ワニ氏と古代ヤマト王権
ワニ氏は和邇氏とも王仁氏とも漢字で表記される事があります。私は子供の頃から近所で馴染であったのは王仁氏の方で、招堤村から山を越えると長尾という場所があり(伝)王仁博士の墓があります。応神天皇の頃に朝鮮半島より渡来し、皇太子の菟道稚郎子(うじのわけいらっこ 悲運の皇太子で宇治天皇とも呼ばれる)の家庭教師をしたという。
論語10巻と千字文1巻をもたらしたと言われている。ワニ氏を招聘したのは、阿直岐(あちき)という朝鮮半島から渡来した一族であり、その後、西漢(かわちのあや)氏、東漢(やまとのあや)氏の祖となった氏族です。漢王朝の時代に楽浪郡、帯方郡に移住していた中国系の氏族ではないかと類推します。
(東大寺山古墳出土鉄刀)
実はこのワニ(和邇)氏の4世紀頃から6世紀の期間、拠点とした場所と考えられる奈良県東部の現在の天理市に4世紀後半に築造されたと考えられる東大寺山古墳が存在します。石上神社の少し北方にあたります。この東大寺山古墳から中平銘が彫られた鉄刀が出土した事は御存知ではないでしょうか。
グーグルアース 東大寺山古墳
この古墳は最近話題です、発掘後半世紀ぶりに報告書がでるという。金関恕氏の思いはいかばかりだったでしょうか。
石野博信氏の意見では、邪馬台国問題を考える時に重要な鉄刀であると述べています。その理由は、中平という年号は後漢の年号である光和の直後の年号だからです。『梁書』で書かれた倭国乱は光和の年号の時代であり、女王、卑弥呼が邪馬台国の盟主として共立された時期がこの中平の年号の頃と考えられるからです。中平は175年~183年の期間ですから卑弥呼共立の時期の鉄刀という事になります。
邪馬台国の所在を確定する重要な証拠物ですが、学会では埋納された古墳が4世紀後半の古墳と考えられるので時代にズレがあり、和邇氏が2世紀後半から4世紀後半まで200年間も何処かで保持していた事にになります。倭国乱の終結により女王として共立された卑弥呼に記念して中国の王朝が直接与えたか、当時の朝鮮半島を支配していた公孫氏から下賜されたものと考えられる。
邪馬台国時代の重要な鉄刀を保持していたワニ氏は滋賀県の琵琶湖東岸を拠点とする日本海ルートに深く関わる氏族です。
(滋賀県守山市伊勢遺跡 大型建物群遺跡)
琵琶湖東南岸に守山市伊勢遺跡に於いて2世紀の弥生時代の大型建物跡群が発見されました。ワニ氏の拠点となっていた場所です。彼らは日本海ルートを利用して若狭湾から陸路琵琶湖北岸に辿り、琵琶湖水路を利用し宇治川を利用、桂川・木津川の合流点から木津川を遡り現在の木津駅のあるあたりから陸路奈良盆地北部に入るルートを抑えていたと考えられる。
本遺跡に関してはMuBlogで記事が書かれていますので、参考にして下さい。
MuBlog 滋賀県伊勢遺跡
JoBlog 滋賀県伊勢遺跡訪問(2012年8月31日記事)
(伝)王仁博士の墓もこのルートにあります、奈良盆地北部に到達する道は昔ワニ坂と呼ばれていたと記憶します。崇神天皇の時代の武埴安彦との戦争の時、ワニ氏は崇神天皇側につきワニ坂を抑えこの道を利用して木津川での激突となりました。
邪馬台国が三輪山周辺に存在していたと仮定すると、ワニ氏は邪馬台国の琵琶湖から日本海を利用する大陸との貿易ルートを確保していた氏族という事になり重要な立場にいたと思います。
邪馬台国にとり琵琶湖から日本海ルートを抑える勢力と連携する重要性について水野正好氏や岸俊男氏の1960年の論文『ワニ氏に関する基礎的考察』で既に指摘されていたそうだ。
(閑話休題)
ところで、最近、出雲から古代史に関して発信されている『いずものこころ』で面白い記事を見つけました。誰も御存知の因幡の白兎とワニに関する面白い解釈です。氏の説明では、「しろうさぎ」とは、「斯盧 宇佐 来」と分解され、斯盧とは新羅の国名です、宇佐は豊前の秦氏一族です 来は今来と同じ用法で最近新たに渡来してきた人々という意味で解釈。新羅出身の宇佐を拠点とする秦氏が因幡の国に渡来して来た事実を現す。彼らを運搬してきた海人はワニ氏であろう、何らかの仲違いが起こり、両氏族の間で紛争が勃発した歴史を語るものである。
これは、面白い解釈ではないでしょうか。
(衣笠のある建物と卑弥呼の居館)
石野氏の話では東大寺山古墳から出土した刀の握りの所に家の形の文様がついた環頭があります、その家は竪穴住居であり門の傍に棒状のものが延びている、これは元々そこに衣笠が存在したのではないかと思うとある。
高貴な人の住居を現すなら、高床式の住居を描くべきなのに、弥生時代からの竪穴住居に高貴な人が住んでいる、多分、卑弥呼は竪穴住居にに住み玄関に衣笠がかけられていたのではないか。
奈良県佐味田宝塚古墳から出土した家屋文鏡というものが有名です。この鏡には衣笠のある竪穴住居、衣笠のある入り高屋(高倉)、切り高屋、平屋の4種類の建物が描かれています。これは4世紀の大和の豪族の建物を象徴的に現している。
参考 家屋文鏡
どうも、卑弥呼は普段は竪穴住居に住み、儀式の時に入り高屋に登り祭祀をしたのではないだろうか。
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