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日本百名山 筑波山登山紀行その3 男体山・自然研究路

 承前 日本百名山 筑波山登山紀行その2 白雲橋コース登頂

さて、女体山を登頂しましたので、次は男体山の頂上を目指し男体山を一周する自然研究路を歩いて高山植物を探してみましょう。そして、最後にケーブルカーで筑波山神社へ下山します。

 その前に、女体山山頂近くのセキレイ茶屋で昼飯を頂きましょう。詳細は、写真集を参照下さい。

 マイフォト 日本百名山 筑波山登山写真集(女体山→男体山→自然研究路 追加)

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 セキレイ茶屋にて昼飯です、先ずはビールで乾杯です。(今までは登山中は禁酒でしたが、今回は例外です)

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 セキレイ茶屋の前のセキレイ石には面白い言葉が書いて有りました。曰く『この石の上にセキレイが留まり、男女の道を教えたという。』 不思議な話だ、鳥に、男女の道を教えて貰うとは何なんでしょうね。セキレイという鳥は何で男女関係に詳しいのでしょうか?疑問が湧く昼飯となりました。

 山から帰り、調べてみると、セキレイは古来、オシエドリ(教鳥)、コイオシエドリ(恋教鳥)、トツギオシエドリ(嫁教鳥)と呼ばれているそうです。広辞苑では日本書紀・神代紀にセキレイが男女交合の道を教えたという説話があると記述。筑波山の御神体はイザナギ・イザナミという日本国を生んだ神様であるのと、この付近ではセキレイが多く住んでいるのでこのような看板がでているのでしょうね。

 今度、ゆっくりと調べてみます。古代人がセキレイの長い尻尾を激しく振る動作を眺め、男女の道を連想したとなると、面白い発想ですよね。しかも、国家の正史にそれを書くというのが又、面白いと思いませんか。きりが無いので、この話は此処で終わります。(笑)

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 男体山山頂です、女体山との鞍部(コル)から眺めた写真です。頂上までは15分程度で登れそうですね。

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 男体山山頂の御神体であるイザナギさまの本殿(山宮)です。

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東近江 相谷熊原(あいたにくまはら)遺跡で日本最古土偶発掘

 昨日、滋賀県東近江の永源寺相谷町の相谷熊原遺跡にて日本最古1万3千年前の土偶が発掘されたと滋賀県文化財保護協会が発表した。

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 読売新聞ニュース記事 最古級の土偶東近江市で出土 従来の縄文時代観に一石

 産経ニュース 縄文初期の最古級土偶 竪穴住居跡出土

 産経関西 まさに’縄文のビーナス’最古級の土偶発見

 毎日新聞 土偶:国内最古級1体出土

 鈴鹿山脈から流れる川が平野にでる河岸段丘で縄文早期の集落跡が存在し、発掘が続けられていたようです。土器編年と炭素14法により一万3千年前という縄文早期の遺跡である事が判明し、竪穴住居跡から女性の上半身の土偶が発掘されたという。残念ながら首には細い穴があり頭部は別に作り棒のような物で結合し差し込んでいたのかもしれないが、未だ頭部が発見されていない。

 しかし、写真でみる限り腰のくびれや豊かな乳房は国宝である’縄文のビーナス’を連想させるものである。諏訪湖近くの尖石遺跡の’縄文のビーナス’を連想させてくれました。

 記事によれば、一万三千年前と言えば今より10度も気温が低く、人々は地中深くに竪穴住居を作り集団で暮らさなければ生きるのが難しい状況だったと解説しています。家族だけでなく集団で生活する必要があったと解説しています。

 滋賀県の縄文時代の遺跡というと、概略、琵琶湖東岸で湖底に沈んでいるのが有名でした。地震で古代の多くの遺跡は湖底に沈んでいるのです。弥生時代の遺跡では守山の遺跡で発掘された日本最大の巨大な銅鐸で有名です、今は銅鐸博物館が設置されています。野洲川流域が弥生時代の遺跡として有名です。

 今回の遺跡は随分と山奥で驚いています。しかし、西日本にも縄文時代の古い遺跡が存在する事を認識した次第です。

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長安(西安)・北京紀行その6 華清池(唐華清宮遺跡)

 承前 長安(西安)・北京紀行その5 藍田原人・仰韶文化(半坡遺跡)

