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バンコク紀行その12 エメラルド寺院と王宮(後篇)

 承前 バンコク紀行その11 エメラルド寺院と王宮(前篇)

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 エメラルド寺院本堂の回廊を埋め尽くすヤックもしくはガルーダです。仏教そのものは、お釈迦さまがヒンドゥー教の宗教改革として生まれたものですから、仏教の基底にはヒンドゥーの宗教観が存在するのは当たり前なんですね。我々日本人はガンダーラからシルクロード経由中国、朝鮮半島と経由した仏教に馴染があるだけで、それが全てでは無い事を認識すべきでしょうね。

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 エメラルド寺院の回廊には延々とラーマキエン物語の絵巻物が描かれています。この物語の原型はインドの『ラーマヤーナ物語』です。アンコール王朝時代のアンコール・ワットの寺院の回廊にもこの『ラーマヤーナ物語』の絵巻物が延々とレリーフとして彫刻されています。アンコール・ワットはヒンドゥー教の寺院ですから当たり前の事かもしれないが、タイのバンコク王朝の仏教の考えにも大きな影響を与えているのですね。写真では猿軍団が味方してくれて悪魔軍団と戦っている場面です。

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 プラ・ウィハーン・ヨットの前に佇む像です、最初は半人半鳥のキンナラかと思ったが、これもガルーダではないでしょうか。不明ですね。

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 ボロマビマン宮殿ですね、ラーマ1世から8世までが住んでいた宮殿です。ラーマ8世が暗殺されて以降、現在のラーマ9世は使用されていません。やはり縁起がわるいのでしょうか。

  マイフォト エメラルド寺院と王宮写真集

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累積120万アクセス 

 承前 累積110万アクセス達成

 昨年12月10日に110万アクセス達成しましたが、4か月経過した4月29日に120万アクセスを達成しました。

 累計アクセス数: 1200216 1日当たりの平均: 549.80

 過去1カ月間のアクセス分析(3月30日~4月28日) この1カ月間のJoBlogのアクセスについて報告します。

アクセス数: 22,989
 
訪問者数: 15,055

 (頁別アクセス数)

 NHKドラマの大仏開眼の記事は人気がありました。不思議と何時もアクセスがあるのが、潜水艦型 空母の記事ですね。手打ち蕎麦も人気ですが、地味な継体天皇に関する記事は古代史趣味の方も居られるという事ですね。嬉しい限りです。

1 JoBlog: トップページ 6301,857 4.2% 8.1%
2 JoBlog: NHKドラマ 大仏開眼 257304 1.7% 1.3%
3 サッカーラの『階段ピラミッド』: トップページ 23102 0.2% 0.4%
4 JoBlog: 潜水艦型 空母 5492 0.4% 0.4%
5 JoBlog: 手打ち蕎麦を極める 2368 0.2% 0.3%
6 JoBlog: 2010年4月24日 千葉飛行会 3165 0.2% 0.3%
7 JoBlog: 『継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳』 高槻市教育委員会 吉川弘文館 1456 0.1% 0.2%
7 アンコールワット 第一回廊レリーフ: トップページ 1456 0.1% 0.2%
9 JoBlog: 週末はバンコクのアユタヤです 3555 0.2% 0.2%
10 JoBlog: 金曜日から風邪でダウン 3853 0.3%

0.2%

 

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バンコク紀行その11 エメラルド寺院と王宮(前篇)

 承前 バンコク紀行その10 ワット・プラ・シー・サンペット

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 エメラルド寺院は王宮と同じ場所にありますが、この写真は少しボケていて申し訳ないです。中央の60センチ程度の翡翠で出来た本尊仏がバンコク王朝の守護神であるエメラルド仏です。ラーマ1世(バンコク王朝創始者)がラオスのビエンチャンに遠征した時に持ち帰った仏さんです。

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 エメラルド寺院は通称であり、ワット・プラケーオともワット・シーラッタナーサーサダーラームと呼ばれています。写真はラーマ4世が建立した仏舎利塔プラ・シー・ラタナー・チェデイと呼ばれています。イタリア製の24金の金箔を貼りめぐらした黄金仏舎利塔であり、スコータイ王朝時代の様式を伝えています。(スリランカ様式)

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 鬼の守護神であるヤックです。赤鬼・青鬼ですね、上海万博のタイ館でも登場してるようですね、先日上海万博の紹介映像で見つけました。これは、本来はヒンドゥーの神でありヤクシャ(サンスクリット語)と呼ばれる守護神です。日本では夜叉と呼ばれているようですね。日本のお寺では南大門の左右を固める金剛力士像でしょうか。

