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長安(西安)・北京紀行その1 長安・阿部仲麻呂記念碑

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 現在の西安都心に『興慶宮公園』という市民が集う公園に阿部仲麻呂記念碑が建立されています。建立されたのは1979年だそうですが、奈良市・西安市友好都市5周年記念して建造されたという。丁度、阿部仲麻呂留学1200年記念だったようだ。

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 写真は記念碑です、友人であった詩人の李白の詩と阿部仲麻呂の詩が彫られていました。先ず李白の詩について見てみましょう。

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 七言絶句の詩ですね、写真の記念碑を記録します。

 哭晁卿衡(晁卿衡を哭す)

 日本晁卿辞帝都(日本の晁卿 帝都を辞す)

 征帆一片遶蓬壺(征帆一片  蓬壺を遶る)

 明月不帰沈碧海(明月帰らず 碧海に沈む)

 白雲愁色満蒼梧(白雲愁色 蒼梧に満つ)  

 阿部仲麻呂は717年に遣唐使として吉備真備、眩坊、井真成、等々と一緒に渡唐し科挙試験に合格し唐の役人となった。17年後に真備、眩坊は平城京に帰国するが仲麻呂は帰国が許可されなかった。(唐の国家公務員ですからね)

 在唐35年後に彼は平城京に帰国する事が許される、官位は秘書監・衛尉卿だったようだ。従三品の地位であり、図書寮長官兼宮門を守る長官であり卿の地位ですから、随分と玄宗皇帝に気に入られていたようです。17歳で渡唐していましたから、帰国時は52歳頃でしょう、やっと職を辞す事が許されたのでしょうね。帰国にあたり部下であった王維も詩を作り仲麻呂に贈ったようです。しかし、帰国船は南に流されベトナム中部まで漂流し帰国は叶わなかった。仲麻呂遭難するの報が長安に伝わったという。その報を聴いた李白が嘆き悲しみ歌った詩が上記の詩となります。

 この詩は初めて興慶宮公園で接したが、不可解な文言があり表面上の意味解釈ではいけないような、不思議な感覚に襲われたのは事実です。謎の文言は幾つかありますが、先ず何故、日本という国名を名前の前に入れたか、船で日本に向かうのに何故、陸上の行路で使用する遶(めぐる)という漢字を使用したのか、蓬壺という言葉も秦の始皇帝の時代から中国人が東海に浮かぶ神仙の島、蓬莱山をイメージした言葉であり、最後の蒼梧(そうご=アオギリ)という地名が登場するのか。

 この李白の詩は特に有名では無い、それは表面上の解釈しかしないからではないだろうか。仲麻呂は役職柄、多くの文人と交流があり特に李白や王維とは酒を飲み故郷の話をしたと思う。先ず、表面上の解釈は以下のように考えられている。

 『日本から渡唐し、玄宗皇帝から晁衡(朝衡)の名前を貰い栄達し卿の地位を得た人間が世界の中心都市、100万人を抱える帝都を辞する事になった。

  ささやかに、一本の帆柱に帆を掲げ、不老不死の仙人が住むと言う東海に浮かぶ蓬莱山の島を目指し、めぐる事になった。

 しかし、明月に例える事が出来る晁衡さんは、碧海に沈み帰らぬ人となってしまった。

  中国東南部(ベトナム地域)の蒼梧と呼ばれる土地の上空には愁いを帯びた白雲が満ちているのだ。』

 という事になりますね。蒼梧とはアオギリの植物の名前であるが、中国では現在のベトナムのハノイあたりの土地を蒼梧と呼んでいるという事で、中国東南部の船が難破したあたりを指したと解釈されている。

 しかし、私はこの詩には別の意味が隠されているように思います。李白は仲麻呂を文人として尊敬し、官僚としても尊敬していたのではないかと思います。李白が仲麻呂に期待していたのは、世界の都、長安で52歳になるまで学んだ知識と仁徳を東の蓬莱山の島で政治と文化の面でリーダーとして活躍する為に帰国すると考えていたのではないだろうか。

 日本と言う言葉は太陽が昇る国であり、太陽を指す、そして対にして晁衡を明月に例えて太陽と月を詩に盛り込み対比させている。想像をもっと逞しくすれば、中国伝説の理想の皇帝である堯と舜がこの詩に込められているのではないだろうか。舜は道半ばで蒼梧の野で死んだとされ、仲麻呂も道半ばで海に沈んだ。遶という漢字には堯が意図されているように思える。

 蓬壺という言葉は日本の古墳時代を研究してる人には馴染の言葉です。前方後円墳の形態は卑弥呼の時代の神仙思想である世界観を示し、壺の形に造られたという学説が主流になりつつあります。箸墓古墳から始まる巨大な周濠(海をイメージ)に囲まれ巨大な壺型の蓬莱山を建造したのが前方後円墳であります。

 阿部仲麻呂は阿部氏の出自です、日本の古代王朝の都はイワレ(磐余)の地であり阿部一族が耳成山近くに本拠地を構え古くからヤマト王権を支えた氏族であります。春日氏も阿部氏の支族ですが、あの有名な春日山の三笠山の歌は阿部氏(春日氏)の本拠地故郷を偲んでいるのです。その後、藤原氏が乗っ取りました。

 という訳で、私の解釈は

 『上記、一般的解釈に付け加え、文人としても官僚としても優秀な仲麻呂は日本に帰り、中国の理想の政治をした堯・舜のような業績を日本で行うであろうことを期待していた。しかし、舜が道半ばで蒼梧の野で死んだように、仲麻呂も道半ばで海に沈んでしまった。そして、彼は明月になったしまった事が悲しい。』

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Comments

 Joさん

 お帰りなさい 中国への旅にしては比較的短期間じゃありません? トルコ~エジプト~タイ~チャイナ・・・次はやっぱりインカの都ですかネ

 ところで、毎晩、胡姫のお酌 で飲んでいたという唐時代の文化人。その時代の社交場・・・胡姫連、目鼻がくっきりした中東の女性のようではありませんか・・・覗いてみたいです

Posted by: | 2010.05.13 01:09 PM

てっちゃん ご無沙汰です~

 お元気そうですね、ゴルフも快調のようですね。

 旅行ですが、マチュピチュは4月に行く予定でしたが、風水害でがけ崩れ、鉄道網が破壊され中止となりました。月末からは、又、中国の九寨溝・黄龍に行きます。

 長安の夜ですが、李白は酒豪で酒場で寝泊まりしてたそうですよ。742年の頃から数年間、玄宗皇帝の側近文化人として仕えていたので、その頃、仲麻呂と毎晩酒を飲んでいたと推測します。

 李白の両親は西域で暮らしていた節もあり、蜀の国で育ったようですが、道士の顔も持っていたようで、道教のメッカである山東省で道士仲間と相当に、道教を極めた節があり、蓬莱山の国=日本に憧れがあったようです。

 胡姫のお酌と言ったのは、彼の経歴と、私のオジサンが戦前に10年間、上海・蘇州で過ごしていたので、昔の中国での酒場の話をネタに書いた訳です。興味がおありのようですね。(笑)

Posted by: jo | 2010.05.13 02:29 PM

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