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秦氏に関するメモ その3

 承前 秦氏に関するメモ その2 香春岳(かわらだけ)と天香山

 大和岩雄氏の本『日本にあった朝鮮王国』を読みながら、メモを作成している。これまでに秦氏は加羅(伽耶)地方から渡来した鉱山・製鉄・製銅に関する特殊な技術を持った集団であり、豊前の国の香春(かわら)岳の三の岳で採銅して精錬を行っていたと結論している。

 この頃は金も鉄も銅も錫も全てが『カネ』と呼ばれていた。古代朝鮮語で『カネ』の事を「カリ」「カル」「カアル」「カハル」と発音されていた。奈良盆地の『天の香山の金をとりて・・・』云々の日本書紀の記録は、本来、「アマノ カグヤマ」ではなく「アマノ カルヤマ」と発音されていたと説明。従い、豊前の『香春(カワル)』と同義となると説明していた。

 軽・香・刈という漢字が当て字として使用されていたという。軽という漢字を使用する天皇では孝徳天皇、文武天皇は軽皇子とよばれていましたね。ヤマトには軽という地名もあり関係があるのかも知れませんね。

 (香春神社=宇佐神宮の元宮・古宮と秦氏)

 加羅(伽耶)の製鉄・製銅に従事する人々が、銅・鉄を産する山を聖なる山として崇拝する事になり、豊前の国に移住して来た彼らは産銅の山である香春岳を神聖な山として崇拝した。香春神社がそれであり、神官三家と呼ばれる赤染氏二家と鶴賀氏である。

 平野邦雄氏の意見では、赤染氏は秦氏と同族であり香春神は銅産神であり赤染とは新羅・加羅系の呪術と考えている。

 鶴賀氏も北陸の地名と同音の角鹿に通じ、加羅国の皇子である都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が現在の敦賀に上陸したと日本書紀の垂仁天皇の事項として記録しているので、やはり、鶴賀氏も加羅系と考えて間違いは無い。

 この香春神社は宇佐神宮の元宮・古宮であり秦氏が香春岳から徐々に南下していった歴史が背景にある。宇佐神宮の神は誉田別命(ほむたわけ)、即ち応神天皇であるが、記紀によれば彼は気比の神と名替えをする。気比の神とは敦賀の気比神宮であり大加羅の皇子であるツヌガアラシトが上陸した笥飯(けひ)の浦にある。敦賀地方には秦氏が多く居住する場所でもある。参考 グーグルアース(気比神宮)

「kehijinngu.kmz」をダウンロード

 河内国大県郡にも赤染氏がおり、彼らは東大寺大仏建立の折り、香春神社の神官である赤染氏や宇佐神宮の神官と組んで大仏建立に深く関わっていた。大仏鋳造の技術集団として秦氏の鋳工、銅工が参加している。特に大仏の銅の分析により長門の依知(えち)秦氏の開発した長登銅山の銅が大規模に使用されている事が判明している。

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決勝トーナメント パラグアイ戦(ベスト8を賭ける)

 遂に今夜日本チームは南米の雄であるパラグアイと戦いがある。日本の蹴球会としては初めてのベスト8獲得を目指す。

 最近、中国の長安を訪れ、始皇帝の兵馬俑坑を観て来たが、紀元前の世界最強と言われた、始皇帝が日本の陣形を見るとどう考えるか、面白そうなので少し考察してみた。先ず、ゴールを守るデフェンスは4バックであり、中央を闘莉王と中沢が守り両サイドを長友、駒野が守る。そしてその前にディフェンシブMFのトライアングルが存在する。

 アンカーは阿部で右翼に長谷部、左翼に遠藤が守りゴールキーパの川島を除くこの7名でゴールを守る陣形である。長谷部、遠藤の役割は攻撃か防御かを決める立場にあり、瞬時に判断出来、且つ、攻撃のチャンスには正確なパスを前線に供給出来なければならない。

 前線は本田を頂点に右翼は松井、左翼は大久保が担当しトライアングルを形成する。相手から見ると△(頂点が本田)、▽(アンカーが阿部)、直線の一(4バック)のような陣形に見える。始皇帝が得意とした陣形は雁行の陣と呼ばれ1号坑が密集歩兵軍団でありデフェンスの直線部隊の4名であり、防御時は7名となる。

 始皇帝は雁行の陣ですから左翼前方に戦車隊・騎馬隊・弩隊(弓)の機動部隊を配置し敵の陣形をサイドから崩し撹乱する役目を持つ。大久保と本田そして、長友も駆けあがる左翼突破の陣形が雁行の陣に似ている。右翼は防御的であり松井、長谷部、駒野が防御である。

 理由はよく判らないが、敵陣を攻撃する時は攻める側からから見ると左翼ら攻めるのが鉄則のようだ。防御側から見ると右翼を攻められるのが弱いようだ。2千年前前からそういう戦い方をしてるので、納得して下さい。

 サッカーの近代戦は全員攻撃、全員防御が主流のようだ、要は切り替え速度が問題となり全員が90分で11キロ程度を走るという。本田選手も3試合で32キロを走ったそうだ。要はオシムさんが言った通り走りながら考えるという事になる。オシムさんの考えが今の代表に遺伝子として伝わっているようだ。

 (代表は関西文化が占拠)

 摂津(本田)と宝塚(岡崎)出身の二人が面白い。若い頃からのライバルらしい。又、監督の岡田さんも大阪の名門、秀才しか入れない天王寺高校出身だ。ただ、岡崎は読売新聞によると中学生の頃からサッカーを教えていた恩師の話では、鼻汁たらしの、はだしでスパイクを履く、勉強嫌いだったようだ。

 遠藤選手は九州出身だがガンバ大阪、大久保選手は豊前の国出身だから秦氏の末裔かも知れないがヴィセル神戸とこれも関西圏で活躍している。松井選手は京都の山科だから宇治の近くだ。これも関西人だ。デフェンスの右翼を守る駒野選手、彼も和歌山出身である事を知っていましたか。熊野水軍の末裔かもしれませんね。

 長友選手は御存知愛媛県西条市出身です。瀬戸内海の男なんです、顔みてても倭寇みたいな海賊風ですよね。という事は、デフェンスの中沢(埼玉)、長谷部(静岡)、川島(埼玉)と関東人3名+ブラジル人の闘莉王の4名が防御をしてる事になる。