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 経蔵ですプラ・モンドップと呼ばれています。三蔵経を納めているそうですよ。仏陀の教えが書かれた教蔵・律蔵・論蔵をまとめて三蔵経と呼ぶそうだが、元来バーリ語という文字を持たない言語で伝えられ各国の言語に翻訳される時に間違いが存在するという。ラーマ5世の時代にタイ語で三蔵経を作成し欧米帝国主義の諸国に送り着け、タイ国の文化レベルの高さを唱え植民地化されるのを回避したエピソードがあるそうだ。

 そういえばインドで仏教を極めた坊さん、三蔵法師と言いますね。

 マイフォト バンコク紀行 エメラルド寺院と王宮写真集

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バンコク紀行その10 アユタヤ ワット・プラ・シー・サンペット

 承前 バンコク紀行その9 アユタヤ(ワット・プラ・マハタート)

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 アユタヤ王の遺骨を埋納した仏塔が並ぶ、アユタヤ王家の寺院というか、お墓です。名前は『ワット・プラ・シー・サンペット』と呼びます。此処も、ビルマ軍に攻撃され壊滅的な打撃を受け廃墟となりました。仏塔や建物は破壊され、宝石や貴重な物は持ち去られた。

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 特に16メータの高さを誇った金の仏像は融かされ、インゴットにされて持ち去られたといいます。アユタヤ王家が如何に海のシルクロードで収益をあげていたかが判ります。

 訪問した頃はもう夕日が落ちる頃でした、徐々に暗くなり始め夕日が仏塔にかかる風景はなかなか素晴らしい趣きでした。

 マイフォト アユタヤ ワット・プラ・シー・サンペット写真集  

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私の好きな番組 『世界ふれあい街あるき』

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 最初にこのNHKの番組を観た時に、不思議な映像の感覚に捕われてしまった。この滑らかな画面の動きはどのようにして撮影しているのか不思議だった。最初はレールの上をビデオカメラが動いているのかと考えていたが、階段を滑らかに登るのでどうも違うと思った。

 調べてみると、ハリウッドで開発されたステディカムという特殊な移動撮影用の機材を担いで撮影している事が判った。参考 ステディカム紹介

 撮影カメラマンは40分程度が限度らしく、撮影は大変のようだ。画面の、のんびりした光景とは裏腹に撮影カメラマンは重労働なのだ。苦労して撮影しているのだ。

 中嶋朋子さんの独特のナレーションが心を落ち着かせてくれる。自分が旅をしている気持ちにさせてくれる。気取りのないナレーション、優しい語り口、興味大盛な探究心、語りかけが絶妙である。彼女がどんな人か全く知らないが、ラジオ番組を担当されると素晴らしいキャラクターを発揮されるような気がする。

 今迄の旅番組は誰かレポータが居て、その人の目を通して旅をする様式が殆どであった。しかし、この番組の主役は視聴者であるように考えられているのがミソだ。先日も、イギリスの田舎のコッツウォルズ地方の旅を放送していたが、懐かしく、自分の旅を思い出していた。

  英国紀行(2009年9月) コッツウォルズ紀行

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2010年4月24日 千葉飛行会

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 本日早朝6時半に予定通りわこちゃん&かっちんが迎えに来て下さり、一路、千葉県八千代を目指した。朝7時過ぎから、地元のよっちゃんと4名で快晴の空のもと、楽しい飛行会が開催された。

 マイフォト 2010年4月24日 赤とんぼ 千葉飛行会写真集

 今回は、わこちゃんが信州白馬村の合宿に参加できなかったので、彼には大いに飛行会を楽しんでもらおうという事になり、私とよっちゃんはサポートにまわった。

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Parfait(パッフェ)閉店のお知らせ

 5年前に阪急神戸線の園田駅近くで開店した古着と雑貨の店『Parfait』が閉店する事になりました。

 5年前の開店記念記事 『Parfait(パッフェ)』開店記念記事

  『閉店のお知らせ』

 パッフェは、5月末日をもって閉店致します。

 2005年5月27日に開店して以来、5年間、御愛顧頂き有難うございました。

 お客様一人一人との出会いが、私たちの宝物となりました。只今、『5年間ありがとう!セール』中です。

 *~5月2日まで 春・夏物半額セール

 *5月5日~5月9日 半額セール+まとめ買いセール

 *5月12日~ 閉店びっくりセール

 ご来店頂くと嬉しいです♪

  Open 12:00~19:00 close 月:火曜日

  電話:090-3827-3999

 との店主『のりちゃん』からのメッセージを受け取りました。私と家内がベトナムで過ごしていた頃彼女も買い付けに来られ、一緒にお店をまわったたり、朝市に一緒に出かけたり、楽しい思い出が沢山ありました。