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 マイフォト  華清池(唐華清宮遺跡)写真集   

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西安東50キロ、秦始皇帝陵近くの驪山の麓に華清池があります。唐の玄宗皇帝と楊貴妃が秋から冬の期間湯治場として過ごした離宮址です。当時は華清宮として城壁で囲まれた沢山の宮殿が立ち並ぶ梨園でもあったようです。

 安史の乱で全て破壊され、再度利用されるようになったのは清の時代になってからだそうだ。偶然に1982年に楊貴妃や玄宗皇帝が利用した貴妃池(海棠湯)、蓮花湯が発見され今は当時の建物が再建されています。

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 この場所は古く、西周の時代から王が湯治場として利用していたようで、秦始皇帝もこの温泉を利用した可能性があるそうです。現在でも、誰でも有料ですが温泉を利用する事が可能です。しかし、やはり一番人気は玄宗皇帝と楊貴妃のラブロマンスではないでしょうか。

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(写真は楊貴妃の専用温泉、貴妃池(海棠湯)、です)

 所で、楊貴妃ですが彼女はもともと、玄宗皇帝の息子の妃でした、名前は楊玉環といいます。玄宗皇帝に見初められ皇后の次の位である貴妃にまで登りつめた訳です。唐の時代の後宮では皇后の次に女官である四夫人、次に九嬪(ひん)、次に二十七世婦(せいふ)、次に八十一御妻(ぎょさい)と多くの女性がいたんです。

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(写真は玄宗皇帝専用の温泉である、蓮花湯です)

 皇后の次の位である四夫人は、貴妃(きひ)、淑妃(しゅくひ)、徳妃(とくひ)、賢妃(けんぴ)と決められていたそうだ。従い、楊玉環は楊貴妃と呼ばれているんですね。どうりで、日本の女性の名前に貴子、淑子、徳子、賢子が昔は多かったように思いますね。

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(写真は太宗皇帝(李世民)が644年に建造した星辰湯です)

 彼女は息子の妃でしたから、一度この世の世界と縁を切る為に道士になったようです。そして、還俗させたようです。日本で楊貴妃と言えば果物のライチ(茘枝)が好きで遥か南の地から運ばせたと聞いていました。彼女は蜀の国の生まれですから、馴染の好きな果物だったのでしょうか。そうそう、私も明後日から楊貴妃の故郷、蜀の国に行く予定です。

  

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日本百名山 筑波山登山紀行その2 白雲橋コース登頂

 承前 日本百名山 筑波山登山紀行その1 (白雲橋コースを登る)

 弁慶茶屋跡から女体山山頂を目指します。途中には奇岩が多く存在しています。古代では磐座(いわくら)と呼ばれ信仰の対象だったと思います。奈良の三輪山も大神神社(おおみわじんじゃ)に申し入れれば入る事が出来ます。山には多くの磐座があり注連縄で結ばれています。

 マイフォト 日本百名山 筑波山登山(弁慶茶屋→女体山山頂記録を追加)

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 弁慶七戻りの岩の前で記念写真です。

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 確かに弁慶さんも危険と思ったでしょうね。岩ちゃんは平気ですが・・・。

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 母の胎内くぐりに挑戦する岩ちゃん。

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長安(西安)・北京紀行その5 藍田原人・仰韶文化(半坡遺跡)

 承前 長安(西安) ・北京紀行その4 長安城(漢・唐・明 各時代)

 陝西省歴史博物館を訪問しました。少し、西安近郊の先史時代について触れてみたいと思います。先ずは、150~100万年前の原人の話からです。

 『藍田原人(らんでんげんじん)』

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 北京原人については有名ですが、西安東南部の秦嶺山脈の藍田県の遺跡から頭蓋骨と下顎の骨が発見され約100万年前のホモ・エレクトスとされる。現代人の祖先では無いそうです。中国では藍田原人以外にもっと古い時代の原人と想定される元謀原人(げんぼうげんじん)が雲南省でみつかっている。170万年前と推定されているが、歯の発見だけであり諸説あるようだ。

