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生目(いきめ)古墳群と大和 

 神武東征の神話は全くの虚構なのか、何らかの歴史的な背景が存在したのか、それは今だ謎のままです。纏向遺跡の発掘で著名な石野博信氏の『邪馬台国と古墳』(学生社)より、「生目古墳群と大和」という論文を御紹介します。

 纏向遺跡で一番重要なのは箸墓古墳です。しかし、この箸墓より古いと考えられる古墳がホケノ山古墳、石塚古墳です。これ等の古墳は箸墓に比較して小さいですが、箸墓古墳に先行する前方部が極端に短く後円武が卵形をしています。寺沢薫氏は纏向型前方後円墳と呼んでいるものです。実はこれと同じ形態をした古墳が南九州に存在するそうです。

 それが、生目(いきめ)古墳群であり塚崎古墳群だそうです。グーグルアースで場所を確認してみましょう。(予めグーグルアースをインストール下さい)

 生目古墳群、塚崎古墳群

「Ikime.kmz」をダウンロード グーグルで南の曽於郡に塚崎古墳が判るようにしてあります。

Photo  出現期の前方後円墳の祖形が纏向以外に存在する事が衝撃なのです。時代も3世紀中葉~4世紀初めの頃と考えられています。そして、不思議な事に生目古墳群、塚崎古墳群には纏向と同じように、箸墓古墳型前方後円墳や、その後の行燈山古墳や奈良北部の佐紀丘陵に存在する古墳群と相似形の古墳も連続して築造されているそうです。

 もうひとつは、橿考研が発掘した大和(オオヤマト)古墳群にある4世紀の下池山古墳の大型の船型木棺の事実です。中国四川省の漢代の船棺とよく似た両端がせり上がる構造の木棺だそうです。

 参考 橿考研 下池山古墳の木棺

Photo_2  この辺りは今年の1月に散策した所です。大和神社(オオヤマト)から山辺の道に向かえば見学する事が出来ます。

 神武東征神話では速吸之門(はやすいのと)今の豊予海峡で水先案内人の海人である椎根津彦(しいねづひこ)と出会い、宇佐、築紫、安芸、吉備を経由して大和に入りました。その功績で、椎根津彦は倭の国造に任命されました。海人が陸地の知事になったようなものでした。その地域は現在の大和神社から下池山古墳、中山大塚古墳、西殿塚古墳あたりと考えます。

 

 纏向遺跡のホケノ山古墳からは、そのくびれ部から大壺が以前に発掘されたが、愛媛県か香川県の系統の大壺と言われている。又、東田大塚(ひがいだおおつか)古墳からは3世紀後半の西部瀬戸内系の壺に愛知県の土器で蓋をした土器棺が出土している。という事は、大和に連合政権が生まれる時に吉備や四国の瀬戸内海沿岸地域の人、西部瀬戸内海の人々、東海の人々も関与したという事になります。

 日向の地に何故、3~4世紀の塚崎古墳群、生目古墳群、そして5世紀以降の西都原古墳群の巨大古墳群が存在したのか、その理由が重要です。石野氏は大陸・朝鮮半島との交易路として山陰ルート、瀬戸内海ルート、日向ルートという多様性を掲げています。何処のルートで反乱が起こっても貿易ルートが確保できる重要性だと説明しています。

 そして、生目の名前に注目しています、崇神天皇の名前はミマキイリヒコイニエであり、次の天皇である垂仁天皇はイクメイリヒコイサチと呼ばれ、どちらもイリが入りイリ王朝(三輪王朝)と呼ぶ人もおられます。どちらも初期大和王権を築いた天皇と考えられているのです。

 参考 大和(オオヤマト)古墳群を歩く その10(感想)

 参考 大和(オオヤマト)古墳群を歩く その1(概要)

 参考 大和(オオヤマト)古墳群を歩く その2(大和神社)

 参考 大和(オオヤマト)古墳群を歩く その3萱生(かよう)環濠集落

 参考 大和(オオヤマト)古墳群を歩く その4(西山塚古墳)

 参考 大和(オオヤマト)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)

 参考 大和(オオヤマト)古墳群を歩く その6(中山大塚古墳)

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

おはようございます。

神武が東征したかどうかは定かではありませんが、下戸の遺伝子地図を見ると、九州北部から関西地方にかけての大量の人の移動が疑われます。

また、意外に感じた事は、“縄文のかたまり”と思われる宮崎県民は、埼玉、千葉、神奈川といった関東各県民よりも、酒に弱い事です。

http://www.nikkei.com/life/living/article/g=96958A90889DE3E2E3EAE5E7E1E2E2E3E2E5E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;p=9694E3E6E2E4E0E2E3E2E4EAE6E2

Posted by: 俄か古墳マニア | 2010.08.28 07:37 AM

俄か古墳マニアさん お久しぶりです

 長江中流域で突然変異で生まれた酒に弱い遺伝子を持つ人々の話ですね。この話は大変興味ある話でした。

 私の父は佐賀県唐津生まれ、母は山形県市内ですが、両親も私も実は酒に弱い体質です。私は特に醸造酒に弱く、日本酒を冷で飲むとてきめんです。

 蒸留酒ならば、有る程度は飲めますがそれほど強くないです。縄文人は酒に強い筈ですよね。

 さて、神武東征神話は何故、必要だったのでしょうね。弥生時代末期までは確かに圧倒的に大陸に近い九州が先進国だった事は理解出来ます。

 鉄資源、鉱物資源(翡翠)、木材資源、等々を求めて東に移動した人々が存在したのでしょうね。

Posted by: jo | 2010.08.28 11:06 AM

はじめまして、けうたと申します。
一つ疑問なのですが最後の十行目のほうで「石野氏は大陸・朝鮮半島との交易路として山陰ルート、瀬戸内海ルート、日向ルートという多様性を掲げています。」と書いてあるのですがこれはどの本を参照したのでしょうか?

Posted by: けうた | 2010.11.29 11:03 PM

ごめんなさい!
上に『邪馬台国と古墳』と書かれていましたね。把握しました。失礼しました!

Posted by: けうた | 2010.11.29 11:04 PM

けうたさん はじめまして

 石野博信さんの話は興味がありますね。今度、現地を訪問してみたいと思います。

 日向隼人、大隅隼人、阿多隼人(薩摩隼人)、甑島隼人と古代呼ばれた海人、海洋民族の活躍については興味があります。

 最近、友人が甑島に興味があると言うので調べているのですが、彼らは、古い、かぐや姫伝説を持っていたそうです。実は、私が生まれ育った場所の近くに、実在のかぐや姫が住んでいたと伝承がる場所が有ります。

 継体天皇が筒城宮を築かれた場所の近くですが、そこに隼人庄が存在しているそうです。隼人が持っていた伝承説話が多く記紀にも掲載されたのかも知れませんね。

Posted by: jo | 2010.11.30 10:31 AM

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