 今まで御愛顧頂いた皆さまに、私からも御礼申し上げます。有難う、御座いました。

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バンコク紀行その9 アユタヤ(ワット・プラ・マハタート)

 承前 バンコク紀行その8 アユタヤ(ワット・ヤイ・チャイ・モンコン)

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 この衝撃的な仏像の写真は王宮の東にあるアユタヤ王朝時代の最大の寺院である、ワット・プラ・マハタートで撮影可能です。14世紀末の3代ボロマラージャ1世の時代に建立された寺院です。しかし、18世紀後葉にビルマの攻撃を受け灰塵になりました。徹底的に破壊され、仏様の首は砂岩で出来ているので簡単に切り落とされたという。仏塔は破壊され、金は溶かして金塊として持ち去られ、宝石・財宝は奪われた。今は無残な廃墟としてかつての栄華の跡を僅かに伝えている。

 この木の根に抱かれた仏様を見ていると菩提樹が仏様をお守りしているように思えてきます。釈迦は菩提樹の下で悟りを開いたとされるのも、何か因果が感じられます。以前、アンコール・トムを訪問した時に近くのタ・プロームという霊廟が殆どガジュマルの木の根で抱きかかえられ眠りに入った文明という印象を受けたが、この場所もそのようだ。

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 トウモロコシを立てたような仏塔様式はシュメール様式であり、半円ドームのトンガリ帽子のような仏塔はスリランカ様式であり、混在しています。仏塔はレンガを積み上げ、その上に漆喰が塗られ美しいレリーフが塔を飾ったという。今は僅かに、漆喰が残る部分で昔の面影を偲ぶしかない。

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 マイフォト アユタヤ(ワット・プラ・マハタート)写真集

 アユタヤ最大の寺院跡の風景は写真集を参考にして下さい。

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バンコク紀行その8 アユタヤ(ワット・ヤイ・チャイ・モンコン)

 承前 バンコク紀行その7 アユタヤ日本人町跡

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 アユタヤ初代王であるウートーン王(ラーマーテイボーデイー1世)が1357年にスリランカで修業をした高僧を招聘する為に建立したお寺です。寺の名前は『ワット・ヤイ・チャイ・モンコン』と呼ばれ、アユタヤ最古の寺院であり高さ60メータの巨大な仏塔で知られている。

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 アユタヤのナレースワン大王がビルマの皇太子と騎象による一騎打ちの場面。大王のスピードについて来れなかった将軍を処罰しょうとしたが、高僧が制止し、代わりに大仏塔を建立する事を提案し、将軍達を救った。それが、60メータの巨大な大仏塔。1592年に建立されている。

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 このリアルな蝋人形が王さまに仏塔を建てるように進言した高僧であると思います。

 実にリアルで本当の坊さんが座っていると最初は思ったくらいでした。見事な出来栄えではないでしょうか。今でも、タイ国王は海外に出かけたり、帰国するとこのお寺に無事の紀行を祈願・感謝の礼で参拝されるそうです。

 マイフォト アユタヤ(ワット・ヤイ・チャイ・モンコン)写真集

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バンコク紀行その7 アユタヤ日本人町跡

 承前 バンコク紀行その6 ラーマーヤナ物語

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 アユタヤはバンコクからチャオプラヤー川を70キロ程遡上した場所にあります。最初の王朝は13世紀にアンコール王朝から独立したスコータイ王朝ですが、もっと遡上したタイ北部に位置しています。アユタヤは1351年に創設されたスコータイ王朝を継いだ王朝ですが、都はこのアユタヤになりました。川に周囲を囲まれた城塞都市として建設され1767年まで417年間シャム王国の首都として繁栄した。

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 王城の外にはフランス、イギリス、ポルトガル、オランダ等々の西洋の国々、ラーオ、モン、クメール、ベトナム、中国、日本等々の国々が租界地を開いていた。日本人町はチャオプラヤー川東岸で川を挟んでお向かいさんはポルトガル租界地でした。アユタヤ歴史研究センターの現地資料によれば、日本人3千人、現地民や中国人、ベトナム人を加えると8千人の規模が日本人町の規模であったと想定されるそうだ。

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 駿河国駿府馬場町で駕籠かきをしていた山田長政が朱印船で渡来したのは1612年である。関が原の内戦が終わりもはや下剋上が閉ざされ、且つ、キリスト教が禁止され活路を海外に求めた優秀な人材がアユタヤに集まったのかもしれない。現地のガイドの説明でも日本人の多くはキリシタンであったと言う。