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写真がぼやけていて申し訳ありません。

 写真は藍田原人の頭蓋骨と下顎の化石です。

 『仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)』

 仰韶文化とは黄河中流域に紀元前4千8百年から紀元前3千年頃栄えた文化です。仰韶文化は3区分されますが、一番古い時代の文化は、西安の東の渭河の支流域に栄えた半坡遺跡(はんぱいせき)が有名です。それを半坡類型と呼び、そして、次の時代が廟底溝類型であり、最後の時代が大何村類型と呼ばれ紀元前2千8百年頃終焉する。

Photo_3  これらは黄河流域の文化であり、同時期に長江流域でも異なる文化が栄え、日本では三内丸山遺跡(紀元前3千5百年~紀元前2千年)の縄文時代でした。

 陝西省歴史博物館では仰韶文化とりわけ、西安の東に位置する半坡遺跡から出土した遺物が多く展示されています。勿論、現場の半坡博物館の方が充実していると思います。

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 遺跡のジオラマです、環濠集落で丸い屋根の住居と四角い屋根の住居がみられます。中央に大きな広場があります。公共の場だったのではないだろうか。

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 彩文土器です、半坡遺跡から出土した土器です。左側の鉢に注目下さい、内側の真中に人の顔か虫なのか判らないのが描かれ右に魚が描かれている。遺跡の発掘からアワを中心とする農耕と豚・牛を飼育し渭河の支流で漁業も行っていた事が判明してるそうだ。

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 土器には文字のような物が描かれており、甲骨文字に先行する何らかの文字であるかどうか研究中のようです。この彩文土器を観てると、地中海のクレタ・ギリシャの土器やメキシコのオアハカを訪問した時に観た土器に似ているように思うのですが、不思議です。

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峨眉山・九寨溝・黄龍の旅(予定)

 来週月曜日5月31日より8日間の予定で峨眉山・九寨溝・黄龍の旅にでる予定です。

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 衛星写真でも判りますが、成都を中心に長距離のバス移動となり体力が必要な旅になりそうです。最初に成都南方の峨眉山にでかけ、そして又、成都に戻り次に北上し九寨溝・黄龍の標高3500メータを超える山岳地帯で過ごす事になります。

 最後の日は九寨溝から成都への10時間のバス移動が大変そうです。しかし、今年の2月にトルコ紀行をしましたが、バスで2500キロ+列車500キロの旅に比較すれば未だ楽ではないでしょうか。

 今回は、残念ながら三星堆博物館の見学が出来ないです。是非、一度は三星堆遺跡から出土した5千年前の目玉が飛び出た青銅の仮面や青銅の扶桑の木など見学したいものです。紀元前3千年前から千年頃の遺跡です。巨大な青銅の像には度肝を抜きますね。

 成都は昔は蜀の国の都であり、パンダの故郷でもあります。今年になり、3度目の中国への旅になります。

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日本百名山 筑波山登山紀行その1(白雲橋コースを登る)

 承前 筑波山から帰りました

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 2010年5月18日快晴、朝8時2分の秋葉原発、筑波エキスプレスに乗り筑波駅到着8時40分頃。筑波山神社直行のバスに乗り9時40分に神社入り口到着です。筑波名物ガマガエル君がお出迎えでした。

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  登山の無事を祈りに筑波山神社に参拝しましょう。今日は、筑波山神社から白雲橋コースを登ります、先ずは目指すは筑波山の双子峰のピークである女体山です。

 登山の前に筑波山神社と古代の歴史に触れましょう。筑波山神社は御神体が三輪山と同じく山そのものです、ですから本殿は存在しません、あくまで拝殿が麓に存在する訳ですね。神社の由緒を読むと、崇神天皇の時代に物部氏の一族である筑波氏がこのあたりに拠点を築き神社を祀ったとあります。

Photo  崇神・垂仁・景行天皇の所謂、三輪王朝の時代にヤマト王権は関東に進出し蝦夷である鬼怒川流域を拠点とし東北に地盤を持つ『毛族』と対峙していたと考えられます。

 当時の地形は霞ヶ浦は古鬼怒湾と呼ばれ鬼怒川が流れていました。ヤマト王権は鬼怒川の河口を抑える為に香取・鹿島神宮(戦略軍事拠点)を設け蝦夷の『毛族』を封じ込める作戦にでました。そして、鬼怒川を西に見下ろす筑波山にヤマト王権の軍事集団である物部氏が最前線に拠点を置いた。