 防御は関東人、攻撃と戦略は関西人+九州・四国人という事ですね。

 (八咫烏とサッカー)

 何故、熊野大社が応援で登場しないのでしょうね。さて、そろそろ、戦いが始まります。

(日本敗退する)

 120分間の激闘の末、ゼロ対ゼロでPK戦となる。残念ながら駒野選手が外し、敗退した。

 歴代日本代表のなかで最強のチームだった。4年後、期待しています。最後の方で中村憲剛が登場し素晴らしい活躍をした、目が覚めるようなスルーパスは見事だった。

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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その8 平武 報恩寺

 承前 峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その7 四川大地震震災現場

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 九寨溝に行く途中の山の中に平武県という場所があり、そこに明時代初期に建造された『報恩寺』があります。1446年頃に建造が始まり80年近く建設は続いたようですが、チベットの風俗と中華の風俗が混合したお寺です。

 ガイドさんのお話では、この地方を治めていた王が紫禁城のような宮殿を建てたいと思い立ち建造したそうです。ですから、『山の宮殿』を目指したのですね。しかし、この話が明王朝の皇帝の耳に入り監察使が事実を確認に来るという非常事態が起こったそうだ。そこで、宮殿ではなく、お寺を建造したのだとすれば皇帝の目を逃れる事にして、急遽、お寺に変更したそうだ。

 グーグルアース 平武 報恩寺

「heibuhouonji.kmz」をダウンロード

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 マイフォト 平武 報恩寺写真集(明時代初期の寺院)

写真のように龍の階段は紫禁城にありますね。そういえば、西安・北京紀行で紫禁城の記事を書くのを忘れていました。後日、記事を起こします。

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 このお寺で一番有名なのが大悲殿の御本尊の『千手観音』さまです。本当に手が千本お持ちだそうです。よく無事で文化大革命の時期に破壊されなかったです。この地域はチベット族や羌族の少数民族の地、本当に良かったです。

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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その7 四川大地震震災現場

 承前 峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その6 武侯祠・漢昭烈廟

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 (写真は四川大地震で崩壊した山の斜面です。現在も復興作業がすすむ。)

 成都の北130キロあたりに錦陽という都市があります、そこで一泊し次の日は一路北340キロの山の中にある九寨溝をバスで目指した。凄い山道をバスは走るのですが、途中の牛角という場所で四川大地震の震災現場を通過した。四川省の北西部は殆どが少数民族の自治区でありチベット族が多い。

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 震災現場は羌族(きょうぞく、チャンぞくとも言う)の村落であったが、殆ど全滅しこの2年の間に世界中の支援を受け再建されたようだ。しかし、まだ建設中の場所もある。2008年5月に四川省北西部の汶川(ぶんせん)を震源地としてマグニチュード8の巨大地震が発生し、甚大なる災害をもたらした事は記憶に新しい。

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 見学出来た場所は牛角という場所だが、北北西、南南西の方向に巨大な断層面が走り震源地の汶川を通過する。

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 この地震の原因はヒマラヤやチベット高原を作るインドのプレートがユーラシア大陸を今でも押している事に原因があるという。チベット高原は標高5千メータクラスだが四川盆地は標高五百メータ程度だ。一気に落ち込んでいる。インドプレートに押されたチベット高原は今でも四川盆地の西側から東に移動している。ここに巨大な断層面が北北西に走っている。

 グーグルアース 四川大地震現場(予めグーグルアースインストール必要)

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ワールドカップで参院選挙が霞む

 毎夜、ワールドカップが面白い。昨夜も韓国の試合を観戦した。残念ながらウルグアイに2対1で韓国は敗北した。惜しい試合だった、最初のフリーキックで点が取れなかったのが惜しまれる。しかし、韓国も決勝リーグに進出しアジアの雄として頑張ったと思う。29日は是非、日本選手にパラグアイ戦、南米相手に韓国の仇を取って欲しい。

 今夜はドイツとイングランド戦である、私の予想はドイツが勝つような気がする。組織力と防御の力はドイツが少し上ではないかと思う。アルゼンチンとメキシコの試合も面白そうだ。しかし、朝の3時半に起きれるか、問題だ。予想ではアルゼンチン有利でしょうね。

 そうそう、頑張っていたアメリカがガーナに2対1で負けたようだ。アフリカ勢不振の中で唯一の光がガーナだ。

 という訳で、毎夜忙しい。日本は日本時間で29日夜11時からパラグアイとの決戦である。仏滅の日なのが気になるが、今まで通り頑張ってくれると思う。ホンダは厳しくマークされると思うので、彼を囮にして他の選手で点をとりましょう。

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秦氏に関するメモその2 香春岳と天香山

 承前 秦氏に関するメモその1 『日本にあった朝鮮王国』白水社

 『秦氏の根拠地、香春岳(かわらだけ)について』

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 『豊前国風土記』逸文より

 ・昔、新羅の国の神渡り来りて鹿春(かはる)の郷に住みき。名づけて鹿春の神と曰う。郷の北に峰あり、頂きに沼有り、黄楊(つげ)樹生ひ、又、竜骨あり。第二の峰には銅あり。云々・・

 金達寿氏の調査によれば、福岡県田川郡香春町の「公報かわら」に掲載された江本淡也氏の「渡来人の町香」の文章から以下の結論を述べている。

 ・明治15年の小字名調べから、田川市・郡の彦山地区に「カラクリ」「カラトイワ」「カラウスタニ」「カラガヤ」猪位金地区に「カライケ」「カラハナ」方城地区に「カラノヤマ」「カラサイク」「カラタニ」大任地区に「カラコ」香春地区に「唐土町、唐人池、唐木」勾金地区に「唐川、唐子橋、唐ノ町、唐人原」採銅地区に「カラホゾノ、唐山浦」が存在し、「カラ」「唐」は「加羅(伽耶)」の事だと書く。風土記が出来た頃には加羅(伽耶)の国は滅亡しており新羅の国となっていたので、風土記では新羅の神と記録したと考える。実際、香春神社の祭神は辛国息長大姫大目命で、辛国(韓国=加羅国)の神である事からも実証される。