 17世紀初頭の頃、関が原終了時点での戦闘能力を考えると、日本の過酷な戦国時代を経験したレベルは世界最高のレベルではなかったでしょうか。武器・戦術・兵士教育、等々を考えると群を抜いたレベルであったと確か司馬さんがおっしゃっていたと思う。山田長政が傭兵頭として頭角を現すのは当たり前の事であったかも知れない。

 マイフォト アユタヤ日本人町跡写真集

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不思議発見 鉄の民『クーイ』が支えた

 先日、テレビ番組『不思議発見』で、謎の民『クーイ』が明かす! 密林の大国 クメールというなが~~い題目で番組が放映された。懐かしいアンコール・ワット、アンコール・トムを残したアンコール王朝の話なので、興味を持って番組を観た。

 結論から言うと、カンボジアの若き研究者である池上真理子さんの東京外大時代の卒論がベースである事が判った。現在は上智大学の大学院博士課程におられるとようですが、実に立派な論文だ。

 参考 池上真理子氏論文『アンコールの鉄生産ー非農業民が支えたアンコール』

上智には世界的にアンコール遺跡の権威であられる、石澤良昭氏がおられるので、アンコールを研究するのは最高の場所で研究されているのでしょうね。私も今年の正月に箱根駅伝のゴール地点の近くで、石澤氏が開催されていた『アンコール遺跡展』を見学に女房と連れだって出かけていました。

 クーイ族は製鉄の民だそうだが、ラオス国境近くの山とタイの東北部にも存在し産出する鉄鉱石から鉄の生産をおこなっていた。クメールは9世紀から14世紀の頃までインドシナ半島の殆どを制圧した王朝でしたので膨大な鉄の需要が必要だったと思います。

 テレビでは製鉄の遺跡が発掘された現場を放送していました、製鉄時に発生する鉄滓(スラグ)が層をなしていました。20基も発見されたと報道していましたね。膨大な鉄を生産していたようです。

 鉄はアンコール・ワットの石組にも使用されたようで、砂岩ブロックを繋ぐラジコン用語で言うヒンジ材として鉄を利用していたようだ。武器や土木作業、農作業に必須なのが鉄製品ですからね。古来、鉄は国家でした。

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バンコク紀行その6 ラーマーヤナ物語

 承前 バンコク紀行その5 ヒンドゥー教寺院(スリ・アリアマン)

 ラーマーヤナ物語の壁画はアンコール・ワットでもタイの寺院でもベトナムでも雲南の寺院でもおめにかかる有名なインド原産の叙事詩である。私はインドがアーリア人に何度も侵入され原住民(ドラヴィダ人)が奴隷もしくは海外に移住を余儀なくされた人々(タミル語を喋る人々)がラーマーヤナ物語やヒンドゥー教や言語を伝えたと考えています。

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 インド南東部はタミル語を今でも喋る人々であり、スリランカ、マレーシア、シンガポール、チャンパとタミル語を喋る人々の拠点と海のシルクロードが重なるのです。言語学者の大野晋は日本語祖形はタミル語であると述べていて、未だ学会では決着がついていない話は有名ですが、私は言語が伝播したならそれ以外の文化遺産も伝播したと考えます。

 参考 日本語の起源(大野晋 岩波)

 現在でも8千万人も喋るタミル語が日本語の祖形であるならば、この海のシルクロードを調べなければ立証出来ないと思います。インド原産の叙事詩『ラーマーヤナ』も必ずタミル語と伴に伝播したと考えました。勿論、近世に於いて英国が植民地経営の為に多くのタミル語を話す民族をマレー半島からシンガポールに移住させた事実もあると思いますが、それより遥か昔に海のシルクロードで移住したタミル語を話すドラヴィダ人が存在したと考える。

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 ラーマ皇子と妃のシーターは陰謀で宮廷を出る、そして、森でラーマ皇子は鳥王と親交を得る。しかし、妃のシーターは魔王の手先に誘拐され、スリランカ島に連れ去られた。

 猿王の軍団の援軍を得て、ともに魔王に誘拐されスリランカ島に連れされた、妃シーターを助け出す為に島に乗り込むラーマ皇子と猿軍団。

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バンコク紀行その5 ヒンドゥー教寺院(スリ・アリアマン)

 承前 バンコク紀行その4 ワット・スタット

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 バンコクにはヒンドゥー(バラモン)教の寺院もあります。この寺院はスリ・アリアマン(Sri Maha Hariamman)と呼ぶ寺です。残念ながら内部の撮影は禁止ですので写真は外部からだけです。寺院内では不思議な短い同じ歌詞の歌が流れており独特の雰囲気です。黒い肌のインド人風の若い僧が司祭を取り仕切っていました。