 一方、利根川も重要な交易路でしたので、埼玉古墳群のある利根川南岸に拠点を作り、毛族が住む利根川北岸と対峙したと想定されます。(当時の利根川は江戸湾に注いでいた)稲荷山古墳の鉄剣は5世紀の雄略天皇の時代ですが、三輪王朝の頃から埼玉古墳群にはヤマト王権側の軍事拠点が存在したと想定されます。(垂仁天皇の頃と思われます)

 鬼怒川の名前も『毛奴川』で毛族の支配した交易路としての重要な古鬼怒湾から太平洋にでる行路であったと考えられます。詳しくは、過去に『埼玉古墳群 紀行記』、『鹿島・香取神宮紀行記』を参考にしていただければ、4~5世紀の当時の歴史を推測可能と思います。

 東京・神奈川でも毛の人々の痕跡があります、かみのげ、しものげ、という地名が今も残っていますね。

  参考 筑波山登山紀行 写真集

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札幌はライラック祭りでした

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 旧道庁の庭園の風景です、八重桜が満開で大通り公園ではライラックの花が咲き始め恒例のライラック祭りが行われていた。私と家内と孫娘三人で沢山の花の苗木を頂き、娘の家の前庭の花壇に植えました。

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 今回は孫息子の誕生日会と初節句のお祝いの会であり、娘の旦那さんのご両親も横浜から遠征して来て下さいました。大宴会となり、孫息子は紅白の一升餅を担がされていました。この風習は関西では馴染ではありません、以前、出雲近くの石見出身の会社の後輩が自分の子供の初節句で行った話を聞きました。北海道では馴染な行事だそうです。

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 ライラックは咲き始めた頃で、まだ蕾の木が多いようです。メロンも未だ季節的に早いようでした。昼間は快晴で暖かいのですが、朝夕は冷えて肌寒い気候でした。昨日は朝から冷たい雨が降り急に温度が下がり、皮ジャンを着てる人や厚手のコートを着ている人々が多かったですね。

 

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日本百名山 筑波山から帰りました

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 天気に恵まれ筑波山の登山は楽しかったです。筑波神社から白雲橋コースを登り女体山頂、男体山頂を登り自然研究路を歩きました。

 温泉は筑波温泉ホテルに宿泊し今日も朝からケーブルカーとロープウエイを使用し筑波山からの眺めを満喫しました。

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長安(西安)・北京紀行その4 長安城(漢・唐・明 各時代)

 承前 長安(西安)・北京紀行その3 西安 漢陽陵地下遺跡博物館

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 現在我々が西安を訪れて観光出来る城壁は明の時代に建造されたものである。写真の長安の城壁は版築で固められた土塁の表面にレンガが積まれている構造です。

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 (写真は明時代に築かれた長安城の城壁)

Photo  この衛星写真は現在の、明時代に築かれた長安城の城壁です。明の時代に遊牧民の攻撃から守る西の城塞として築かれたものです。概略、唐時代の皇城の城壁の土台の上に築かれたと言う。唐の時代の長安城は巨大でした、東の城壁は現在の興慶宮公園に東から南北にに伸ばしたあたりで今でも残る城壁の東門は通過しています。

Photo_2  参考 唐の時代の長安城

今でも唐の時代の現存物として残るのは大雁塔の建物だけです。それが、残念な事になります。朱雀大路も残っていますが、今は当時の幅よりも随分と狭くなっています。

 北には大明宮が存在し、平城京のグランドプランと近似している事が判りますね。平城京は唐の長安が確実にモデルであった事が理解出来ます。

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 (写真は鼓楼です)

 2時間間隔で時間を告げた鼓楼や鐘楼も再現されていますので、当時の雰囲気を伝えています。

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 (写真は鐘楼です)

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 (写真は唯一唐時代の現存する建物である大慈恩寺の大雁塔です)

 参考 唐の時代の長安城(グーグルアース)

「toudaimeikyu.kmz」をダウンロード(予めグーグルアースのインストール必要)

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長安(西安)・北京紀行その3 西安 漢陽陵地下遺跡博物館

 承前 長安(西安)・北京紀行 その2 阿部仲麻呂記念碑(続編)

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 前漢時代の第6代皇帝だった景帝(劉啓)の陵墓です。秦を滅亡させた劉邦(BC247~BC195)から数えて6代目です。劉邦は項羽との戦いに勝利(垓下の戦い)し長安を都としました。漢王朝の陵墓は秦始皇帝が都をおいた長安の北21キロ、咸陽の地にあります。