 中野幡能氏の意見として、地元では香春を「カワラ」と発音し「唐=韓=辛」に通じ、新羅語の『金の村』は「カグポル」と発音するらしい。『日本鉱山総覧』よれば、香春岳からは金・銀・銅・鉛・亜鉛・鉄・石炭が採掘されたそうだ。

 富来隆氏の話では、韓国語のKuri(銅)が香春になったという。(カリ→カル→カアル→カハル)と推測している。『日本書紀』にて『天の香山の金をとりて・・・・』とある記述から香はカグではなくカルではなかったかと推測する。そうすると、豊前の香春(カワル)と同義となる。『古語拾遺』『旧事本紀』では、上記文章が金でなく銅(かね)と書かれている。

 軽・香・刈などがカル・カリの宛て字として用いられた。

 大和岩雄氏は『古事記』の允恭記に軽太子の作った「軽箭」について、「箭の内を銅(あかがね)にせりとあり、軽が銅の意味で使用されている。

 畑井弘氏の研究では、朝鮮語の鉱山を意味する言葉は「カガ」「カグ」「カゴ」と発音されると述べている。

 西田長男氏の意見では天香語山命の名前は「鉱山を指している」と言う。

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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その6 武侯祠・漢昭烈廟

 承前 峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その5 世界遺産 楽山大仏

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 成都は蜀の都、三国志で有名な劉備玄徳と賢臣、諸葛亮(字は孔明)が二人三脚で魏の曹操、呉の孫権と戦った歴史の都です。成都には中国では珍しい皇帝の廟と臣下の祠が同じ場所で祭祀されているのです。劉備玄徳の諱(いみな=死んだあと贈られる名前 例えばイワレヒコは神武というのは日本の一例)は昭烈と命名され、且つ、最初の漢民族の皇帝でしたので漢昭烈と中国人は呼ぶ。故に彼の廟は漢昭烈廟となり劉備玄徳の廟という事になります。

 諸葛亮(孔明)の諱は武侯ですから、彼の祠は武侯祠と呼ばれる訳ですね。この二人の廟と祠は同じ場所に設置され、人々はどういう訳か諸葛孔明が好きなのか、代表して武侯祠と呼ぶ。

 マイフォト 武侯祠・漢昭烈廟写真集

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 詳しくは写真集を観て頂ければ、概略の武侯祠が判ると思います。先ず劉備殿の門を入ると左手に岳飛が書いた『出師の表』石碑があります。諸葛孔明は劉備が死んだあと、自分が戦場に行く前に蜀の皇帝劉禅に残した言葉です。岳飛は涙ながらに書き写したそうですが、最初は楷書。そして行書に変わり、最後は草書に字が変化しています。中国では書の鏡と言われているそうですね。見事に勢いと心がこもった書とされています。

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 劉備殿には皇帝劉備の像と文官14名、武官14名の像が安置されています。有名なのは義の関羽の像と誠貫金石(忠義の心金石を貫く)の張飛の像が目をひきます。

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日本デンマークを破り決勝トーナメント進出

 今日は朝3時半に起き、ワールドカップの日本対デンマーク戦をテレビで観戦した。私が予想した通り24日(現地時間)は大安なので3対1で快勝した。初戦は先勝の日でカメルーンに勝ち、二回戦のオランダは赤口という凶の日でしたので、残念負けた。

 試合開始直後の数分間の試合を見ていて、これでは負けると思った。直ぐに、岡田監督がシステムの変更指示をだし、時間遅延でイエローを貰ったがこれが功を奏した。見違えるように立ち直り、見事なホンダのフリーキックが決まった。相手ディフェンスの間に入った日本の選手が頭を下げその上を無回転シュートがゴールに吸い込まれた。

 二点目の遠藤のフリーキックはデンマーク選手の盲点をついたバナナシュートだった。誰しも数分前にゴールを決めたホンダが蹴ると思ったが、キーパーも少し右に動きそこをキーパーの左隅に吸い込ませた。ホンダが直立不動で動かなかったのが良かった。

 長谷部が自陣内でファールを取られ相手にフリーキックを与えたが、フロンターレのキーパーは一度は止めたが流し込まれ2対1となった。しかし、ホンダの檄が飛び攻める姿勢を崩さず遂にホンダのパスから岡崎のシュートに繋がり決定的な3点目が入った。

 昨夜のイタリアの試合を見ていると、決勝トーナメントがかかる予選3戦目の戦いは凄まじい肉弾戦になると予想していたが、デンマークはフェアープレーを通した。観ていて清々しい試合だった。岡田監督の談話で、彼が今まで中心に置いていた選手(俊輔)の不調が回復せず、全く新しいシステムに変更せざるを得なかった半年位の苦悩を読みとれた。

 ホンダは中田を抜いて日本のエースとなり、世界クラスの逸材として認めさせたそんな試合だった。試合の3点全てにホンダは関わった試合だった。

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秦氏に関するメモ その1 『日本にあった朝鮮王国』白水社

 大和岩雄さんの『日本にあった朝鮮王国(謎の秦王国と古代信仰)』を読んでいるので、メモを残したいと思います。本当に丁寧に調べられておられ、出典も正確で、誰の意見なのかも正確に記録されています。優れた貴重な本だと思います。

 秦氏に関しては私も興味があり昔から調べていますので、研究材料の一つとして、この本で書かれた事をメモとして残したいと思います。そして、私の疑問も記録する積りです。

1.前提となる『朝鮮王国』に対する私の疑問

 この本の出発点は聖徳太子の時代に隋の使節として来朝した裴世清の『隋書 倭国伝』に記録された豊前(現在の大分県)に存在したという秦王国の記述から始まります。『隋書 倭国伝』での記述は

 竹斯(つくし)国に至り、又、東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷洲と為すも、疑うらくは、明らかにする能(あた)はざるなり。又、十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆倭に附属する。

 大和氏は解説で、華夏は中華であり中国を指す。隋使は秦王国の人々を中国人だと聞き、この国は夷洲(台湾)ではないかと思ったと記録した。しかし、それを確認は出来なかった。直木孝次郎氏は秦王国を豊前とみる説である。かれは、中国と似た風俗を持つ朝鮮系帰化人の事であると述べている。又、泊勝美氏の説は同じく豊前説でありその論拠は大宝2年(703年)の豊前国の戸籍から導いている。

