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秦氏に関するメモ その5 八幡神は秦王国の神(放生会)

 承前 秦氏に関するメモ その4 ヤハタ(八幡神)の神

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 八幡宮の最大の祭事は放生会(ほうじょうえ)であるという。香春岳の銅で作られた神鏡を、香春の採銅所にある古宮(元宮)八幡宮から宇佐の和間浜(わまのはま)まで運ぶ神幸行事である。豊前國の殆どを15日間かけて巡る大行事である。(今は行われていない)

 グーグルアースの衛星写真で巡路を示しましたので、参考にして下さい。これが、秦氏が南下した記憶だと思います。

大和氏は、幡を先頭に神鏡が巡幸したと考えておられ、『魏志東夷伝』に蘇塗の神木に鈴鼓を懸けたとあるが、鈴鼓は朝鮮式小銅鐸でありそれが鏡に変化したと述べる。

 確かに景行紀に景行天皇が九州をを攻める時、豊前の神夏磯(かむなつそ)姫が天皇に恭順の為に船に賢木(さかき)を立て、鏡、剣、玉をつけ「素幡(しろはた)」をたなびかせ参向したという記述が有ります。大和氏の考えはこのような海上で行っていた巡幸を陸上でおこなったのが放生会ではないかと言う。

 八幡神の鏡を作る家は、香春の採銅所の長光氏であるが、八幡宮の最初の祭祀氏族である辛島氏と、赤染氏は同族の秦氏であると言う。

 (豊國奇巫)

 雄略天皇の時代に天皇は病気になった、その時に呼びつけたのが豊前國の奇巫でした。

 『新撰姓氏録』和泉國神別に、巫部(かむなぎべ)連(むらじ)に関する下記の記述がある。

 ・・・・・雄略天皇、御躰不予(みみや)みたまふ。因りて此処に築紫の豊國の奇巫(くしかむなぎ)を召上げたまひて、真椋(まくら)をして、巫を率て仕(つか)へ奉(まつ)らしめたまひき。よりて姓(かばね)を巫部(かむなぎべ)連(むらじ)と賜う。・・・・

 豊國奇巫を率いた「真椋(まくら)」(物部氏)が天皇の病気を治し、巫部連になった逸話である。この豊國の奇巫は秦王国の奇巫であり、我が国古来の巫と違い、道教的要素や朝鮮の巫覡が行う巫術を持っていたから、奇と呼ばれたと想像される。

 豊國の奇巫は和泉國大鳥郡に住み、それを統括したのが物部真椋であった。彼らは本来、秦氏であるが物部氏配下に組み込まれた。しかし、物部氏の祖はニギハヤヒであるが、山城神別にあるように秦忌寸(いみき)の祖もニギハヤヒであり物部氏と秦氏は密接な関係があると考えられる。

 (豊國法師)

 『日本書紀』によれば、用明天皇2年に天皇が病気になられ、治療の為に蘇我馬子が内裏に豊國法師を入れたという記述がある。蘇我馬子は大神比義を秦王国に派遣しその工作をさせた。5世紀の雄略天皇の時代は豊國奇巫が天皇の病気を治し、6世紀末の用明天皇の時代は法師と呼ばれている。豊前國には高度な医療技術が古代から存在しており、河内や飛鳥よりも文明のレベルが高かった事を示唆している。

 大和岩雄氏はこのように大和王権の秦王国への関心の深さが官制八幡神の創祀となったのであろうと推理しておられます。そして、その目的の為に大神比義が豊前國に派遣されたと説く。

 この背景には蘇我氏と物部氏の暗闘が背景にあり、蘇我馬子が秦王国の進んだ文明を利用し早くから秦王国に伝播していた仏教も利用し神祇を独占していた物部氏を壊滅させる政治的な戦略が背景にあった。大神氏と言えば三輪山を祭祀する氏族である。三輪山の祭祀をする氏族が豊前國に派遣され、秦王国の神である八幡神をヤマト王権の神に大変貌させた。

 (大神氏と加羅の関係)

 『日本書紀』によれば、大神神社を祭祀する大神氏(おおみわ)の祖は河内の陶邑の大田田根子(おおたたねこ)と記録している。崇神天皇の時代の疫病蔓延の時の記述ですね、三輪山の神を祀る人を捜し求め陶邑の大田田根子を探しだした記述です。そして、大神神社を祀らせ世の中が平安になった故事があります。

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 陶邑は5世紀前後に加羅(伽耶)諸国から移住してきた人々が住み、日本で初めて1200度の登窯を沢山建造し須惠器の製造を始めた人々です。それまでは、土師器と呼ばれる土器しか日本には存在しなかった。陶邑の須惠器は加羅の陶質土器と同じである事は考古学者が認めている。

 香春神を祭祀していた辛島氏も加羅出身であり、辛島氏の本拠地の豊前國の現在、宇佐市末(スエ)と呼ばれ、大神氏と同じスエで共通する。大神氏は八幡神を祭祀する辛島氏とヤマト王権を繋ぐパイプ役として働いたと考えられます。

 雄略朝の頃の豊國奇巫が住んでいた場所が和泉國大鳥郡、大神氏の祖の大田田根子が河内の陶邑の近くと推定されている。

 (三輪大神の謎が深まる)

 私は三輪の大神は大物主さん即ち、出雲の神さんと考えています。弥生時代から出雲の神さんは三輪山の近くに鎮座され豊かな農耕がなされ、国が繁栄していたと考えています。しかし、その後外来勢力が三輪山周辺に侵入し崇神王朝が生まれたと考えています。しかし、崇神天皇の時代に三輪の大神を再度、大事に祭祀する決断を崇神さんが決定し祭祀者を河内の陶邑から見つけ出した所に昔から疑問があります。

 大田田根子は明らかに加羅(伽耶)出身の先祖を持つ氏族です、という事は出雲の神である大物主さんも加羅(伽耶)出身の先祖を持つ人物という結論が導かれます。洛東江流域で鉄を製造していた人々は豊前國の秦氏であり、同時に出雲國で砂鉄から鉄を製造していた人々とルーツを同じくすることになります。

 今年の春、訪問した多神社と秦庄、そして唐古・鍵遺跡・鏡神社、ヤマトで早くから稲作を始めた人々は加羅(伽耶)と関係が深い人々であったと考えるのが妥当なんだろうか。では、崇神さんとは一体何者なんだろうかと言うのが新たな疑問として登場します。

 参考 笠縫邑を歩く(多神社、秦庄、笠縫神社、秦楽寺)

     同上 その2

     石見鏡作神社、唐古・鍵遺跡その1

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