 グーグルアース 漢陽陵(景帝)

「KeiteiRyou.kmz」をダウンロード(予めグーグルアースをインストール必要です)

Photo  景帝の陵の東400メータの地点には皇后の陵も配置され陵園となっています。陵は四角錐台形の構造で底辺170メータ高さ31メータ、頂部辺50メータの規模、1990年から発掘され現在、漢陽陵地下遺跡博物館として公開されている。

陵墓周辺が発掘され、秦始皇帝陵の兵馬俑坑のような地下佣坑が発見されたのです。陵墓本体の発掘はされたかどうか判らないが、周辺の佣坑が公開されている。

 佣坑の上に強化ガラスを設置し見学者は足下のガラス越しに佣坑の状態を見学出来る仕組みであり、ユニークな博物館となっている。発掘途中の模様を見学できますので、兵馬俑坑と同じ考えだと思います。陵墓直下の墓室は発掘されていないのか、未公開です。

 マイフォト 漢陽陵(景帝)地下遺跡博物館写真集

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長安(西安)・北京紀行その2 阿部仲麻呂記念碑(続編)

 承前 長安(西安)・北京紀行その1 阿部仲麻呂記念碑

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 前回は李白の得意な七言絶句の詩のご紹介でした。今回は晁衡(阿部仲麻呂)の有名な詩のご紹介です。

 阿部望郷詩

 翹首望東天(首を翹げて東天を望めば)

 神馳奈良邊(神(こころ)は馳す 奈良の辺)

 三笠山頂上(三笠山頂の上)

 想又皎月圓(思ふ 又た皎月=明月の円(まどか)なるを)

私達が馴染なのは百人一首の『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』ですよね。仲麻呂が残した漢詩では難しい漢字を多用した詩となっていますね。先ず、翹首という漢字は難しくて判りません。意味は首を延ばして待ち望む意味だそうで、呉音では(ぎょうしゅ)、漢音では(きょうしゅ)と発音するそうです。堯・舜の堯の漢字を見出せますね。

 最後の皎月(こうげつ)という漢字も馴染が無いですね、名月の意味だそうです。ここで、李白の詩を考えると、李白が仲麻呂が帰国する前にこの詩を歌っていた事を知っていた可能性が有りますね。そうだとすると、李白は仲麻呂が残した詩を前提に彼が遭難して死亡したと勘違いして作成した詩として見直す必要がありますね。要は仲麻呂の詩を前提に歌を作成したかも知れない。

 仲麻呂が使用した翹という漢字、神と奈良という漢字から道士である李白は蓬莱山・壺世界を連想した、そして、皎月(こうげつ)という漢字と同意味の明月という漢字を使用したとも考えられますね。私は漢詩の専門家ではないが、玄宗皇帝の側近文化人として酒を飲み語り合いお互いの文化レベルの高さを尊敬しあった仲間の死に対して、李白は最大限の仲麻呂の意識世界の根底に触れようとしたと考えられますね。

 阿部氏はヤマト王権の成立当初から王権を支える氏族です、イワレ(磐余)の阿部氏の本拠地近くには道教の神仙思想の影響を受けた桜井茶臼山古墳や箸墓古墳や多くの三輪王朝以来の巨大な前方後円墳が存在し、道教の道士である李白とは話が深く出来たと思います。

 李白からすれば、秦の始皇帝以来、当方海上に存在する不老不死の世界である蓬莱山が海に浮かんでいると信じている。日本はそんな道教の道士からみれば理想の世界に仲麻呂は帰ろうとしているのだ。李白は蜀の国の峨媚山や道教の発祥の地、山東半島で道士としての修業を行った経歴があるそうだ。だから、李白の詩の背景には道教の思想が存在する筈ですよね。

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長安(西安)・北京紀行その1 長安・阿部仲麻呂記念碑

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 現在の西安都心に『興慶宮公園』という市民が集う公園に阿部仲麻呂記念碑が建立されています。建立されたのは1979年だそうですが、奈良市・西安市友好都市5周年記念して建造されたという。丁度、阿部仲麻呂留学1200年記念だったようだ。

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 写真は記念碑です、友人であった詩人の李白の詩と阿部仲麻呂の詩が彫られていました。先ず李白の詩について見てみましょう。