 上三毛郡塔里(秦部66)、上三毛郡加目久也里(秦部26)、仲津郡丁里(秦部239)と秦氏が圧倒しているのが論拠である。『新撰姓氏録』によれば、秦氏は、秦の始皇帝の末裔と称し、漢に滅ぼされたあと、朝鮮半島に逃げ、更に我が国に来たと称している。

 大和氏の意見は5世紀前後、所謂、オキナガタラシヒメ、応神天皇の頃(河内王朝)から百年位の年月をかけて洛東江流域の弁韓・辰韓即ち加羅・伽耶諸国にいた人々が断続的に渡来して来た人々ではないかと結論している。彼らは中華風の風俗を持ち、製鉄、養蚕、織物、等々の特殊な技術を持つテクノクラートの集団ではなかったかと述べる。

 そして何故豊前に拠点を置いたかは彼らの製鉄(製銅)に関する理由である事を次回にご紹介します。豊前の香春岳と奈良盆地の天香山に関する面白い話が展開します。

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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その5 世界遺産 楽山大仏

 承前 峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その4 峨眉山『報国寺』

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 峨眉山とともに抱き合わせで登録された世界自然・文化遺産である『楽山大仏』です。

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岷江(びんこう)、青衣江(せいいこう)、大渡江の三っの大河が合流する地点の凌雲山の崖に磨崖仏として建造された大仏です。今から1300年前の唐の玄宗皇帝の時代に洪水を鎮める為に僧海通により建造が始まり90年をかけて803年徳宗皇帝の時代に完成したという。

 『楽山大仏』を船の上から見学しましたが、船着き場は岷江側にありました。少し下ると大渡江と青衣江が合流した大河と合流します、その場所にこれ等の押し寄せる大河を睨みつけるような形相で佇むのが『楽山大仏』なんです。

 マイフォト 世界遺産 峨眉山・楽山大仏 写真集

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 写真は岷江の船着き場ですが、ここから先に見える凌雲山の河に面した崖に巨大な磨崖仏が彫られたのです。

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 高さ71メータありますので、同じ時代に建造された東大寺の大仏の5倍の高さを誇ります。建造当時は13層の建物で覆われていたそうですが、火災で失い今は雨ざらしの状態です。昔は法衣の部分には金箔が貼られ、身体は朱色に塗られていたそうです。

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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その4 峨眉山 『報国寺』

 承前 峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その3 中国三大霊場 峨眉山続編

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峨眉山の山麓に峨眉山最大の寺院である『報国寺』があります。明代に創建され、清の時代に再建された寺院です。伽藍は四天王寺のように山門から直線上に並ぶ構造です。山門→弥勒殿→大雄殿→七佛殿→普賢殿・蔵経楼 となります。

 巡礼者は『報国寺』を基点に峨眉山の寺々をお参りしながら頂上を目指すようです。

 マイフォト 峨眉山 『報国寺』写真集

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 弥勒殿です。

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 大雄殿です、釈迦仏と両側に18羅漢像が鎮座しています。

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 七仏殿です、釈迦牟尼と迦葉が祀られています。

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同窓会 昔のコンテンツの仲間達

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 (写真左から石光さん、小島先輩、jo、松本さん)

 昔懐かしいコンテンツ時代の仲間と横浜駅近くの、崎陽軒本店   中国料理 嘉宮で宴会があった。

 今回の集まりは久しぶりに滋賀から石光さんが東京に来られるというので、幹事役の松本さんが私と小島さんに声をかけてくれました。宴会が始まる前に松本さんと私の同席の時間が長く続いた。彼は、最近購入したアップルのiPadという端末を私にしきりにデモをしてくれていた。印象は値段が1万円以下で重量がもっと軽くなり紙のような柔軟になれば爆発的な端末になるかもしれないと思った。

 石光さんとお会いしたのは彼が未だ金髪にしていた時代で20代前半で慶応の藤沢キャンパスを卒業して間もない頃だった。確か学生時代に国際的なアートに関する賞を獲得して間もない頃だったと記憶している。そして一緒に富士通としては不慣れなコンテンツのビジネスを小島先輩の指揮下で始まった。

 幹事の松本さんはアメリカのサンフランシスコに駐在して貰い主に、アメリカのコンテンツの開拓を担当して貰った。本当にビジネスは厳しい環境だったが、一生懸命頑張った時代だった。

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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その3 中国三大霊場 峨眉山続編

 承前 峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その2 中国三大霊場 峨眉山(世界遺産)

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 これ峨眉山の茶店で売られている中国風茹で卵です。名前は『茶蛋』というそうで、ウーロン茶に塩、醤油、八角その他スパイスを入れて煮たものです。どうも何時煮たのか信用出来ないので、私は食べるのを止めました。

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二日目の峨眉山ですが、早朝はやはり雨で日の出は観れなかったですが、ロープウエイで山頂から接引殿まで下山すると晴れて来ました。峨眉山という名前の由来は山脈が少女の眉の形に似ているところからそう呼ばれたそうです。峨眉山は前漢の時代から道教の寺が建ち始めたようですが、その後、仏教、特に普賢菩薩信仰の山となり最盛期は150以上の仏教のお寺が建造されたそうです。深山幽谷の山ですから修業の場として好まれたのでしょうね。

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 峨眉山は自然・文化複合世界遺産ですから、古代からの信仰の山という面と同時に貴重な自然環境を守ろうという事なんですね。ところが、猿が観光客の食糧を奪い山の中を散らかしているようです。

 マイフォト 中国三大霊場 峨眉山(世界自然・文化複合遺産)写真集

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2010年ワールドカップ予選 激闘その他

 2010年ワールドカップ南アフリカ大会の予選も二回戦目を迎え、大詰めである。昨夜は日本がFIFAランク4位のオランダと対戦した。岡ちゃんの作戦は残り20分まではデフェンス中心で戦い、残り20分で攻撃にでて1点を獲得する戦略だったようだ。

 結果は1対0で敗戦となったが、最少失点で切り抜ける事が出来た。途中で中村俊輔が投入されたが、精彩を欠いており殆ど潰され、パスもミスパスが多く危機を招く結果だった。明らかに世代交代はしたという印象だった。