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 このカラフルな彫刻で艶めかしいバラモンの神々は何処か妖しさを秘めているように感じます。私も参拝させて頂き、額に辰砂を塗って貰いました。昔、読んだ手塚治虫さんの『三つ目が通る』の漫画を思い出していました。しかし、参拝した時の抹香の香りと不思議な単純な音楽が今も頭にこびりついているのが不思議だ。

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バンコク紀行その4 ワット・スタット

 承前 バンコク紀行その3 ワット・ラカン(鐘の寺)

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 この寺はバンコク王朝創始者であるラーマ1世により創建された。仏像はスコータイ王朝時代(14世紀中葉)リタイ王が鋳造したシーサーカヤームニー仏をワット・マハータートからチャオプラヤー川を筏の上に乗せバンコクまで運ばせた。仏像の特徴は右手を地に垂らす『降魔印』が特徴です。

 マイフォト ワット・スタット

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 礼拝堂の全景です。周りの石像はバンコク王朝が中国との貿易で買わされたものだそうだ。この寺は私が生まれた年に暗殺されたラーマ8世の遺骨が安置されているという。『暁の寺』風に考えると、ひょっとすると私はラーマ8世の生まれ変わりかも知れない。(笑)

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バンコク紀行その3 ワット・ラカン(鐘の寺)

 承前 バンコク紀行その2 龍蓮寺(ワット・マンコン)

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 チャオプラヤー川の左岸には王宮があり右岸には、バンコク王朝創始者であるラーマ1世のお寺である『ワット・ラカン(鐘の寺)』があります。バンコクの主要な繁華街は王宮のある左岸にあり、『ワット・ラカン』も『暁の寺』も右岸、即ち太陽の沈む方角にあります。

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 タイ国の歴史を考えるとこのチャオプラヤー川とともに繁栄した。13世紀に興ったスコータイ王朝もアユタヤ王朝もこの川の上流流域で繁栄した。その頃は下流域のバンコク地域は雨が降ると氾濫し人が住める状況ではなかったそうだ。今でもバンコクは中洲の上に建造されていて、地球温暖化で海面上昇すれば即、海の底だと思われる。

 渡し船でお寺を参拝したが、黄河と同じく茶色というか茶褐色の川であり殆ど透明度が無い。魚は豊富でピョンピョンと飛び跳ねている風景を観る事が出来る。多くの観光船や渡し船や妙な、自動車のエンジンを裸で搭載した高速艇が行き来する風景だ。

 マイフォト バンコク 『ワット・ラカン(鐘の寺)』 写真集 約50枚の写真が収録

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バンコク紀行その2 龍蓮寺(ワット・マンコン)

 承前 バンコク紀行その1 歴史について

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 バンコク市内の中華街に中国人の為の大乗仏教のお寺『龍蓮寺(ワット・マンコン)』があります。ガイドさんの話では、中国を故郷とする華僑が分散して小さな自分達の寺を持っていたのを、一箇所にまとめ敷地を与え大きなお寺を作る事を可能にしたという。

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 バンコク王朝の時代だと思いますが、弥勒菩薩と四天王(広目天、増長天、多聞天、持国天)が祀られていました。同時に、道教の神もお参り出来るようになっています。海のシルクロードを通じて貿易に従事した人が中国から渡来し永住した子孫ではないでしょうか。世界中どこでも中華街はあります。

 アメリカのサンノゼに住んでいた時に感じた事ですが、中国の人は決して母国語を忘れないし、中華の文化を忘れない。しかし、日本人は直ぐに現地に同化してしまい、子供達が自宅でも英語を喋るのを禁止しない。祖国の文化を直ぐに忘れてしまう傾向が強いと感じた。中国という国の成り立ちそのものが商という名前からして、商人の資質のDNAが基底に存在するように思う。この商人のDNAと中華街を作る行動と中華文化を忘れない関係について、一度、じっくりと考えてみたいと思います。

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 仏塔の前に祠がありました。祠はお釈迦様が悟りを開いた菩提樹の木の根元にあります。福田箱というのは賽銭箱の事のようですね。狛犬と同時に何故かトラがいますが、不明です。菩提樹の幹にスカーフのようなものが巻かれています。(古代の日本ではヒレと呼ぶ天女が纏うスカーフのようなもの)

 

 

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バンコク紀行その1 歴史について

 承前 バンコク紀行から帰国しました

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 タイ国の歴史を概観してみましょう。写真はアユタヤの日本人町跡にある博物館に掲載されていた航海図です。海のシルクロードの地図といってもいいでしょうね。

