長安(西安)・北京紀行その10 八達嶺長城(万里の長城)
承前 長安(西安)・北京紀行その9 兵馬俑坑その3(銅車馬)
北京市内から北に70キロ、八達嶺長城が北から攻める匈奴から守る万里の長城の一部があります。八達嶺長城は明の時代に建造されたものですが、長城の一部は春秋戦国時代から存在したようですね、それを秦の始皇帝が秦・趙・燕の国の長城を繋いだのが本格的な万里の長城の起源だそうです。
現在、昔の遺構を含めて万里の長城の規模を言うなら、東は河北省山海関 雄襟万里から西の果ては甘粛省嘉峪関長城までの約8千8百キロと中国では発表しているようです。昔の長城は版築工法で土塁を固めた低いもので、蒙古馬が乗り越えられないように設置されたものです。しかし、8千キロとは東京・北京が1千キロ、東京・ニューヨークが7千キロですから気が遠くなる距離ですね。
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今回は、八達嶺長城の南に延びる城壁(男坂)を登る事にしました。北に延びる城壁は女坂と呼ばれ比較的傾斜が緩いのが特徴です。尾根筋に長城が築かれており、入口が尾根筋の一番低くなった場所なのです。
八達嶺は南北に延びており、西側から匈奴が攻めてくる訳です。北京という首都を守る為に明時代に築かれた八達嶺は版築工法で固めた土塁とレンガ(磚せん)で防御されています。城壁の上部には一定の距離毎に兵士溜まりがあります。西側には弩を射る為の窓が開かれています。
山肌には、真っ白な綺麗な花が咲き誇っていました。一見桜のように見えますが、桃の花ではないかと思います。黄砂が舞っており遠方の景色は霞んでいます。所々には狼煙台(のろしだい)が立っています、長城の間と北京まで知らせた通信手段だそうです。狼の糞を燃やし煙を作ったそうです。この技術も日本には伝播したようです。
1時間有ればゆっくりと見学出来ると思います。男坂の登りは20分程度で登れると思いますが、かなりきつい急な坂ですので頑張りが必要です。
万里の長城の逸話で有名なのはやはり悲劇の話ですね。旦那が何時までたっても長城の建設現場から帰国しないので、奥さんが現場に行くと既に死亡していたという。そして悲嘆にくれた奥さんが鳴いていると長城が崩れ、旦那の亡骸が出て来たという悲しい話です。
幾多の民が長城建設の為に駆り出されたのでしょうか。それを2千年近くも継続してきた執念が中国北部の歴史そのものなのですね。日本は本当に海の城壁が存在したから良かったですね。日本で本格的な城壁が建造されるのは、羅唐連合に敗れた白村江海戦以後ですよね。天智天皇の時代、百済から山城の作り方を教えて貰い、九州から瀬戸内海にかけて防御ラインを築いた山城あたりが起源ですよね。
異民族と国境を陸続きで接した経験の無い我々では想像がつかない世界でした。
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Posted by: Dog Sweater | 2010.10.14 08:09 AM