 4年前のドイツ大会の予選の結果を改めて見直すと、決勝リーグに進めるチームは殆ど失点が少ない事実がある。思い出すのは韓国が勝ち点4を取りながら失点が4もあり残念ながら決勝に出れなかった。ちなみに、日本は勝ち点1で失点が7だった。そういう意味で、岡ちゃんの戦略は間違っていないと思う。

 今回は欧州勢が苦闘している、スペインは敗れるしドイツも負けるし、イングランドも調子が悪い、最悪はフランスだ。韓国は二戦目で大量失点したのが、痛い。しかし、韓国・北朝鮮ともにJリーグで活躍した人が頑張っているのが嬉しい。わがフロンターレのチョン・テセ、キーパーの川島永嗣が頑張り是非、中村憲剛もでて活躍して欲しい。

 予選最後は、24日、デンマーク戦です。引き分け以上で決勝に進出出来る、韓国、オーストラリアともども決勝に行きアジアのレベルの高さを世界に認めさせたい。ちなみに、初戦のカメルーン戦は先勝の日でした。オランダ戦は赤口で凶の日でしたね。しかし、24日デンマーク戦は大安です、必ず決勝に行けると思います。

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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その2 中国三大霊場 峨眉山(世界遺産)

 承前 峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その1 成都大熊猫繁育研究基地

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 成都から南西に130キロ、バスで2時間半の距離に中国三大霊場で有名な峨眉山があります。山全体が霊場であり普賢菩薩を信仰する世界の寺の総本山となります。寺院は26箇所もあり山頂は標高3079メータもあり十方普賢菩薩が頂上に鎮座しています。周りには6千メータから7千メータを超える山々の眺望が楽しめる筈です。

 マイフォト 中国三大霊場 峨眉山写真集

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 普賢菩薩は白い六牙の象に鎮座されているのが特徴です。山は3千種の貴重な植物や2千を超えるこれも貴重な動物が生息する自然に囲まれているのです。

 峨眉山に登るには普通のバスでは行けません、専用のバスが麓に用意されており、そのバスに乗り急峻な山道を2時間近くかけて登ります。専用のバスは終点の雷洞坪という所で止ります。雷洞坪からは自力で約1時間かけてロープウエイの乗り場まで登山が必要です。

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 足に自信の無い人は、百元(約1400円)だせば、二人の人夫が輿に乗せてくれてロープウエイの駅まで担いで連れて行ってくれます。

 我々は残念ながら当日、雨でしたので、視界は悪くガスに囲まれ殆ど視界が利かない登山となりました。

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 途中、野生の猿が多く登山客に悪さをするようで、持ち物は決して外に見せない必要がありました。リュックの外のポケットにペットボトルを入れた人が猿に襲われ、ボトルを持って行かれました。

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 ロープウエイは百人乗りで15分程度で頂上の金頂駅に到着します。山頂駅の傍に私が宿泊した金頂大飯店がありました。流石に、山頂は3千メータですから寒いです。

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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その1 成都大熊猫繁育研究基地

 2010年5月31日より6月7日まで中国は四川省の成都を中心に峨眉山・九寨溝・黄龍紀行をしました。成都と言えば三国志で有名な蜀の国、劉邦と諸葛孔明を思い出し、最近では四川大地震が襲った災害地でもあります。そして、一番有名なのはパンダの生息地が存在するパンダの故郷である事ですね。先ずは、パンダの繁殖センターから旅は始めましょう。

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 マイフォト  成都大熊猫繁育研究基地写真集

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 パンダは中国では大熊猫と呼ばれています。初めてパンダを観ました。本当に可愛いです。よくぞ生き残ってくれたと思います。以前、テレビ番組でパンダの歴史について特集があり興味深く観ていました。彼らは熊の仲間なんですね、元来雑食系で肉を食べていたそうですが、長い氷河期を迎え年中生えていた笹を食べて生き残ったと聞いています。

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 何故、氷河期でも笹が繁茂していたかですが、四川省には5千メータ、6千メータを超える山々が連なり、例えば四姑娘山が有名です。九寨溝や黄龍も連なる連山の一つであります。ベンガル湾から吹き付ける湿った空気がこれ等の高い山並みに衝突し雲を作り雨を降らせます。これが、パンダを救った自然環境だったのですね。

 蜀の国の犬は太陽を見ると吠えると比喩されている程、蜀の国は毎日が曇天で覆われていたと言われます。確かに毎日、青空を見る事は出来ませんでした。

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 可愛い二頭の子供のパンダです、飽きずにず~と観ていました。

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長安(西安)・北京紀行その11 西安の鼓楼・鐘楼と徳發長

 承前 長安(西安)・北京紀行その10 八達嶺長城(万里の長城)

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 都、長安に存在した時を告げる鼓楼です。勿論再建されたものですが、近くにある鐘楼とともに都の人々に時を告げる役目をしました。

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 こちらが鐘楼です。直ぐ近くに存在しているのです。朝、鐘楼の鐘が鳴り響き城門が開いたそうで、夕方になると鼓楼の太鼓が響き城門は閉ざされたという。日本でも、神社や城には時を告げる役目と、緊急時の連絡手段として利用されている。

 日本では飛鳥時代に天智天皇が水時計を建設し時を告げる楼閣を建設しましたね。時間を支配するというのが皇帝・天皇の重要な役目だった訳です。

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 広場では連凧を売る人々が沢山、大空に凧を揚げていました。話を聞くとこれは結構技術が必要だそうです、誰でも簡単に揚げる事は出来ないそうですよ。

流石に、凧を売る人は上手です、建物に引っかかりそうだけど上手く揚げていました。

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 さて、この広場にshinsakuさんが勧めて下さった、餃子の有名なお店である『徳發長』がありますので、昼をそこで頂きました。

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日本百名山 筑波山登山紀行その4 温泉と二日目山行

 承前 日本百名山 筑波山登山紀行その3 男体山自然研究路

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 筑波山温泉ホテルの露天風呂でのんびりです。

 マイフォト 日本百名山 筑波山登山写真集

 筑波山は標高が高くないので気軽に考えていましたが、意外と厳しい登りでした。しかし、新緑が美しく古来信仰の山として守られていた自然は素晴らしいものでした。温泉でゆっくり静養し二日目はケーブルカーを使い再度、筑波山に登り山からの眺めを満喫しました。

