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地霊信仰

 夏の高校野球も終わった、若者が高校野球の聖地、甲子園を去る時に甲子園の土を持ち帰る映像が常に流される。これは何なんでしょうか。土地に家屋を建てる時には必ず地鎮祭を行い、土地の神に許しを乞う神事が行われる。江戸時代から、森浩一氏の話では伏見稲荷に参拝した農民は伏見稲荷の土で出来た伏見人形を購入し持ちかえり、自分の田圃・畑に埋める風習が存在した。

 (箸墓古墳と中山大塚古墳の特殊器台)

 ここで、話は3世紀に時代は遡ります、石野博信氏の『邪馬台国と古墳』(学生社)によれば、箸墓古墳の周濠から出土した吉備の影響を受けた特殊器台埴輪と中山大塚古墳から出土した同じく特殊器台埴輪に含まれる砂礫は岡山県総社市加茂遺跡などの、足守(あしもり)川産出の砂礫だという。中山大塚古墳の傍の少し時代があとの西殿塚古墳の特殊器台の砂礫は地元の砂礫だという。

 この話の元は、1985年に発表された奥田尚・狐塚省三氏の論文『吉備型「器台・壺」胎土中の含有物・砂礫とシャモットをめぐって』、田中英夫・奥田尚『奈良県中山大塚古墳の特殊器台形土器』の論文であろうと思います。

 石野博信氏の意見はこの論に対して肯定的である。しかし、箸墓古墳や中山大塚古墳の巨大な埴輪が吉備から運ばれたと考えるのには無理がある。氏は三輪山周辺の粘土に吉備から運ばれた砂礫を投入し二つの土地の土を混合して埴輪を製作したと考えておられるようです。

 『日本書紀』に、崇神天皇の時代に山背の武埴安彦が反乱を起こし、古代最大の内戦と森浩一氏が述べるヤマトとの戦争の時に武埴安彦の奥さんの吾田媛(吾田隼人の女性で戦闘の指揮をとる勇ましい女性)の逸話が興味を引く。彼女は密かに天香具山に行き、そこの土を採り領布(ヒレ スカーフのようなもの)にその土を包み、『これ、倭国の物実(ものしろ)』と叫び、その土に呪いをかけて戦闘を始めたという逸話がある。

 特定の土地の「土」がその国の国土の代わり=物実(ものしろ)、という観念されていたのではないかと考えられる。吉備国が邪馬台国連合創設にあたり大きな役割を果たそうとした時に吉備の土と地元、大和の土を混ぜて埴輪を作る事はあり得る事ではないか。

 更に石野氏は纏向遺跡の3世紀の導水施設は、粘土を水漉し、「物実」としての砂礫を得る施設であった可能性があると述べる。邪馬台国連合国はこの纏向の砂礫を持ち帰り自国の粘土と混ぜて祭祀用の埴輪を作成した可能性を示唆しています。

 (天壇・地壇の思想)

 中国では天円地方の宇宙観が存在します。天は円であり、地は方である。天は陽であり、地は陰という陰陽思想でもあります。『魏書 明帝紀』によれば、景初元年に洛陽の南にある委粟(いぞく)山に円丘(冬至の日に天を祭るところ)を造営したという。そして、注として天の神は皇皇帝天(こうこうていてん)と呼び、方形の丘の神は皇皇后地と呼ぶとある。

 卑弥呼は景初3年に魏に使いを出しており、大夫難升米一行はこの円丘と方丘を観た可能性が高い。倭国乱を鎮めた卑弥呼は弥生の銅鐸の神に代わり、新しい最新の神祭りのヒントを魏から学んだ可能性があります。この話は前方後円墳の創設と深い関わりがある可能性があります。最近は壺宇宙観、道教の影響もあまりかけ離れた考えではなく、同じ考え方ではないでしょうか。

 縄文時代から始まった土器作りの精神世界には土地の霊と深い関わりがあると考えた方が、何故、自分の茶碗は家族の中でも区別するのか、土地の霊から出来ている茶碗ですから、神聖なものなのですね。土地の霊と別れを告げる時は死ぬときです、出棺の時に死者の茶碗を割る行為は土地の霊との別れの儀式だったのかも知れませんね。

 参考 記紀の考古学 古代最大の内戦 武埴安彦戦争

 参考 大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)

 参考 伏見人形と甲子園球児

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