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秦氏に関するメモ その3

 承前 秦氏に関するメモ その2 香春岳(かわらだけ)と天香山

 大和岩雄氏の本『日本にあった朝鮮王国』を読みながら、メモを作成している。これまでに秦氏は加羅(伽耶)地方から渡来した鉱山・製鉄・製銅に関する特殊な技術を持った集団であり、豊前の国の香春(かわら)岳の三の岳で採銅して精錬を行っていたと結論している。

 この頃は金も鉄も銅も錫も全てが『カネ』と呼ばれていた。古代朝鮮語で『カネ』の事を「カリ」「カル」「カアル」「カハル」と発音されていた。奈良盆地の『天の香山の金をとりて・・・』云々の日本書紀の記録は、本来、「アマノ カグヤマ」ではなく「アマノ カルヤマ」と発音されていたと説明。従い、豊前の『香春(カワル)』と同義となると説明していた。

 軽・香・刈という漢字が当て字として使用されていたという。軽という漢字を使用する天皇では孝徳天皇、文武天皇は軽皇子とよばれていましたね。ヤマトには軽という地名もあり関係があるのかも知れませんね。

 (香春神社=宇佐神宮の元宮・古宮と秦氏)

 加羅(伽耶)の製鉄・製銅に従事する人々が、銅・鉄を産する山を聖なる山として崇拝する事になり、豊前の国に移住して来た彼らは産銅の山である香春岳を神聖な山として崇拝した。香春神社がそれであり、神官三家と呼ばれる赤染氏二家と鶴賀氏である。

 平野邦雄氏の意見では、赤染氏は秦氏と同族であり香春神は銅産神であり赤染とは新羅・加羅系の呪術と考えている。

 鶴賀氏も北陸の地名と同音の角鹿に通じ、加羅国の皇子である都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が現在の敦賀に上陸したと日本書紀の垂仁天皇の事項として記録しているので、やはり、鶴賀氏も加羅系と考えて間違いは無い。

 この香春神社は宇佐神宮の元宮・古宮であり秦氏が香春岳から徐々に南下していった歴史が背景にある。宇佐神宮の神は誉田別命(ほむたわけ)、即ち応神天皇であるが、記紀によれば彼は気比の神と名替えをする。気比の神とは敦賀の気比神宮であり大加羅の皇子であるツヌガアラシトが上陸した笥飯(けひ)の浦にある。敦賀地方には秦氏が多く居住する場所でもある。参考 グーグルアース(気比神宮)

「kehijinngu.kmz」をダウンロード

 河内国大県郡にも赤染氏がおり、彼らは東大寺大仏建立の折り、香春神社の神官である赤染氏や宇佐神宮の神官と組んで大仏建立に深く関わっていた。大仏鋳造の技術集団として秦氏の鋳工、銅工が参加している。特に大仏の銅の分析により長門の依知(えち)秦氏の開発した長登銅山の銅が大規模に使用されている事が判明している。

 (香春神社の祭神)

 香春神社の祭神は「辛国息長大姫大目命」さんとなっています。辛国とは加羅国であり、息長大姫とは息長帯姫(おきながたらしひめ)であり応神天皇のお母さんの神功皇后を指している。豊前国風土記では気長足姫(おきながたらしひめ)が鏡山(香春岳)に居られ、姫の鏡が石となり山中にあるから鏡山と名前がついたと記録されている。

Photo

 神功皇后も応神天皇も、ともに宇佐神宮の祭神であり、香春の母子神が移ったものが宇佐神宮と考えられる。香春岳の三ノ岳の採銅所には元宮(古宮・本宮)八幡宮があり御神体は香春岳から採掘された銅で作られた鏡であり、宇佐神宮の最大の祭りである放生会はこの鏡を元宮から宇佐神宮のある和間浜(わまのはま)まで巡幸される。

 (河内王朝の謎)

 私の感想ですが、崇神天皇の三輪王朝から神功皇后・応神天皇の時代に王朝が交代したという考えの史観が存在します。私もそう考えていますが、交代した王朝を河内王朝と呼んでいます。神功皇后の旦那さんの仲哀天皇の北九州での突然の奇怪な死にかた、そして神功皇后が朝鮮半島に出兵しその時からお腹に応神天皇がおられ、北九州で出産したとある。

 どうも、この二人には加羅(伽耶)の影がつきまといます。秦氏が大挙渡来したと考えられるのも応神天皇の時代なのですね。

 

