古代日本列島人の蛇神信仰について その3 隼人と百越人
隼人の祖先は海部(あまべ)でありそのルーツは長江下流域に拠点を持っていた稲作と青銅・金属加工の技術を持つ百越(ひゃくえつ)の民であると民俗学の大家、折口信夫は考えていると谷川健一氏は『古代海人の世界』で紹介している。
漢の武帝が南越を征したあと、飽くなき漢人の誅求を逃れた百越の民は、黒潮に乗り九州西海岸の南と北に辿り着いたという。屋久島沖で黒潮は二手に分かれその一つが北上して対馬海峡に向かい北九州に漂着したのが安曇族であり、南九州に漂着したのが隼人族ではないかと説明する。滝川政次郎氏の説でもあり谷川氏も肯定している。
中国の江南地方は中国でも金属文化が一番華やかに開化した場所であり、同時に水稲技術も持った民族であった。彼らは又、犬祖伝説を持ち、竜蛇をトーテムとする文身(入墨)の習俗を運んで来た。又、鵜飼の技術も持ち込み日本列島の古代の海部(あまべ)を形成したと考えられる。
羽原文吉(はばらゆうきち)氏は九州の海人族を宗像系、安曇系、隼人系に分類している。九州から南の島へ移動したのは隼人であろうと考えている。金関丈夫(かなぜきたけお)氏は形質人類学の立場から南九州と琉球とが体質の点で一つの圏をなしていると述べている。
隼人の言葉と現在の沖縄の言葉の共通点の調査や、考古学的遺物である天平時代の木簡の発見や徳之島の須恵器の窯跡の発掘などで隼人の南下については証拠が固められているという。
太平洋岸の黒潮に乗り列島を北上した海部の隼人の第1次終着点は伊勢湾であったという。第2次終着点は常陸国であったいう論文が、谷川健一氏の『古代史ノオト』のなかの、「シャコ貝幻想」、「サルタヒコの誕生」で論述されているそうだ。今度、是非、読んでみたいと思います。
(昨夜のテレビ番組 秘密のケンミンショー)
私の大好きな番組に『秘密のケンミンショー』という番組があります。昨夜の番組はまさに、長江下流域の百越の末裔が東シナ海を航海し南九州に上陸した人々が太平洋側の黒潮に乗り伊勢湾まで到着した歴史の記憶を放送していました。
尾鷲市は黒潮に面した三重県の漁村でもあります。赤ちゃんの命名の儀式が面白く、布団を巻いた中に赤ちゃんを入れ、顔だけを出して親・親戚が集まり記念写真を撮ります。観ていて思わず笑ってしまいました。そして、もっと驚いたのは近くの邑では赤ちゃんの額に赤い口紅で『犬』という字を書く儀式です。
私のブログを読んでいる人ならもうお判りですね、これは長江下流域の百越の海部(あまべ)の竜蛇トーテム信仰と犬祖伝説が21世紀の日本に残っている驚きの事実です。
布団の巻いた中に赤ちゃんを入れ、顔だけを出した姿はまさに、とぐろを巻いた竜蛇です。額の『犬』はまさに、先祖が犬であるという2千年以上前の記憶を残しているのです。
平安時代でも皇居の門を守るのは隼人でした、彼らは犬の鳴き声が得意であるという記録が残っていますね。これも百越の血筋を引く隼人の記憶ではないでしょうか。
私は神武東征神話は実は隼人に代表される海部の物語ではないかと思います。何で神武さんは、不便な熊野灘から山を乗り越えてヤマトに入らないといけないのか不思議でした。北九州に漂着した百越の海部の人々は安曇族として日本海沿岸を北上し新潟・秋田あたりまで到達し越(えつ)の国を建国した可能性があります。
私の生まれ育った招堤村の近くには隼人庄もあります、かぐや姫伝説のある場所であり、竹から生まれた物語は南方の説話の色彩が濃いです。20年程前に、かぐや姫の伝説のルーツを求めて台湾からフィリピンまで取材旅行した事がありました。そうそう、上野の西郷さんの像で犬を連れている姿も隼人の記憶なんでしょうかね。明治維新は神武東征神話の再現だったのかも知れない。
漢の武帝は南下を続け、雲南省の滇王国まで手を伸ばしました。滇王が貰った金印の鈕は北九州の奴国王の金印の鈕と同じ蛇であるのも以前に記録しました。百越の人々は黒潮に乗り九州の南岸と北岸に到着し稲作や金属文化をもたらした。南に新天地を切り開いたのが今のハノイを中心とするベトナムの人々の起源ではないでしょうか。
民俗学というのは本当に面白いですね。
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