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 七言絶句の詩ですね、写真の記念碑を記録します。

 哭晁卿衡(晁卿衡を哭す)

 日本晁卿辞帝都(日本の晁卿 帝都を辞す)

 征帆一片遶蓬壺(征帆一片  蓬壺を遶る)

 明月不帰沈碧海(明月帰らず 碧海に沈む)

 白雲愁色満蒼梧(白雲愁色 蒼梧に満つ)  

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西安・北京紀行から無事帰国しました

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 昨夜、無事に古都、長安(西安)と北京の旅から帰国しました。昨日、西安から北京空港経由で帰国しましたが、あの何時もは黄砂まみれの北京に青空が広がり驚きました。今回の旅で最初に北京に入りましたが、黄砂がひどく殆ど霞みがかかるような按配で、案の定、納得できる写真は一枚も撮影出来ませんでした。

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 しかし、紫禁城(故宮博物館)や万里の長城も久しぶりに訪問し、懐かしくはありましたが、随分と観光地化され、皮肉にも整備されればされる程、何処かむなしい気持ちになりました。文化遺産をどのように扱うかは時代の世相が反映します、中華文明を自慢し、国威発揚に利用し、観光客から金をせしめる商魂には辟易な旅だった。

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 北京五輪を契機に長安の大雁塔の大慈恩寺も整備に巨額が投入されたそうだが、唐の時代を偲んで多くの建造物が新規に建造されていた。金ぴかの仏像と紫檀の高価な材木で本堂が建立されていたが、何処か見当違いに思えたのは私だけでしょうか。そして、日本からの観光客には文化という名の商品を買わせる商魂には辟易だった。

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明日から西安(長安)・北京の旅にでます

 約1週間程度、御無沙汰致します。明日から旅に出ます。

 久しぶりの長安(西安)と北京です。北京には今、北朝鮮の元首が訪問中のようですね。何か高句麗時代から隋王朝を滅亡に追いやった歴史を持ち、戦争では得意な高句麗の血を受け継ぐ人々。何時になれば南北が統一されるのでしょうね。

 中国という国は、邪馬台国の時代から江戸末期までは憧れの文化・文明大国でしたね。しかし、明治維新により東アジアで目覚めたのは日本だった。

 西欧列強から植民地化される中で、日本はアジア諸国の国々からは、憧れの的でありました。現在中国でも使用されている常用漢字の30%以上の漢字は明治に日本人が翻訳した西欧文化・文明の漢字であると言われている。だいたい、中国の国名から明治の日本人が翻訳した漢字である。

 しかし、かの大戦で敗戦国となりアメリカの管理下の国となった。もう60年も過ぎたが未だに管理下にあるようだ。両国の国益が一致している限り日本には有益だろうが、しかし、アジアの経済の急速な発展、とりわけ中国市場を巡っては国益が必ずしも一致しない。そして、世界第二位のGDPに迫る中国の拡大路線は安全保障でもややこしくなっている。

 鉄資源でみれば中国が世界の40%近くを飲みこんでいるそうだし、セメントは50%に達するそうだ。カンボジアの埋蔵鉄鉱石も中国が押さえ初めているし、ボリビアのリチューム資源も中国・韓国・日本・欧州間で激しい獲得競争が始まっている。海洋資源も獲得競争が始まっており、例のガス田の話もそうだ。

 膨張する中国とどう向き会うのか、アジアの国々と未来に向かいどのような安全保障を模索するか、世界の警察を自負するアメリカとどう向かい合うのか、難しい連立方程式を解かねばならない。特に、食料自給率が極端に低い日本は安全保障の面で食糧確保が緊急の課題である筈だ。海に囲まれ魚を好んで食べて来た民族なのに、漁業関係で未来が見えないのが実情だ。宇宙に研究開発費用を使うのもいいが、もっと科学の目を海に向けて欲しいと思う。

 マグロだって、うなぎだって海に囲まれた国の特徴を生かし、科学者と漁業関連企業と国の政策が一丸となり未来のビジョンを描いて欲しいと思う。漁業の産業構造を抜本的に改革する必要が日本には必要なのではないだろうか。

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バンコク紀行その15 旅を終えて(最終章)

 承前 バンコク紀行その14 涅槃仏寺(ワット・ポー)

