長安(西安)・北京紀行その3 西安 漢陽陵地下遺跡博物館
承前 長安(西安)・北京紀行 その2 阿部仲麻呂記念碑(続編)
前漢時代の第6代皇帝だった景帝(劉啓)の陵墓です。秦を滅亡させた劉邦(BC247~BC195)から数えて6代目です。劉邦は項羽との戦いに勝利(垓下の戦い)し長安を都としました。漢王朝の陵墓は秦始皇帝が都をおいた長安の北21キロ、咸陽の地にあります。
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景帝の陵の東400メータの地点には皇后の陵も配置され陵園となっています。陵は四角錐台形の構造で底辺170メータ高さ31メータ、頂部辺50メータの規模、1990年から発掘され現在、漢陽陵地下遺跡博物館として公開されている。
陵墓周辺が発掘され、秦始皇帝陵の兵馬俑坑のような地下佣坑が発見されたのです。陵墓本体の発掘はされたかどうか判らないが、周辺の佣坑が公開されている。
佣坑の上に強化ガラスを設置し見学者は足下のガラス越しに佣坑の状態を見学出来る仕組みであり、ユニークな博物館となっている。発掘途中の模様を見学できますので、兵馬俑坑と同じ考えだと思います。陵墓直下の墓室は発掘されていないのか、未公開です。
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佣は兵馬俑坑の佣ととは異なり、小さい佣であり且つ手は木材を使用し、着物類は植物繊維ですから2千年も経過すると溶けてしまい頭・胴体・足が残っているだけです。兵士佣、侍女佣、ユーモラスな動物の佣を見る事が出来ます。犬や豚がとても可愛く沢山列を作り佣坑に並んで立っています。
劉邦(高祖)が秦王朝崩壊後、漢王朝(前漢・西漢)を開祖するのが、BC216年です、第五代皇帝の文帝、第六代景帝の頃は国内が安定し人々は豊かに暮らしたという。文景の治という言葉があるようですね。景帝の時代に劉一族の反乱事件が起こるがこれを平定し、皇帝の地位と中央集権化が進んだという。
私達が馴染なのは、景帝の次の武帝ですね、帝国を東西南北に拡大にシルクロードを開拓し、西南夷の雲南の地の滇王国も漢の支配下に置き、朝鮮半島にも進出し楽浪郡を置き植民地支配を開始した。その事が日本列島にも大いに影響を与える事になってきました。雲南紀行で武帝が滇王に与えた蛇の鈕のある金印の話に触れましたね。
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