が一番華やかに開化した場所であり、同時に水稲技術も持った民族であった。彼らは又、犬祖伝説を持ち、竜蛇をトーテムとする文身(入墨)の習俗を運んで来た。又、鵜飼の技術も持ち込み日本列島の古代の海部(あまべ)を形成したと考えられる。

 羽原文吉(はばらゆうきち)氏は九州の海人族を宗像系、安曇系、隼人系に分類している。九州から南の島へ移動したのは隼人であろうと考えている。金関丈夫(かなぜきたけお)氏は形質人類学の立場から南九州と琉球とが体質の点で一つの圏をなしていると述べている。

 隼人の言葉と現在の沖縄の言葉の共通点の調査や、考古学的遺物である天平時代の木簡の発見や徳之島の須恵器の窯跡の発掘などで隼人の南下については証拠が固められているという。

 太平洋岸の黒潮に乗り列島を北上した海部の隼人の第1次終着点は伊勢湾であったという。第2次終着点は常陸国であったいう論文が、谷川健一氏の『古代史ノオト』のなかの、「シャコ貝幻想」、「サルタヒコの誕生」で論述されているそうだ。今度、是非、読んでみたいと思います。

 (昨夜のテレビ番組 秘密のケンミンショー)

 私の大好きな番組に『秘密のケンミンショー』という番組があります。昨夜の番組はまさに、長江下流域の百越の末裔が東シナ海を航海し南九州に上陸した人々が太平洋側の黒潮に乗り伊勢湾まで到着した歴史の記憶を放送していました。

 

 

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