日本百名山 筑波山登山紀行その1(白雲橋コースを登る)
承前 筑波山から帰りました
2010年5月18日快晴、朝8時2分の秋葉原発、筑波エキスプレスに乗り筑波駅到着8時40分頃。筑波山神社直行のバスに乗り9時40分に神社入り口到着です。筑波名物ガマガエル君がお出迎えでした。
登山の無事を祈りに筑波山神社に参拝しましょう。今日は、筑波山神社から白雲橋コースを登ります、先ずは目指すは筑波山の双子峰のピークである女体山です。
登山の前に筑波山神社と古代の歴史に触れましょう。筑波山神社は御神体が三輪山と同じく山そのものです、ですから本殿は存在しません、あくまで拝殿が麓に存在する訳ですね。神社の由緒を読むと、崇神天皇の時代に物部氏の一族である筑波氏がこのあたりに拠点を築き神社を祀ったとあります。
崇神・垂仁・景行天皇の所謂、三輪王朝の時代にヤマト王権は関東に進出し蝦夷である鬼怒川流域を拠点とし東北に地盤を持つ『毛族』と対峙していたと考えられます。
当時の地形は霞ヶ浦は古鬼怒湾と呼ばれ鬼怒川が流れていました。ヤマト王権は鬼怒川の河口を抑える為に香取・鹿島神宮(戦略軍事拠点)を設け蝦夷の『毛族』を封じ込める作戦にでました。そして、鬼怒川を西に見下ろす筑波山にヤマト王権の軍事集団である物部氏が最前線に拠点を置いた。
一方、利根川も重要な交易路でしたので、埼玉古墳群のある利根川南岸に拠点を作り、毛族が住む利根川北岸と対峙したと想定されます。(当時の利根川は江戸湾に注いでいた)稲荷山古墳の鉄剣は5世紀の雄略天皇の時代ですが、三輪王朝の頃から埼玉古墳群にはヤマト王権側の軍事拠点が存在したと想定されます。(垂仁天皇の頃と思われます)
鬼怒川の名前も『毛奴川』で毛族の支配した交易路としての重要な古鬼怒湾から太平洋にでる行路であったと考えられます。詳しくは、過去に『埼玉古墳群 紀行記』、『鹿島・香取神宮紀行記』を参考にしていただければ、4~5世紀の当時の歴史を推測可能と思います。
東京・神奈川でも毛の人々の痕跡があります、かみのげ、しものげ、という地名が今も残っていますね。
参考 筑波山登山紀行 写真集
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