峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その9 九寨溝への道(チベット民族村)
九寨溝は標高2千~3千メータの山奥にあります。平武の報恩寺から急なカーブが続く山道を登ってゆきます。道路は舗装されているが、狭くとても危険な道です。途中はチベット族が住む村を通過してゆきます。チベット民族村が最近、観光の為に整備されたようです。
(写真の女性は白馬蔵族=はくば チベット族の人々です。帽子に白い羽根が特徴です)
ここで、少し中国の古代史に触れてみたいと思います。以前の四川大地震の現場で触れた羌族の村落で少し羌族の歴史に触れました。中国の古代では北に狄族(トルコ・モンゴル系遊牧民)が住み、西に羌族(ビルマ・チベット族の先祖)が住んでいたと考えられています。
中国の最初の王朝と考えられる夏王朝は禹という伝説の皇帝で有名であり、治水の神と称えられています。彼は、羌族ではなかったかと考える研究者が多いようです。以前の西安・北京紀行の西安歴史博物館で触れました。羌族は殷王朝の時代には迫害され、多くの羌族の人々は犠牲になりました。これは、殷墟の発掘で証明されています。
その後、周王朝の設立には再度、羌族は活躍したそうです。彼らは、ヤクとヤギを飼い小麦や蕎麦の焼畑農業を行い各地を遊牧し、ヒマラヤも超えてインド北部までも移動した民族だと考えられています。現在のビルマ(ミャンマー)、チベットの人々の先祖ではないかと考えられています。
ところで、彼らの歴史を研究する人々が注目しているのが巴蜀文明の研究だそうです。
『巴蜀文明について』
中華文明は黄河文明と従来考えられていたが、実はそれよりも早くに長江流域で文明が花開いていたのではないかと考える研究者が増えて来ました。その理由は最新の考古学の成果により、長江中流域で稲作が最初に始まったという事実です。私も今迄、何回も長江文明に関しては記事を書き、最新の考古学の成果を御紹介して来ました。
巴蜀文明の巴とは四川省重慶地域を指し、蜀とは成都地域を指します。中国の人は長江下流域の楚文明に対して中流・上流の地域の文明を巴蜀文明と呼んでいます。巴蜀文明を更に注目させたのは、成都北30キロの三星堆で1986年に発掘された夥しい巨大な奇怪な青銅器群の発掘でした。世界中が驚愕した発掘でした。
チベット民族村は観光の為に作られたような施設ですが、中国政府が随分と気を使っている地域であるんでしょうね。
家庭を訪問させて頂いたが、色鮮やかな民族衣装を着たおばあちゃんと、お孫さんがおられました。
雉の羽根を剝いているところでしたが、子供の頃の北河内の招堤村を思い出していました。当時、ハレの日には鶏を殺すのですが、我が家の家族では出来る人がいないので、近所のお百姓さんに頼んで締めてもらいました。今の子供達はきっとこんな場面には遭遇しないと思います。
羽根を剥いだあと、焚火で表面の毛を焼いたと記憶があります。このあたりは標高2千以上ありと思います、氷雨のような雨が降り始めこれから、まだまだ長い道が九寨溝まで続くのです。
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