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はやぶさの帰還とお通夜の夜

 昨夜は同期入社の町支俊貴さんのお通夜が田園都市線、江田駅近くの葬祭場で行われた。彼の訃報は、てっちゃんや、赤とんぼの山小屋管理人、先輩の福永さんからメールで届いていた。夕方、家族の夕食の準備をして、重い足取りで新横浜から地下鉄で出かけた。

 彼はコンピュータの言語の専門家でした、40年前はCOBOLの開発をしていたと思います。最後は静岡の子会社の社長をしていた。彼との最後の出会いは昨年の恩師、吉原さんの絵画展での再会が最後となりました。

 職場が一緒だった事は今迄に無く、深い同僚としての付き合いは無かった。彼との思い出は1982年の春頃、私がアメリカのシリコンバレーに駐在して間もないころ彼が出張でアメリカに来て、私の家に宿泊し、一緒に過ごした思い出です。その頃、私の家族は未だ日本におり単身赴任しており、大きな家がガラガラ状態で淋しいので、日本からの出張者は私の家に逗留してもらっていた。

 彼から頼まれた書類を段ボールに詰め、サンノゼから川崎工場だったか沼津工場か忘れたが送った記憶が残ります。日本からの出張者には泊めてあげる代わりに、裏庭・前庭の芝生を刈る仕事をして貰った。

 昨夜は時を同じくして、小惑星『イトカワ』から7年ぶりに往復帰還する調査衛星『ハヤブサ』がオーストラリアの砂漠に落下する日でもありました。先日からテレビでは毎日のように『はやぶさ』帰還の話は報道されていた。無人で月より離れた小惑星に到着し再度、帰還してきたのだ。多分NECの技術屋が頑張ったのではないかと想像しています。

 今日の朝のNHKの報道でオーストラリアの空で燃え尽きてゆく『はやぶさ』本体の姿とその傍で命を託したカプセルが一筋の光を放っている姿は感動的だった。町支さんも、会社生活で希望にあふれ世界一のコンピュータを作ろうと燃えた一生とだぶって涙がでました。

 合掌 おつかれさまでした

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ワールドカップが始まる

 昨夜からサッカーのワールドカップが南アフリカで始まった。早速、メキシコ対南アフリカの試合をテレビで観戦した。最初の45分間のハーフはメキシコが圧倒していたので、これはやはりメキシコの勝利であろうと考えていた。しかし、結果は1対1の引き分けだった。南アフリカは先制したがメキシコが同点ゴールを決め引き分けとなった。

 今回の南アフリカで開催されるのは意義があるそうだ、初めてのアフリカ大陸での開催と聴いている。しかし、アジアでの開催も確か2002年に開催された日韓両国での開催が初めての筈だ。フットボールはやはり欧州のスポーツであり、欧州が植民地化した国で盛んになったスポーツだ。

 日本は初戦がカメルーンと戦う予定ですね。2002年の大会で練習地として誘致した中津江村の元村長の坂本休氏(79歳)は現地に応援に出かけ、村では大いにカメルーンを応援するイベントを企画されていると聞きます。このような事は世界を探しても珍しいのではないでしょうか。

 私は先月、西安の兵馬俑坑を訪れていたが、秦始皇帝が東海に浮かぶ神仙の国に徐福の船団を送り出した故事をついつい思いだして、中津江村の人々の報道を眺めていた。島国列島の日本では古来、海の彼方から見知らぬ人々が渡来し新しい観た事もない物に触れ村民に幸せをもたらす舶来思想がDNAに持っているのではないだろうか。

 日本中で誰も知らなかった中津江村を有名にしたのはカメルーンのサッカーチームなのです。村に幸せをもたらした神さんなのかもしれない。想像を逞しくすれば、徐福の船団が漂着した海岸の村では彼らが持参した当時の優れた秦王朝の文物に触れた筈だ。村人は彼らを殲滅する戦いをするのではなく、高度な文化・文明をうけいれた可能性があります。

 日本列島の人々は海の彼方から到来する人々を常に受け入れる哲学を持っていたのではなかろうかと思います。民俗学的に考えても、沖縄や日本列島の各地でお盆に先祖が海の彼方から帰還し又、海の彼方に去る行事が今でも残っています。神は水平線上から到来するのですね。

 実はこの思想というか哲学のお陰で日本は世界で最高の科学技術や文化レベルを身に付けたと思います。大陸では万里の長城を築き異民族の侵入を阻止する城壁の思想が当たり前です。しかし、島国の日本列島では侵略される程の兵馬が一度に海を渡れない。渡来した人々も日本列島で同化するしか道は無かった。

 アメリカは司馬遼太郎の話ではチャーハンの国だと生前言っていました、異民族が同化していない、しかし、日本という島国は他に行き場が無い世界であり、異文化衝突時に化学反応を起こし溶け合わねば生きて行けない世界である。

 ついつい、ワールドカップの話から古代史の話になってしまいました。私も、2002年のワールドカップ開会式と初戦を観戦する為にソウルに飛んだ経験が有ります。スタジアムで偶然に隣り合わせだった韓国の御家族に大変親切にして頂いた想い出は一生忘れない想い出となりました。番狂わせのフランスの植民地だったセネガルがフランスに勝利した瞬間、セネガルの選手全員がグラウンドに精根尽きて倒れた光景だけは今でも鮮明に覚えています。感動的な場面でした。

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長安(西安)・北京紀行その10 八達嶺長城(万里の長城)

 承前 長安(西安)・北京紀行その9 兵馬俑坑その3(銅車馬)

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 北京市内から北に70キロ、八達嶺長城が北から攻める匈奴から守る万里の長城の一部があります。八達嶺長城は明の時代に建造されたものですが、長城の一部は春秋戦国時代から存在したようですね、それを秦の始皇帝が秦・趙・燕の国の長城を繋いだのが本格的な万里の長城の起源だそうです。

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 現在、昔の遺構を含めて万里の長城の規模を言うなら、東は河北省山海関 雄襟万里から西の果ては甘粛省嘉峪関長城までの約8千8百キロと中国では発表しているようです。昔の長城は版築工法で土塁を固めた低いもので、蒙古馬が乗り越えられないように設置されたものです。しかし、8千キロとは東京・北京が1千キロ、東京・ニューヨークが7千キロですから気が遠くなる距離ですね。

