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峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その7 四川大地震震災現場

 承前 峨眉山・九寨溝・黄龍紀行その6 武侯祠・漢昭烈廟

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 (写真は四川大地震で崩壊した山の斜面です。現在も復興作業がすすむ。)

 成都の北130キロあたりに錦陽という都市があります、そこで一泊し次の日は一路北340キロの山の中にある九寨溝をバスで目指した。凄い山道をバスは走るのですが、途中の牛角という場所で四川大地震の震災現場を通過した。四川省の北西部は殆どが少数民族の自治区でありチベット族が多い。

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 震災現場は羌族(きょうぞく、チャンぞくとも言う)の村落であったが、殆ど全滅しこの2年の間に世界中の支援を受け再建されたようだ。しかし、まだ建設中の場所もある。2008年5月に四川省北西部の汶川(ぶんせん)を震源地としてマグニチュード8の巨大地震が発生し、甚大なる災害をもたらした事は記憶に新しい。

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 見学出来た場所は牛角という場所だが、北北西、南南西の方向に巨大な断層面が走り震源地の汶川を通過する。

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 この地震の原因はヒマラヤやチベット高原を作るインドのプレートがユーラシア大陸を今でも押している事に原因があるという。チベット高原は標高5千メータクラスだが四川盆地は標高五百メータ程度だ。一気に落ち込んでいる。インドプレートに押されたチベット高原は今でも四川盆地の西側から東に移動している。ここに巨大な断層面が北北西に走っている。

 グーグルアース 四川大地震現場(予めグーグルアースインストール必要)

「shisendaijishin.kmz」をダウンロード

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羌族はチベット系の遊牧民ですが、由緒ある貴種の民族です。中国の夏王朝の伝説の禹は羌族と語られており、その後、殷王朝の時代は弾圧され殷墟から夥しい祭祀で犠牲になった羌族の人々の遺骨が発掘されている。その後、周王朝の建設には羌族は大活躍したと伝えられている。

 秦始皇帝の実父ではないかと伝説のある呂不韋は羌族だそうだ。彼らは羊を放牧する民族です。 羌という文字は羊を飼う人という意味で作られた。

 (閑話休題)

 ところで、話は飛びますが今回の旅では触れませんが四川盆地には三星堆遺跡があります。1986年に成都の北50キロの地点で膨大な巨大な青銅器が続々と発掘されました。遺物は今から5千年以上前の黄河文明、長江文明よりも古い謎の文明が存在したというセンセーショナルな歴史的な発掘でした。

 四川盆地は閉ざされた空間です、黄河文明にも長江文明にも登場しない文明が存在した事実を突き付けた訳です。高度な青銅器技術を持った人々とは一体どんな人々だったのか、そして、青銅器で造形された異様な仮面は謎です。巨大な目玉が飛び出た人面は何を表現しているのか、謎が生まれたのです。

 次回の成都紀行では是非、三星堆遺跡を訪問したいと考えています。

 参考 三星堆遺跡 三星堆博物館

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