46年前のワンゲルの思い出
私が青春時代を過ごした大学の体育会ワンダーフォーゲル部は創部50周年を迎えたそうだ。記念に雑誌を出そうという事で、私も幹事から頼まれ同期の担当ページの作成に関与した。
昨日、ついに完成し昨日自宅に50周年記念特集号の『六甲育ち』が自宅に届いた。『六甲育ち』とは、創部以来、年一度、部活動を報告する関係者だけに配れる雑誌である。内容は殆どが各シーズンに行われる合宿の山行記録であるが、リーダー会による部活動方針やグループでの山行記録(パーワンと呼んでいる、パートワンでリングの略である)や部活動を取り巻く環境に対しての活動報告書である。
嬉しかったのは、50周年記念特集号だけでなく、今まで過去に発刊された『六甲育ち』がデジタル化されCD ROMが同時に送付されて来たことである。早速、大学1年生の頃からの自分の書いた記事や、先輩・同輩が記録してくれた山行記録と写真を眺めていた。
46年前です、ほぼ半世紀に近い遠い昔の話なのについ、昨日のように蘇ってきた。それだけ、青春時代の強烈な思い出は脳に焼き付いているのだ。1年生の夏に20キロ以上の荷物を担ぎ、後立山連峰の烏帽子岳のブナたて尾根の急坂の道を登り、雲の平から薬師岳への縦走の記録、途中、雲の平で数日間台風の襲来に耐えた記録は一生忘れない。
当時の装備は現在ほど優れたものでは有りませんでした。米軍放出のような重いテントを担ぎ、10人前は同時に作れる巨大鉄鍋を亀さんみたいに担ぎ、哀れな格好で山に登っていた。今のように火力の強いホエーブスは高価だし、ガソリンは危険なので、灯油の火気を使用していた。
問題は最初にノズルを暖める為に、携帯燃料を使用しそれに火をつけるが、テントの中でやると目が痛くなり、大変でした。岩や石ころだらけの所でもテントを張るので、エアーマットを膨らませその上でシュラフザックの中に入り寝た。身動き出来ないような狭い場所で寝るのが普通だった。
特に涙が出てきたのは、現役当時に何度も山に連れて行ってくださり、公私ともに面倒を見て頂いた先輩が卒業後若い頃に事故で亡くなれた事だ。先輩と一緒に登った縦走記録を読んでいると涙がでて止まらない。同期の副将をしていた正井君を穂高で失った事も厳しい試練だった。山小屋を同期や後輩、先輩諸氏とともに鹿島槍ガ岳に建設したのも懐かしい思い出だ。
(写真は、卒業後1986年頃に鹿島槍岳の山小屋での再会時。吾朗ちゃんと先輩の(故)石岡さん 三人で山はよく登りました。)
しかし、最近は部員が数名しか存在しないそうだ。われわれの頃は35名程度は同期で入部し最盛期は1年生から4年生で100名程度の部員がいたのは夢のようだという。何で人気がなくなったのだろうか。皆が勉強に忙しいのかもしれないが、どうも3Kのクラブ活動であるという事が理由かもしれない。(きつい、きたない、苦しい)
半世紀前の就職では学生時代に体育会系のクラブ活動経験者は頭が悪くても採用されたような気がする。最近の企業がいけないのかも知れない、即戦力なんていう馬鹿な事を述べる人事担当者が多いと聞く。人は会社で育てるもの、仕事は会社で教えるもの。だと、今でも私は考えています。
10月中旬に創部50周年記念の一泊の集まりがあり、OB/OGが200人以上集まるそうだ。私も飛行機で神戸空港に向かい参加する予定です。懐かしい同期や先輩諸氏、後輩とも再会出来ることが楽しみで、夜を徹して飲み明かす事になるでしょうね。
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