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二つの飛鳥を空から眺める

 飛鳥には河内の飛鳥と大和の飛鳥の二カ所あります、河内の飛鳥は近(ちかつ)飛鳥とも呼ばれ、大和の飛鳥は遠(とおつ)飛鳥とも呼ばれています。大和飛鳥の地に、次々と宮居が造営されるようになるのは推古天皇の豊浦宮以後ですが、それ以前にも飛鳥の宮の伝承はあったそうだ。允恭天皇の遠飛鳥宮、顕示天皇の近飛鳥宮があります。

 上田正昭氏の『古代再発見』の渡来の文化の章で述べられている意見では、以下引用文です{この遠・近を時代の前・後とみるか、距離の遠近とみるかなど、研究者の意見は分かれてくるが、『古事記』にいう近飛鳥宮を河内の飛鳥とする説にはなお捨てがたいものがある。}と述べておられ、私もそう思います。

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 近飛鳥の地は現在の羽曳野市飛鳥ですが、和同年間の頃に地名は好字二字を使用しなかればならない事となり、安宿(あすかべ)と書かれるようになった。飛鳥戸(あすかべ)神社がありますが、本来は百済から来られた昆支王(こんきおう)が祭神であったようです。グーグルアース(予めインストールが必要です。河内飛鳥

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 上田先生の話によれば、藤原不比等の娘で聖武天皇の皇后となった光明皇后の名前は安宿媛(あすかべひめ)と呼ばれ、母の県犬養(あがたのいぬかい)(橘)三千代が河内と深い繋がりがあったからである。不比等自身も乳母田辺史(うば たなべの ふひと)のもとで養育され、田辺氏の本拠が河内飛鳥の地であったそうだ。

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 それでは大和飛鳥をみてみましょう。現在の高市郡がそれに当たりますが昔は今来(いまき)郡と呼ばれていました。渡来系と考えられる蘇我氏と東漢(やまとのあや)氏の本拠であります。彼らは、伽耶・百済系の渡来氏族と考えられています。グーグルアース(予めインストールが必要です。大和飛鳥

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 特に檜隈の地は東漢氏(やまとのあやし)の本拠であり、蘇我氏と運命共同体の氏族でした。推古朝でも蘇我氏と東漢氏の関係は密接で、推古天皇20年に、蘇我稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)(欽明天皇の妃で推古女帝の生母)を、東漢氏の本拠の檜隈の坂合陵(欽明天皇陵)に改葬したのも、東漢氏の画策であると考えられている。

 大和飛鳥の地である高市郡(今来郡)が渡来系の人々が本拠にした記録として、応神天皇の世に、阿智使主(あちのおみ)が、17県の人夫を率いて帰化したとあります。その地は他姓の者が十に一、二だと呼ばれていたという。

 檜隈の地に関し、書紀では雄略天皇2年10月条に「史部(ふひと)」として、身狭村主青(むさの すぐり あお)と檜隈民使博徳(ひのくまの たみのつかい はかとこ)の名前が記録されている。檜隈の民使は阿智使主の子孫であるという。又、雄略天皇14年3月には呉人を檜隈野に安置したという記録もある。檜隈は倭朝廷と密接な関係が存在したようだ。

 継体天皇が尾張連草香(おわりの むらじ くさか)の娘(目子媛 めのこひめ)との間にもうけた皇子は檜隈高田皇子という。即ち宣化天皇であり宮居は檜隈であった。欽明天皇の陵は蘇我氏の力で檜隈に造営されされた。天智天皇により蘇我氏・東漢氏は打撃を受けるが壬申の乱に於いて天武天皇に味方し東漢氏は勢いを盛り返した。

 天武天皇は檜隈大内陵に葬られ、文武天皇も檜隈安古山陵に埋葬された。また、斉明天皇と建王と、孝徳天皇の皇后であった間人皇女が高市郡高取町の越智岡の上陵に埋葬され、天智天皇の娘で持統女帝の姉で天武天皇との間に大津皇子を産んだ大田皇女が下陵に埋葬された。グーグルの私の地図を検索されれば詳細が判ります。

 蘇我氏も東漢氏も物部氏も河内王朝の時代には河内に本拠が存在した事を示しています。概ね応神天皇(神功皇后)が河内王朝を建国する時に朝鮮半島の伽耶・加羅地方から渡来したハイテク技術と大陸の進んだ知識を持った人々であったと思います。河内王朝が滅び、継体天皇の時代から欽明天皇の時代に大和の飛鳥地方に進出したのではないでしょうか。

 グーグルを眺めていると、聖徳太子さんが蘇我氏・東漢氏が独占していた大和と河内を結ぶ幹線である当麻道(竹内街道)に対抗し斑鳩に拠点を移し二上山北側の大坂道(穴虫峠越え)ルートを開拓し河内と大和のルートを確保したのだ。そして、蘇我氏・東漢氏の連合に対して太子さんは秦氏と連合し対峙したと考えられます。

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