中欧4カ国紀行 その1 チェスキークルムロフ訪問記「1」
2010年9月7日成田発直行便、ウイーン行きに乗り12時間をかけて夕方に到着。夏時間で時差は7時間です。日本は30度を越える猛暑でしたが、ウイーンは最低6度、最高20度程度のまるで冬の気候でした。
到着した当日はウイーンの街で宿泊し、二日目は北に270キロの距離にある世界遺産の街、チェスキークルムロフを目指し、観光後は再度、進路を北に180キロ移動しチェコのプラハに向かう旅でした。
世界遺産 チェスキークルムロフ位置情報(グーグルアース)予めグーグルアースのインストールが必要です。
日本のテレビでも何回か紹介されており、御存知の方々も多いと思います。チェスキーという言葉はスラブ語でボヘミヤという意味だそうです。チェコの西半分はゲルマン民族のボヘミヤ王国が支配した場所で、東半分はスラブ人が支配したシレジア公国・モラヴィア辺境伯領でした、これは中世の時代です。
クルムロフという言葉は川が迂回した湿地帯という意味だそうです。写真を見ていただければ判りますが、モルダウ川がΩの格好で大きく迂回しており、写真の上の断崖の上にチェスキークルムロフ城が聳えています。中世から近世にかけてモルダウ川を利用した水運交通は重要でした、この場所に城を構える事で通商を支配したと考えます。
この場所に城が建造されたのは13世紀のボヘミヤ王国時代だそうです、モンゴルが欧州に攻め込んでこようとしていた緊迫した時期ではなかったでしょうか。日本では鎌倉時代です。先ずは、この写真のタコの頭のように張り出した中央部のご紹介をしたいと思います。
マイフォト 世界遺産 チェスキークルムロフ写真集(その1)
迂回するモルダウ川の岸壁の上に聳えるチェスキークルムロフ城です。この高さから砲撃されれば無事に航行する事は不可能な事が判りますね。随分と関所として通行税を徴収できたと思います。
スウォルノスティ広場です。市庁舎もある広場です。廻りの建物は世界遺産に登録の為に随分と修復され、又、中世の時代の再現を試みたそうです。
欧州の中世の街を歩いていると、必ず広場にはこのようなペスト(黒死病)終焉記念塔が建立されているのが特徴です。中世の時代には随分とペストが流行し人口が半減したと伝えられています。
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