中欧4カ国紀行 その2 チェスキークルムロフ「2」
承前 中欧4カ国紀行 その1 チェスキークルムロフ訪問記「1」
それでは、13世紀に建造が始まったという、チェスキークルムロフ城に登ってみましょう。断崖の上に聳えています。
急な坂道を登って行きます。難攻不落の城だったのでしょうね。
城門を入ると中庭が有ります。門は幾つも存在したと思います。神聖ローマ帝国時代の領邦であるボヘミヤ王国の南の位置にあり異民族の攻撃から守る砦として築かれたと思います。眼下に主要な交通路であるモルダウ川を睨み、神聖ローマ帝国の辺境の砦として重要視されたと思います。
これは石を綺麗に球体にしたものです。大砲と一緒に展示されていました。直系30センチは有りますね、噂に聞く中世の時代に存在したスーパーガンの大砲の弾でしょうか。青銅で出来た巨大な大砲が存在し、大きな石の砲弾を飛ばしたと何処かで聞いた覚えがあります。
参考 スーパーガン
皆さん御存知、チェコは戦前に於いて武器や自動車等々の工業製品に優れた地域でした、確か大正天皇が乗られていた車はチェコ製ですし、自動拳銃や武器はチェコ製が有名でした。ボヘミヤは工業が進化した地域だったのです。それが、戦後、ワルシャワ軍が侵攻しスラブ人を優遇し優秀なゲルマン人の追放と彼らの工業力を壊滅させてしまったと思う。そして、このチェスキークルムロフの街も廃墟とさせ、ジプシー(ロマの人々)が集まる場所となってしまった。
ベルリンの壁が崩壊し、チェコにも民主化が訪れ、1989年11月にビロード革命の無血革命により、チェコとスロバキアは分離しゲルマンは復権したのだ。そして、荒廃のまま据え置かれたチェスキークルムロフ城と街は中世の美しかった時代を再現するプロジェクトが起こったのだ。
この美しい街は世界遺産に登録を契機に復興されたのです。それまでは、荒廃にまかせるままのひどい状況であったそうだ。ロマの人(ジプシー)が多く住みつき、荒れ放題だったという、今でも、この観光地はスリの被害に会う確率がきわめて高いと旅行社の人や現地案内人の人が注意していました。
マイフォト チェスキークルムロフ(その2) 写真集を掲載しましたので参考にして下さい。
城はルネッサンス様式やバロック様式の建造物が混在し長い年月の歴史を語りかけています。
先ほど触れました、ロマ(ROMA)の人々はジプシーとも呼ばれているが、現地のテレビでBBC放送を観ていると現在、EUの大きな問題となっているようです。流浪民の歴史は古く、北インドからアフリカ北岸ルート、及びヨーロッパ大陸を西に流浪して来た民であるそうです。彼らはテント村を作り独自の生活をするそうです。音楽や街中での土産販売、金属加工製品の販売、等々を行うが、犯罪行為に走る人々も多いというのが各国当局者の悩みだそうだ。
現地の案内のチェコの女性は真面目で、この街の歴史を滔々と述べてくれたが、あまり印象には残らなかった。何故この場所が13世紀に重要な場所になったのか、何故、戦後はドイツ人を放逐しなければならなかったのか、何故、ビロード革命以降はこの場所を再度、光を当てようとしているのか私には今だ謎のままだ。
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