« メキシコの美術と民衆の世界 釧路芸術館(7月6日~9月5日) | Main | 2010年度 赤とんぼ『夏合宿』 記録 »

秦氏に関するメモ その7 秦王国の人々の大隅国への移住

 承前 秦氏に関するメモ その6 三輪山、伊吹山、安曇川

 前回は6世紀初頭の継体天皇に関する鉄との緊密な関係について述べました。日本が朝鮮半島の鉄に依存しなくても国内で高品質な鉄鉱石から鉄を作り鍛造する産業基盤が出来た事を述べました。さて、再度、大和岩男氏の『謎の秦王国と古代信仰』に戻りましょう。

 (秦王国の人々の大隅國への移住)

Photo_2

  7世紀後半でも、ヤマト王権にとり南九州は十分に覇権が及ばない地域であったようだ。そういえば、景行天皇の時代のヤマトタケルの熊襲との戦いや、崇神天皇の時代にも山城のタケハニヤスとの内戦の折りにも、奥さんの隼人の吾田媛との戦いがありました。そして、継体天皇の時代にも隼人ではないが築紫の磐井との戦争がありました。

 8世紀の頭の頃、『続日本紀』によれば、大宝二年(702年)に隼人が反乱を起こし鎮圧したという記事があります。そして、和同6年(713年)には新たに大隅国を創設(日向国の4郡を分割独立させ)し豊前の国から200戸(約5000人)を移住させた。この時の豊前の国から移住した人々は秦氏が中心の部族であったと想定される。

 どうも昔から、豊前の秦氏は大規模移住の前から大隅に移住していたようだ。現在の鹿児島神宮,韓国宇豆峯神社のあたり、大隅国国衙が存在した場所に拠点を設けていたようだ。

 大和岩男氏の説では豊前の国の香春神社(八幡神)の神を祭祀をする辛島氏とともに大隅国の稲積(現在の鹿児島神宮付近)に持って来たそうだ。その後、宇佐神宮は大神氏、宇佐氏に祭祀権を奪われ、新たな大隅国の鹿児島神宮(正八幡宮)を八幡神の本拠であると主張したそうだ。

 鹿児島の名前もカゴ+シマと解釈され、カゴは香春と同じ銅を意味しシマは高島、と同じく高台の土地という意味だそうだ。そういえば、継体天皇のお父さんの故郷の琵琶湖西岸の場所も高島といいますね。そうそう、薩摩藩の島津氏も秦氏の一族だそうです。

 鹿児島には最高の山である霧島山に韓国岳(辛国、加羅国)という名前が残っていますね。

 秦氏は大隅国に鹿児島神宮を香春神社と同じく創設し、宇佐神宮は韓国宇豆峯神社として二つの神社を豊前の国と同じように建設した。辛島氏の伝承では八幡神は宇佐郡辛国宇豆高島に天下ったと伝承を持ち、鹿児島の野岡には宇豆峯という場所が残っているそうだ。宇豆とは美称であり高島は高い土地の意味ですから高島=峯と同意だそうだ。

 要は豊前から移住してきた秦氏の人々が祖国の豊前と同じ名前を土地につけ、同じ神社を建設した事になる。鹿児島神宮の東に土着の隼人の神聖な場所がある、石体宮(しゃくたいぐう)という場所です。

 大和王権の指示を受け、新たに南九州に拠点を築いた秦氏は韓国(辛国=加羅国)宇豆峯神社から遥か霧島山を眺め韓国(辛国=加羅国)岳と仰ぎ、故郷である香春(カワラ)岳を偲んでいたと考えられる。

 日本書紀が記録する神々が何故、南九州に集中し、何故、神武東征神話が記録されたのかの謎はこれからである。

 

|

« メキシコの美術と民衆の世界 釧路芸術館(7月6日~9月5日) | Main | 2010年度 赤とんぼ『夏合宿』 記録 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« メキシコの美術と民衆の世界 釧路芸術館(7月6日~9月5日) | Main | 2010年度 赤とんぼ『夏合宿』 記録 »