 マイフォト 八達嶺長城写真集

 今回は、八達嶺長城の南に延びる城壁(男坂)を登る事にしました。北に延びる城壁は女坂と呼ばれ比較的傾斜が緩いのが特徴です。尾根筋に長城が築かれており、入口が尾根筋の一番低くなった場所なのです。

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 八達嶺は南北に延びており、西側から匈奴が攻めてくる訳です。北京という首都を守る為に明時代に築かれた八達嶺は版築工法で固めた土塁とレンガ(磚せん)で防御されています。城壁の上部には一定の距離毎に兵士溜まりがあります。西側には弩を射る為の窓が開かれています。

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長安(西安)・北京紀行その9 兵馬俑坑その3(銅車馬)

 承前 長安(西安)・北京紀行その8 兵馬俑坑その2(2号坑、3号坑)

 始皇帝陵の封土の西北40メータ離れた場所で銅車馬坑が発見された。始皇帝陵が建設された時は封土の下に存在したものだが、長い年月の間に農民が陵縁を削ったものと思われる。長方形の木槨(6.8×2.1+2m)内に2両の銅車馬が前後に並んで埋められていた。ともに実物の1/2の大きさで4頭立ての車馬が部品の細部に至るまで精巧に組み立てられていた。

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 1号銅車馬の発掘時の状況写真です。

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 2号銅車馬の発掘時の写真です。

 両銅車馬についての詳細なデータはマイフォト 驪山陵(兵馬俑坑)写真集に記録してありますので、参考にして下さい。

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 この銅車馬の歴史的意義について岳南氏は以下のように記録しています。

『この車馬と御者は全部青銅で鋳造され、手綱、面繋(おもがい)などの馬具及び馬の頭にある装飾品は金で作られています。全部で3462の部品から組み立てられ、そのうち、金の部品は700あまり、3キログラム以上、銀の部品は900あまり、4キログラム以上になる。

 これは中国は勿論、全世界で発見されたもっとも早い時代の、もっとも整った、もっとも華麗な古代銅製の車馬である。車の屋根が楕円形で、囲いが正方形という構造様式は、天が丸く、地が四角という当時の宇宙観を反映し、これに乗る時、あたかも天と地の間に座っているという考え方をしめしている。』

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 車は1本の轅(ながえ)の先端に短い横木の衡(くびき)がつき、それに2つの軛(やく)がついているので、4頭のうちの内側の2頭が服馬として、軛にとりつけられて車を牽き、外側の2頭は添え馬(驂さん)であるらしい。

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 銅車馬の入っていた木槨は大きな遺構の一部であり、同じような木槨がその南側に4つ並んでおり、それらを納めている坑は北の方に伸びているという。最近の報告では新しく18台の銅車馬が発見されたそうだ。始皇帝が東方巡守した時は数十台の車で行ったと思われるので、銅車馬が20台になっても不思議ではない。その中には始皇帝の乗った金根車(きんこんしゃ)が特別な車として含まれているかも知れない。

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長安(西安)・北京紀行その8 兵馬俑坑その2(2号坑、3号坑)

 承前 長安(西安)・北京紀行その7 秦始皇帝陵 兵馬俑坑その1

 前回は兵馬俑坑の第1号坑(本体の密集歩兵軍団)について記録しましたが、今回は本体の左舷前方に陣形を組む機動部隊である第2号坑の説明と後方に位置する軍を指揮する軍幕(帷幄いあく)である第3号坑について記録します。

 先ず第2号坑の機動部隊と考えられる軍団について話を進めます。詳しくはマイフォトの写真集を参照して頂ければ、詳しく写真と解説を樋口隆康氏の『始皇帝を掘る』、及び岳南氏の『秦始皇帝陵の謎』、鶴間和幸市の『ファーストエンペラーの遺産』を参考に記録しました。 マイフォト 驪山陵(兵馬俑坑)写真集

20105xianbeijin_627  左の写真は2号坑の軍団の配置図です。写真集で解説しましたが、以下の内容です。

左前方のブルーの方陣は第1陣(真中に160名の跪いて弩を射る兵士とその周りを固める立射俑172名が方陣を組む) 右舷茶色の軍団は第2陣(戦車部隊であり8輌戦車が8列並ぶ)
左舷後方の赤の軍団は第4陣であり戦車6輌と騎兵108名が並ぶ軍団 左舷右側後方の青の軍団は第3陣であり、車・歩兵・騎兵の三者からなる混成部隊であり戦車19輌 歩兵264名 鞍馬8匹が3列の過洞内に並ぶそして別に指揮俑の乗った車1輌が左後方に位置する。

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 この本体左舷前方に位置する構えは雁行の陣と呼ばれ機動部隊(弩隊・戦車隊・騎馬隊)として敵の側面から先ず跪いて強力な弩で銅箭鏃の雨を降らせます。そして跪いて弩を射る兵士を守るのが立射で弩を射る兵士が囲みます。戦車隊、騎馬隊が敵の陣形を撹乱し第1坑の本体である密集歩兵軍団が敵を粉砕させる陣形であります。そして、建設途中で放棄された第4号坑(第2号坑の後に布陣する部隊=中軍)の部隊が最後に敵をせん滅させる役割だった考えられている。

 兵馬俑坑の発掘により無敵の軍団と呼ばれた秦の軍団の具体的な内容が判明したのが歴史的な成果でした。戦車隊は4頭の馬が木製の戦車を牽くのですが、真中の2頭の馬が戦車を牽く役目で両脇の馬は戦車を牽いていません。岳南氏の解説では時代を同じくしたカルタゴのハンニバルの『斜陣法』と類似している戦形ではないかと指摘しています。ハンニバルがアルプスを越えローマ軍に4万足らずの歩兵と1万の騎兵で8万以上のローマ軍を破った『カンネーの戦い』でもハンニバルは1万の重装備騎兵が敵の側面を突き撹乱させ更に背後を突いた戦い方は秦の軍団の形態と類似すると指摘しています。

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 第3号坑は軍を指揮する軍幕(帷幄いあく)ではないかと考えられています。中央正面に戦車があり北の大室には22人の武士俑が2列で向かい合い床面から出土する鹿角や動物の骨片から神霊の加護を祈った祭場と南側に位置する室では将軍が作戦会議を行った場所であり将軍の寝室ではないかと指摘されている。

