長安(西安)・北京紀行その8 兵馬俑坑その2(2号坑、3号坑)
承前 長安(西安)・北京紀行その7 秦始皇帝陵 兵馬俑坑その1
前回は兵馬俑坑の第1号坑(本体の密集歩兵軍団)について記録しましたが、今回は本体の左舷前方に陣形を組む機動部隊である第2号坑の説明と後方に位置する軍を指揮する軍幕(帷幄いあく)である第3号坑について記録します。
先ず第2号坑の機動部隊と考えられる軍団について話を進めます。詳しくはマイフォトの写真集を参照して頂ければ、詳しく写真と解説を樋口隆康氏の『始皇帝を掘る』、及び岳南氏の『秦始皇帝陵の謎』、鶴間和幸市の『ファーストエンペラーの遺産』を参考に記録しました。 マイフォト 驪山陵(兵馬俑坑)写真集
左の写真は2号坑の軍団の配置図です。写真集で解説しましたが、以下の内容です。
左前方のブルーの方陣は第1陣(真中に160名の跪いて弩を射る兵士とその周りを固める立射俑172名が方陣を組む) 右舷茶色の軍団は第2陣(戦車部隊であり8輌戦車が8列並ぶ)
左舷後方の赤の軍団は第4陣であり戦車6輌と騎兵108名が並ぶ軍団 左舷右側後方の青の軍団は第3陣であり、車・歩兵・騎兵の三者からなる混成部隊であり戦車19輌 歩兵264名 鞍馬8匹が3列の過洞内に並ぶそして別に指揮俑の乗った車1輌が左後方に位置する。
この本体左舷前方に位置する構えは雁行の陣と呼ばれ機動部隊(弩隊・戦車隊・騎馬隊)として敵の側面から先ず跪いて強力な弩で銅箭鏃の雨を降らせます。そして跪いて弩を射る兵士を守るのが立射で弩を射る兵士が囲みます。戦車隊、騎馬隊が敵の陣形を撹乱し第1坑の本体である密集歩兵軍団が敵を粉砕させる陣形であります。そして、建設途中で放棄された第4号坑(第2号坑の後に布陣する部隊=中軍)の部隊が最後に敵をせん滅させる役割だった考えられている。
兵馬俑坑の発掘により無敵の軍団と呼ばれた秦の軍団の具体的な内容が判明したのが歴史的な成果でした。戦車隊は4頭の馬が木製の戦車を牽くのですが、真中の2頭の馬が戦車を牽く役目で両脇の馬は戦車を牽いていません。岳南氏の解説では時代を同じくしたカルタゴのハンニバルの『斜陣法』と類似している戦形ではないかと指摘しています。ハンニバルがアルプスを越えローマ軍に4万足らずの歩兵と1万の騎兵で8万以上のローマ軍を破った『カンネーの戦い』でもハンニバルは1万の重装備騎兵が敵の側面を突き撹乱させ更に背後を突いた戦い方は秦の軍団の形態と類似すると指摘しています。
第3号坑は軍を指揮する軍幕(帷幄いあく)ではないかと考えられています。中央正面に戦車があり北の大室には22人の武士俑が2列で向かい合い床面から出土する鹿角や動物の骨片から神霊の加護を祈った祭場と南側に位置する室では将軍が作戦会議を行った場所であり将軍の寝室ではないかと指摘されている。
しかし、将軍の俑が発掘されていないので謎ではあるという。ある説では秦始皇帝自信が将軍として軍団を指揮するので不在であるのではないかと考える人もいるようです。
発掘された遺物について少し触れてみましょう。俑は元々が色鮮やかに彩色されていました、発掘時には鮮やかな色彩が残っていたが空気に触れて直ぐに色が消えてしまったそうだ。現在の日本の遺物保存技術があれば救えた可能性があるかも知れませんね。
最大の話題となったのが青銅製の長剣の出土でした。長さ91.3センチ、幅3.2センチの長剣(宝剣)です、全く錆が無く2200年前の剣とは思えないクロムメッキされた剣でした。クロムメッキは20世紀に入りドイツ人が発明した訳ですが、遥か2200年前に秦の軍団では発明されていた。
又、青銅製でこんな長い剣が作れる筈が無いと考えられていたのです。秦始皇帝暗殺未遂事件が起こった時に荊軻は秦始皇帝を襲います、始皇帝は長剣(宝剣)を背中に回しやっと肩越しに抜いたという逸話があるが、この剣の出土でそれが事実であったろうという事になった。
2号坑第1陣の方形の陣で跪き強弩を構える兵士の俑です。この構えは安定し強弩を射る事が出来るそうだ。現在の軍隊でも射撃する時にこの態勢をとるそうですね。
1号坑、2号坑、3号坑、4号坑(途中放棄)の兵馬俑坑の発掘により秦の軍隊と兵器について詳しい内容が掴めたのが大いなる歴史的意義でした。
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