 東洋史の宮崎市定さんの『アジア史概説』をハンドブックとして今回の旅に持参していました。彼の説に依れば、古来、インドにアーリア人がインドに大移動を行った頃からインド東南部から船で交易を目的とする海人がマレー半島を南下し、インドネシア・シンガポールあたりにインド文化の植民地を築いたという。

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 そして、ジャワ方面にも伸び拠点をジャワに築き又、北上し現在のタイ国のチャオプラヤー川流域に国際貿易拠点を築いたという。そして、更に北上し現在のベトナム中部にチャンパ王国を貿易拠点とし、中国との交易を行ったという。このルートにてインドのバラモン教(ヒンドウー教)や仏教は伝播したという。

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 タイ国が世界史上登場するのは13世紀の頃からであり、アンコール王朝が衰退した頃にチャオプラヤー川上流に興ったスコータイ王朝(1238年~1448年)を起源とする。しかし、民族としてのタイ族は古く、長江下流域で稲作をしていた民族であり、漢民族の南下で追われ現在の雲南省あたりに移動した。

 現在も雲南省に存在する少数民族であるタイ族は更に南下しチャオプラヤー川流域で定着したのではないかと考えられているそうだ。どうやら、日本に稲作を持ち込んだ長江流域の稲作民とルーツが同じと言う事になる。

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 スコータイ王朝のあとアユタヤ王朝(1351年~1767年)が長期王朝として現在のバンコクの北70キロあたりのチャオプラヤー川流域で隆盛を極めた。冨の源泉は国際貿易の中継地点としての商業である。最盛期の頃に関が原の内戦で日本国内が統一に向かった頃、新天地を目指した駿府の籠かきの無頼漢である山田長政が同じく日本で活動の場を失ったキリスト教徒と、ともに移住したのがアユタヤである。当時の日本は戦国時代を経て世界最高の戦争技術を持っていたと言われるが、彼はそれをアユタヤ王朝の傭兵頭として発揮し一躍、最高位に昇りつめた。

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バンコク紀行から帰国しました

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 バンコク紀行から無事に戻りました。滞在中はバンコク市内でのタクシン派のデモが大きく報道され、且つ、日本人報道関係者が死亡するという事件もあり御心配をおかけしました。

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 初めて訪れる微笑みの国、タイ王国で何が起こっているんでしょうか。近世に於いて東南アジアでは珍しく西洋の植民地化から逃れた国、微笑み続ける国であって欲しいと願います。写真は世界遺産に登録されてる、アユタヤの遺跡です。1351年から1767年までの417年間シャム王国の都であった場所です。

 関が原の戦いで日本は安定した統一国家が築かれる頃に、駿府で駕籠かきをしていた山田長政がシャムで武人として最高の官位を獲得し活躍した都で、日本人には馴染の場所です。1630年に毒殺されたが、大いに海洋民族としての倭人の誇りでありました。

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エジプト紀行 目次編

 2010年1月30日~2月2日の期間、エジプトのナイル川下流域である下(しも)ナイルの遺跡群を訪問しました。2009年に早稲田大学の考古学教室でエジプト考古学の近藤二郎教授の講義を受けた経験もあり、エジプト訪問は楽しみでした。

 今回は下エジプトのみの紀行であり、ほんのエジプトの一部ですが楽しみは又、次回に譲るという考えでした。数年前に観光客がゲリラに襲撃されるという事件がありましたが、確かに今でもホテルや我々観光客が行くレストランは自動小銃を抱えたセキュリテイが守ってくれていました。

 ・エジプト紀行 計画編

 ・エジプト紀行その1 序章

 ・エジプト紀行その2 サッカーラの『階段ピラミッド』最古のピラミッド

 ・エジプト紀行その3 ダハシュールの『屈折ピラミッド』、『赤ピラミッド』

 ・エジプト紀行その4 メンフィスの『ラムセス2世巨像』(ブタハ神殿跡)

 ・エジプト紀行その5 アル=ギーザの3大ピラミッドの謎

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トルコ大紀行 目次編 3千キロの旅

 2010年1月22日~30日の期間、イスタンブールを基点にエーゲ海、地中海沿岸地域から、中央部のパムッカレ、古都コンヤを廻りカッパドキア、そして首都アンカラまでをバスで移動した。アンカラからは汽車にてイスタンブールに向い総キロ数3千キロに及ぶ大紀行でした。