 今回がバンコク紀行の最終章になります。初めてのタイ国の訪問でしたが、沢山の刺激を受け又、沢山の疑問も生まれた旅でした。タイの民族が独自に王国を築いたのはスコータイ王朝と考えると13世紀であり、日本で言えば鎌倉時代です。しかし、タイ民族の歴史は古く、柿崎一郎氏の著書『物語 タイの歴史』(中公新書)に従えば、長江下流域で稲作を行っていた民族であるという。

 黄河流域の畑作・遊牧民族が南下を行いタイ民族を長江下流域から追い出したという。タイ民族の一部は長江を遡り現在の雲南省の源流域まで追いやられたという。そして、タイ民族は雲南省あたりを源流とする長江以外の大河を下り稲作に適した場所を探し移動したという。メコン川、チャオプラヤー川、紅河、等々を下流域に南下したという。西に移動したグループはインドのアッサム地域まで移動した。

 現在タイ族はタイ国を始め、ラオスの主要民族であるラーオ、雲南省のルー、及び近隣の省、ベトナムの黒タイ、白タイ、カンボジア、ミャンマー、インドアッサム地域のアホーム、等々の少数民族として命脈を保ち約1億人以上ではないかと推定されるという。問題は日本に稲作を伝えた民族である、最新の歴博の放射性炭素14 AMS法による稲作の北九州への伝播は紀元前10世紀であり、従来の常識から500年遡るという衝撃的な研究成果が報告されている。(学会で議論中)

 もう一つ気になる説は大野晋氏の日本語の源流がインド東南部に生き残るタミル語を話す人々ではないかという説である。紀元前1500年頃にイラン高原からインダス川流域にアーリア人が侵入を行い、インドの原住民であったタミル語を話す人々(ドラヴィダ族)が駆逐されインド東南部に追いやられたという。そして、彼らは海に活路を見出し、ベンガル湾からアンダマン海に入り、マレー半島を横断し、シャム湾からボルネオ海を北上し、更に東シナ海を北上したという。

 考古学的に大野晋氏を支持する人々がどれだけ居られるか私は知らない。しかし、海のシルクロードを研究する事でタミル語を話す人々が大いなる航海をした軌跡を探る事が出来るかも知れないと思う。

 北九州に紀元前10世紀に稲作が伝播したとすれば、紀元前15世紀のアーリア人の大移動と移動を余儀なくされたタミル語を話す人々が海のシルクロードを経由し、南朝鮮半島や日本に到達し稲作を伝えたと仮定すると話は面白くなります。

 文字資料によれば、海のシルクロードが注目されるのは、前漢の武帝の南進政策により紀元前2世紀頃から中国南部からベトナム北部にかけて日南郡など9郡を設置したことから海上ルートの重要性が高まったという。しかし、実際にはもっと古くから海路は開けていたと考えられます。

 5世紀頃の海のシルクロードを柿崎氏の『物語 タイの歴史』より参考にさせて貰うと以下の通りである。

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バンコク紀行その14 涅槃仏寺(ワット・ポー)

 承前 バンコク紀行その13 暁の寺(ワット・アルン)

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 涅槃仏寺(ワット・ポー)です、黄金色に輝く涅槃仏が高さ15メータ、長さ46メータの巨体で横たわる姿は度肝を抜きますね。台座下にはラーマ1世の遺骨が埋納されているそうです。

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 日本では馴染が薄い涅槃仏ですね、何処かユーモラスに感じられお釈迦さんが身近に感じる事が出来ます。

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 仏さんの足の裏です、見事な螺鈿細工で図が描かれています。ガイドさんの説明ではバラモン教(ヒンドゥー)の真理108の図と呼ばれる図だそうです。

 マイフォト バンコク 涅槃仏寺(ワット・ポー)写真集

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NHK朝の連ドラ 『ゲゲゲの女房』が面白い

 最近は殆ど興味の無かったNHKの朝の連ドラだが、『ゲゲゲの女房』は面白い。

 漫画家、水木しげるさんの女房が主人公のようだ。メキシコ在住の娘がフアンで横浜の私の自宅には彼女が残していった水木さんの関連図書が仰山、積まれている。時折、暇なので水木さんの関連図書を読んでいたので、馴染である事もあり面白くドラマを楽しんでいます。