 しかし、将軍の俑が発掘されていないので謎ではあるという。ある説では秦始皇帝自信が将軍として軍団を指揮するので不在であるのではないかと考える人もいるようです。

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長安(西安)・北京紀行その7 秦始皇帝陵 兵馬俑坑その1

 承前 長安(西安)・北京紀行その6 華清池(唐 華清宮遺跡)

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 華清宮の東に秦始皇帝陵があります、先ず秦という国について簡単に触れます。秦国は甘粛省天水付近で牧畜に従事していた遊牧民でありました。樋口隆康さんの『始皇帝を掘る』によれば、殷や周の王に御者あるいは牧人として仕えたそうだ。周の孝王の時に秦の非子が犬丘即ち今の天水付近におり馬の飼育で功を上げたと言う。

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 紀元前770年周の平王が洛陽に遷都した時に秦の襄公が無事護送した功により、諸侯に封じられたという。春秋時代には今の宝鶏付近を拠点にしたという。戦国時代には西安の北の咸陽に城を築き都とした。紀元前249年、荘襄王の時に呂不韋が丞相となり戦国7雄となる。荘襄王が呂不韋の妾を娶り産ませた子が政(始皇帝)であり、有る説では始皇帝は呂不韋の子ではないかとも言われている。

 話は飛ぶが、先日、四川省の成都の北の四川大地震の現場を通過したが、羌族の村落が大被害を受けていた。呂不韋は羌族の出身と考えられており、始皇帝は羌族の血を受け継ぐ人間である可能性が高くなります。

 始皇帝は死ぬ2年前に刑徒70万人を動員し阿房宮と驪山陵を建設させたという。この驪山陵が始皇帝陵であります。驪山陵の全貌についてはグーグルの写真を参考にして頂ければ概略を掴む事が出来ます。

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先ず墳丘墓ですが、現在は南北350メータ、東西345メータの規模ですが、築造当初は南北515メータ、東西485メータであったと兵馬俑博物館館長の袁仲一氏は述べ、『漢書』に述べる高さ50丈、周合5里余に近いという。

 本来は墳丘の一部であった西北の位置から銅車馬坑が発見され、博物館の目玉である2台の銅車馬が発掘されました。墳丘墓は発掘されていないが、『史記』には詳細な地下宮殿の模様が書かれている事は有名です。私が生きてる間に発掘される事は無いと思いますが、どうでしょうか。ただ、秦が滅亡した時に項羽が大規模な盗掘を行ったのは事実でしょうから、発掘しても何も出てこないかも知れません。

 墳丘墓を囲む長方形の内城壁で囲まれた場所と、更に外側には外城壁で囲まれた南北2165メータ、東西940メータの城壁で囲まれた場所が始皇帝の陵園であります。そして、その東側に兵馬俑坑が発見された訳です。

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第7回 三輪山セミナー イン東京(御案内)

 毎年恒例の、大和国一の宮 三輪明神 大神神社(おおみわじんじゃ)主催の三輪山セミナーが今年も開催されます。

 ・日時 8月21日(土曜日) 13:00~16:30

 ・場所 よみうりホール(JR有楽町駅すぐ)

 ・入場料 前売り券(千円) 当日千五百円

 ・セミナー内容

 ① 宮司挨拶 鈴木寛治

 ② 講演 『纏向遺跡の大型建物と邪馬台国』

    白石 太一郎(歴博名誉教授 近つ飛鳥博物館館長)

 ③ 講演 『三輪山をめぐる芸能について』

    篠田 正浩(映画監督)

 ・問い合わせ先 

    大神神社『三輪山セミナーイン東京』係  電話0744-42-6633

 昨年、注目を浴びた纏向遺跡の大型建物遺構について白石さんが講演されるようです、注目ですね。

 私は初回から皆勤です、実に中身の濃いセミナーですので余裕のある人は参加されては如何でしょうか。

 参考 三輪山セミナーイン東京 講演録

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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行より戻りました

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 昨夜、蜀の国だった成都より上海経由で帰国しました。写真は黄龍の石灰棚の風景です。トルコのパムッカレの石灰棚を思い出す風景です。

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 今回の旅は先ず、成都を基点に南130キロに位置する中国三大霊山(五台山、天台山)の一つである峨眉山に登りました。標高3098メータあり山頂のホテルで宿泊、御来光を見ようとしたが雨で観れませんでした。古来、信仰の山として崇められ、自然が守られた貴重な自然遺産でもあります。普賢菩薩の霊場として人々の信仰を集めています。

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 成都と言えばパンダ(大熊猫)ですね、飼育センターも訪問し可愛いパンダを始めて拝見出来ました、本当に可愛いもんですね。ベンガル湾から吹き付ける湿った空気は標高4千メータ級の九寨溝や黄龍の山脈に激突し成都の盆地に雨を降らせる。屋久島みたいなもんで、氷河期でもパンダの餌である竹が生育していたと何処かで聴いた記憶がある。従い、古来、蜀の国では年中、曇天で覆われ太陽が珍しく顔を出すと驚いて犬が吠えると比喩されている。

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 四川盆地には岷江(みんこう)、青衣川、大渡河が合流する地点があり古来洪水が絶えなかった、そこで、合流地点に唐の時代に巨大な高さ71メータの磨崖仏が彫られた。楽山大仏と呼ばれています。

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 成都の北430キロの位置には九寨溝・黄龍が4千メータ級の山脈として存在し素晴らしい自然が残されていた。深山幽谷の景色を満喫出来た旅でした。幸い高山病にも罹らず、無事に歩く事が出来ました。一度は訪問される事をお勧め致します。標高4千メータに空港が有りますので、成都から飛行機でアプローチする方法もありますが、私達は高山病の事を考え成都からバスでアプローチしました。

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 酸素缶を貰い万が一の時の為に持参しましたが、殆どの人は大丈夫、高山病には成りません。又、所々には緊急の酸素補給所が有りますので、安心して山歩きが出来ます。

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沢山の中国の観光客と混じって観光する事になります、元気な中国の若者達に混じっての観光ですから、多少賑やかですが元気を貰うという風に考えればいいのではないでしょうか。

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