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

こんにちは。

秦氏は半島から移住して来た“中華風”の人々だったと言われます。
現在の韓国や北朝鮮の人々はそれをもって「秦氏は朝鮮系」とか「韓国系」とか、現代の国家観・民族観に基いて断定口調で主張しますが、当時の半島内の民族構成は複雑だったと思います。
『隋書』などを読んでも、半島南部の国々には、漢人や倭人など複数の民族が雑居していた様子がうかがえます。

世間には、“秦氏ユダヤ人説”とか、“秦氏漢人説”とか、“秦氏キリスト教徒説”とか、様々な説が存在していますが、結局秦氏集団のリーダー的な人々と言うのは、何民族と言うべきなのでしょうか?
案外これは、日本にとって重要な問題ではないかと思っています。

Posted by: 俄か古墳マニア | 2010.07.02 08:17 AM

俄か古墳マニアさん お久しぶりです

 秦氏がどういう民族であるのか、私も判りません。状況証拠だけを考えると、朝鮮半島に楽浪郡、帯方郡を設置して植民地支配を開始した漢王朝の現地支配の実態が解明されないと判りませんね。

 最近になりやっと、韓国でも加羅諸国(伽耶諸国)に文化・文明が存在した事を認めざるを得ない発掘が進んでいます。

 どうしても任那という問題が日韓の間に横たわり、純粋科学的な考古学による発掘研究が進んでおりませんでした。しかし、それもそろそろ韓国・日本の考古学の研究者により打開できそうな雰囲気を感じています。

 製鉄・製銅・養蚕・絹織物これらは、古来、中国では最高の国家機密だったと思います。これら最高のハイテク技術を持つ集団は当時としては中国以外にないでしょうね。

 少数の中国人と南朝鮮半島に住んでいた加羅(伽耶)の人々や九州の倭人が長い年月の間に混血したと考えては如何ででしょうか。

 今後、洛東江流域の古墳や都市遺跡の発掘、朝鮮半島南西部の栄山江(ヨンサンガン)流域の古墳の発掘により少しずつ解明される日が来ると信じています。

Posted by: jo | 2010.07.02 09:53 AM

返信ありがとうございます。

今日は暇なので、古代史に関して、ネットや本で色々と調べています。

これは最近の(とりわけ民間の)傾向なのでしょうが、秦氏も、漢氏も、司馬達等も、大雑把に「百済系」「新羅系」などと説明されるだけで、酷いのになると「朝鮮系」「朝鮮人」等と断定口調で説明されています。
果たしてそれでよいのか?という不安が過ります。

>どうしても任那という問題が日韓の間に横たわり、純粋科学的な考古学による発掘研究が進んでおりませんでした。しかし、それもそろそろ韓国・日本の考古学の研究者により打開できそうな雰囲気を感じています。

当時の朝鮮半島南部の混沌、民族の多様性など、従来の日韓の「イデオロギー」によって不透明であった部分に光が当ることを希望します。
現在、秦氏や漢氏や司馬達等もそうですが、かつての「皇国史観」の“反動”の犠牲になっていると感じます。
今日あらゆる渡来人を、大雑把に「朝鮮系」等と表現する事は、非常に危険な風潮であると感じます。
それによって韓国の学会やマスコミが歓喜し、韓国人の対日感情が良くなったとしても、緻密な研究を疎かにして無闇に媚を売るは如何なものか?と感じました。
必ず後に、古代史の研究分野で大きな問題に発展し、にっちもさっちも行かない事態を招くと思うのです。

以上、本日の雑感です。

Posted by: 俄か古墳マニア | 2010.07.02 03:25 PM

俄か古墳マニアさん 今日は暇でしたか

 馬韓、弁韓・辰韓の古代の歴史の実態は今は考古学による発掘でしか新しい事実は出て来ないでしょうね。状況証拠的には南朝鮮半島に住む人々は東シナ海と九州島を目の前にして、海を舞台に活動していた人々ではなかったでしょうかね。

 残念なのは、文字として記録されたのが中国の史書にしか残っていない事です。考古学による発掘にも限度があります。

 私が注目しているのは、水稲稲作の北九州への伝播の時期と朝鮮半島での水稲稲作の開始時期です。水稲稲作には鉄の農具が必要であると考えています。

 何故、列島に水稲稲作が伝播したのか、その理由は何だったのかが知りたいところです。水稲稲作を伝えるには人々の移住が必要ですよね。何故、移住しなければならなかったのかその動機です。

 私は一つの可能性として秦始皇帝の時代から山東半島の東の海上に蓬莱の神仙の島があると、中国の人々は信じていました。不老不死の世界が東方海上に存在すると道教が起こった山東半島には信仰が存在した。

 中国人は日本と異なり、徐福の大航海は史実であると信じている事です。

Posted by: jo | 2010.07.02 07:07 PM

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