 ギリシャ・ローマ文明とナイル・チグリス・ユーフラテス文明、ガンジス文明、長江・黄河文明そして、ユーラシアの草原地帯の遊牧文明が十字にクロスする『文明の交差路』として、トルコは位置していました。世界最大の遺跡群を誇り、且つ、現代ではキリスト教文明とイスラム文明の橋渡しとして重要な立場にあります。

 トルコ国民は明治時代より日本人を友好国民として考えている。明治時代、オスマントルコ時代に軍艦が串本沖で座礁した事件で、国交も無い国の日本の漁民が献身的な救助活動をし、そして1年間も遭難したトルコの船乗りの面倒をみた事実。そして、日本国民が当時の金で二億円も義援金を集め遺族に送付した事件は決定的な友好国民であると認識させた。

 帰国した軍艦の乗組員は多くは地方出身者だったそうだ、彼らは故郷に帰り、日本人から受けた好意を故郷の人々に伝えたのだ。そして、トルコの脅威であったロシアを日露戦争で破り尊敬する国民が遥か東アジアの果てに存在する事を認識した。

 この歴史的な事実は外交とは政治家や官僚だけがやるものではなく、一般的な庶民が草の根のように行う事の積み重ねである事を語っている。歴史を振り返ると、トルコだけでなく、日本の先輩諸氏はイスラエル国民に対しても、タイ、ベトナム、カンボジア、色んな国々の国民に対して草の根の友好活動をして来た。

  トルコ大紀行計画

  トルコ・エジプトから帰国しました

  トルコ大紀行その1 アヤソフィア(アギャ・ソフィア)大聖堂

  トルコ大紀行その2 アヤソフィア(アギャ・ソフィア)大聖堂 続編

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中国雲南紀行その13 多依河筏下り

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 多依河の筏下りの光景です。大きな水車がこの河にはかかっています。日本の昔の農村では必ず水車がありました。日本と雲南は似てる所が多いです、山に囲まれ流れの速い水が水車を回します。欧州や、中国の華北では河はゆったりと流れあまり水車を見た記憶は有りません。

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 桂林でもそうですが、筏は豊富な竹を素材として利用します。竹の筏です、軽くて浮力が多く効率的な筏となります。この筏に乗せて貰う事になりました。

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 地元の人が船頭をしてくれます、幸いこのあたりは河の流れも急ではなく、のんびりと河下りができそうです。

 

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週末はバンコクのアユタヤです

 今週末、金曜日からアユタヤ見学の為にバンコクに出かけます。滞在は5日間程度を予定しています。現在、最高に暑い季節だそうで、今日明日は38度~39度だそうです。

  バンコク天気予報

 問題は反政府のデモが激しい様子であり、日本の百貨店など休業に追い込まれてという報道があり心配しています。近年、微笑みの国にも大きな変化が起こっている様子ですね。北部の貧乏な人々が中心の反政府運動、南部のイスラムと問題を抱えているようです。

 数年前にカンボジア紀行をしましたが、今回はその延長と考えています。シャムという国をこの目で確認したいと思います。

タイは免税品のタバコの持ち込みが1カートン以内と制限されており、何時も5カートン程度は成田の免税品店で買うのですが、今回は駄目なようです。しょうがないですね。

 (最後のスペースシャトル)

 昨夜、最後のスペースシャトルが日本人女性、山崎さんを載せて飛び立った。次回からはロシアのロケットでISSとの往復が始まるという。アメリカの国力も随分と凋落したんですね。これからは、ロシアだけでなく日本のロケットも利用可能なように出来るかも知れない。姉さん女房で旦那が主夫というのも面白い。

 (おもろい猫 動画)

 http://www.youtube.com/watch?v=hPzNl6NKAG0&feature=channel

 テレビやコマーシャルで使用されてる、おもろい猫動画です。今度、孫がいる北海道にでかけたら是非、二匹の猫で、実験してみたいと思います。

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NHKドラマ 大仏開眼

 平城京遷都1300年記念の番組だと思いますが、NHK大阪放送局がドラマ『大仏開眼』を放映した。二回に渡る放送の第1回目の放送であった。残念ながら、今週末はバンコクのアユタヤに滞在しているので、第二回目は観る事が出来ない。

 主人公は吉備真備である。彼は門閥も無い身ながら右大臣にまで出世した学者であり、政治家で平安時代の菅原道真の奈良時代版と考えていい。身分制度が厳しい時代に於いてこの二人しか門閥の無い身分から右大臣に出世した人は居ないし、最後は藤原氏に大宰府に左遷されてしまう。境遇が似ているのだ。

