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長安(西安)・北京紀行その6 華清池(唐華清宮遺跡)

 承前 長安(西安)・北京紀行その5 藍田原人・仰韶文化(半坡遺跡)

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 マイフォト  華清池(唐華清宮遺跡)写真集   

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西安東50キロ、秦始皇帝陵近くの驪山の麓に華清池があります。唐の玄宗皇帝と楊貴妃が秋から冬の期間湯治場として過ごした離宮址です。当時は華清宮として城壁で囲まれた沢山の宮殿が立ち並ぶ梨園でもあったようです。

 安史の乱で全て破壊され、再度利用されるようになったのは清の時代になってからだそうだ。偶然に1982年に楊貴妃や玄宗皇帝が利用した貴妃池(海棠湯)、蓮花湯が発見され今は当時の建物が再建されています。

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 この場所は古く、西周の時代から王が湯治場として利用していたようで、秦始皇帝もこの温泉を利用した可能性があるそうです。現在でも、誰でも有料ですが温泉を利用する事が可能です。しかし、やはり一番人気は玄宗皇帝と楊貴妃のラブロマンスではないでしょうか。

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(写真は楊貴妃の専用温泉、貴妃池(海棠湯)、です)

 所で、楊貴妃ですが彼女はもともと、玄宗皇帝の息子の妃でした、名前は楊玉環といいます。玄宗皇帝に見初められ皇后の次の位である貴妃にまで登りつめた訳です。唐の時代の後宮では皇后の次に女官である四夫人、次に九嬪(ひん)、次に二十七世婦(せいふ)、次に八十一御妻(ぎょさい)と多くの女性がいたんです。

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(写真は玄宗皇帝専用の温泉である、蓮花湯です)

 皇后の次の位である四夫人は、貴妃(きひ)、淑妃(しゅくひ)、徳妃(とくひ)、賢妃(けんぴ)と決められていたそうだ。従い、楊玉環は楊貴妃と呼ばれているんですね。どうりで、日本の女性の名前に貴子、淑子、徳子、賢子が昔は多かったように思いますね。

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(写真は太宗皇帝(李世民)が644年に建造した星辰湯です)

 彼女は息子の妃でしたから、一度この世の世界と縁を切る為に道士になったようです。そして、還俗させたようです。日本で楊貴妃と言えば果物のライチ(茘枝)が好きで遥か南の地から運ばせたと聞いていました。彼女は蜀の国の生まれですから、馴染の好きな果物だったのでしょうか。そうそう、私も明後日から楊貴妃の故郷、蜀の国に行く予定です。

  

 楊貴妃と言えば、何時も思い出すのが正倉院御物である鳥毛立女屏風ですね。しもぶくれしたふっくらした顔が美人の基準であったようです。唐時代からのお墓の壁面には同じような、しもぶくれのふっくら顔が描かれています。日本が一番、唐の影響を受けた時代は平安時代初期の頃です、平安時代に美人の顔は殆どこの、しもぶくれした目の細い、引き目鉤鼻のおたふく顔ですよね。(笑)

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 当時の世界では文化文明の中心は唐王朝でした、美人の規格は以外にも玄宗皇帝が愛した楊貴妃にあったのかも知れませんよ。阿倍仲麻呂は文化人として、玄宗皇帝の側近でした、楊貴妃に出合っていたでしょうし、彼女の音楽や舞を観た事があるでしょうね。

 寒さの厳しい長安の冬、玄宗皇帝と楊貴妃はこの離宮であり、湯治場でもある華清宮で温泉に入り、夜は彼女の演奏する音楽や舞に酔いしれていたんでしょうか。冬の凍てつく中、九龍池には温泉が流れ込み濛々と湯気を上げていたと思います。

 

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