 今年の4月には米子空港が名称を『米子鬼太郎空港』に改称されたのは皆さま御存知ですよね。水木さんの故郷である、境港では『鬼太郎』で町興しが行われています。

 境港『鬼太郎関連』

 水木さんはメキシコのオアハカが好きで、在住の竹田鎮三郎画伯を訪ねておられるようですね。その話は娘からも聴いていたが、『本日の水木さん』やその他の関連図書でも竹田画伯のアトリエを訪問時の面白い話が掲載されている。

 荒俣宏さんや、京極夏彦さん、村上健司さん、多田克己さん達、妖怪研究グループの関連本も楽しく読ませて頂いている。彼らの京都奇祭探訪記も面白くて読ませて頂いた。妖怪というのは私が生まれ育った昭和20年代の北河内郡大字招堤村でも確かに存在していたと思います。人里離れた田圃の中の一軒家でしたから、夜になると真っ暗闇の世界です。星明りかお月さまの光しか存在しない世界でした。

 当時、自宅の庭では鶏を飼育していたので、よく『いたち』が襲ってきた。朝方に無残に襲われた鶏の哀れな姿を観たものです。子供の頃の私はだから、『いたち』が怖かった。そして、彼は妖怪になるので、よけいに恐れられていました。

 ドラマでも水木しげるさんの同郷の友人であだ名が『いたち』という人が登場しますね、多分、かれも妖怪の一人なんでしょうね。奥さんは背が高く、子供の頃は電信柱と呼ばれていたそうですが、水木さんにかかると『一反もめん』にされてしまいました、大笑いです。

 私は彼らの故郷である安来や境港という東出雲の風土が特に興味があります。古事記や日本書紀に登場する古い歴史を持つ神話の故郷であるからです。そのような場所で育ったからこそ、妖怪について語る事ができるのではないかと思っています。

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バンコク紀行その13 暁の寺(ワット・アルン)

 承前 バンコク紀行その12 エメラルド寺院と王宮(後篇)

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 三島由紀夫の小説、『豊饒の海 第三部 暁の寺』で有名なワット・アルン(正式にはワット・アルン・ラーチャワラーラーム)の訪問です。場所は現在の王朝であるバンコク王朝(チャックリー王朝)の王宮からチャオプラヤー川の対岸であるトンブリー王朝の都であった場所に有ります。アユタヤ王朝は1767年にビルマの侵攻により滅亡しますが、アユタヤの将軍であった華僑出身のタクシーンが新たな王朝であるトンブリー王朝を此処を都として開基した。

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 (写真は菩提樹と暁の寺 大塔・小塔)

 しかし、晩年に精神的な病に罹り、将軍であったラーマ1世に倒され王朝は交代し、チャックリー王朝(バンコク王朝)=現王朝が開かれ、対岸にある現王宮のある場所に都は移動する。『暁の寺院』はアユタヤ時代から存在したようですが、トンブリー王朝を開基し都を此処に開いたタークシン王から本格的に整備が始まったようだ。

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 現在エメラルド寺院に安置されているバンコク王朝の守護仏であるエメラルド仏は当初、暁の寺院に安置されていたそうだ。その後、ラーマ2世、3世がこの寺院の整備を積極的に行い現在見られる立派な寺院に変貌したという。

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 中国から輸入した高価な陶磁器をふんだんに仏塔の壁面の装飾用に利用された。まるで、ブルーの陶磁器の須弥山を作り上げたのだ。中央大塔(中央祠堂)は75メータ、基壇部は周囲234メータもあります。中央大塔の周囲には4基の小塔が聳え、まるで、アンコール・ワットと同じ構造をしている。クメールの影響が大きいと思います。

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 大塔の上にはヒンドゥーの神であるインドラ神が3つの頭を持つ象であるアイラヴァータの上に乗っている。インドラ神は雷を操る天空の神であり、日本では帝釈天と呼ばれる。明らかにヒンドゥー教の寺である。大塔・小塔の壁面にはヒンドゥーの神々が彫刻されている。ガルーダやアプサラ(天女)やデバター(女神)がアンコール・ワットと同じように彫刻されている。

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 大塔に登れば360度の古の都であるトンブリー、そして対岸のチャックリー王朝(バンコク王朝)の都を一望できるのが素晴らしい。

 マイフォト バンコク 暁の寺(ワット・アルン)写真集

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