 真備は阿部仲麻呂や井真成とともに遣唐使船に乗り、唐に留学していた。17年年間も遣唐使船がでていなかったのには、国内の混乱(長屋王の変、等々)と新羅との国交悪化、渤海国と唐との険悪な国際情勢が理由である。遂に渤海国と唐との間で戦争が始まりそうになり、唐の真意を探るべく17年ぶりに多治比広成を大使として遣唐使船を朝鮮半島経由しない東シナ海を直接横断するルートで杭州を目指した。

 吉備真備は帰国出来たが、井真成は帰国半年前に病死する。その墓誌が数年前に中国で発見され大きな話題になった。阿倍仲麻呂は玄宗皇帝が許可を下さなかった(既に科挙に受かっており唐王朝の国家公務員の資格だった理由による。)

 吉備真備は中国で歴法、音楽、兵学を学び三史五経、名刑算術、陰陽暦道、天文漏剋、秘術雑占、唐礼130巻、等々の書物を持ち帰り朝廷に献上した。ドラマでは帰国する船の中でも大事そうに背負子に担ぐ妙な楽器みたいな物に注目されたと思います。私が分析するに、上段に6枚の金属片、下段に同じく6枚の金属片が取り付けてありました。

 ドラマでの説明ではこれは基準音であり、音楽を演奏する時に笛や笙やシチリキや弦楽器はこの基準音に合わせる必要があったと説明していました。私はこれは、大事な事で音楽とは神に捧げるものであり、音階は神の声だったと思います。古来、中国では編鐘(へんしょう)という青銅製の楽器がありました。物干し竿みたいなものに、大きさの異なる銅鐸みたいなものをぶら下げ、叩いて音を出す装置です。

 原型は大きさの異なる特殊な石片に穴を開け木琴をぶら下げたようなものがルーツだと思います。中国では古代の編鐘が500以上出土しているといいます、26個、36個とか色々あるようですね。音楽史を勉強している人は詳しいと思います。私はドラマで使用された上段6個、下段6個は『よなぬき』2オクターブの基準と理解しました。第4音階と第7音階が存在しない、ド、レ、ミ、ソ、ラ、ドの『よなぬき』音階ではないでしょうか。

 日本では明治時代に西洋音楽が入るまでは『よなぬき』音階であったと理解しています。但し、あまり西洋音階に馴染がなかったので、小学唱歌では日本と同じ、スコットランド民謡の音楽を、多く取り入れたと理解している。今でも、流行歌では『よなぬき』が業界では禁じ手として使用されるケースがあると何処かで聴きました。(笑)

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手打ち蕎麦を極める

 今日は朝から春の嵐、飛行機も欠航するし鉄道も乱れている。猛烈な風と雨が吹きすさぶ横浜です。ほぼ満開の桜はどうなるんでしょうか、心配ですね。

 昨夕、『爺さん達の温泉&山歩き4人組』のメンバーが夫婦同伴で『手打ち蕎麦パーテイ』に招待された。この半年位で手打ち蕎麦に挑戦された古河先輩の自宅での『腕披露』だった。心配なので、保険として近くの蕎麦屋で蕎麦を買って持参した方がいいか、悩んだが、一応食べれる食材を使用して出来たものは『食える』という、信念から、丸腰で参加した。

20103furukawa_001  そば粉は富山産、二八蕎麦を作っていただけるようだ。道具類は全て息子さん二人が親爺の退職祝いにプレゼントされた。何故、手打ち蕎麦セットを贈呈したか、その真意はインタビューしていないので、不明。とにかく、今まで長い間の過酷な仕事生活にピリオドを打ち、心豊かなお母さんとの二人の生活を希望してのプレゼントと理解しています。

しかし、優しい二人の息子さん達だと思います。

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 蕎麦粉をふるいにかけて、粒子を揃えます。ちゃんと、蕎麦屋で修業をされたそうです。理科系の先輩なので、仕事でも技術には昔からうるさかったですね。

つなぎの小麦粉もふるいにかけ、そば粉の二割の割合で鉢に入れます。そして、水を入れますが、絶対に多めの水だけは禁物だそうです。何度かに分けて水を入れますが、両手を使用し力を入れずに撹拌してゆきます。

 徐々に小さな塊が出来始め、そしてその小さな塊が徐々に大きくなり始めます。塊はボロボロした状態ですが、決して加水してはいけないそうだ。

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 ボロボロの塊を木鉢の中でこねて行きます。艶がでるまで我慢強くこねてゆくのですね。非常に力がいる作業なので、やはり男性に向いている作業かもしれない。最後に菊の形に蕎麦玉をしながら、へそだしに移行されたと思います。詳細は、ビデオ映像で収録していますので、何時の日か編集したいと思います。

 円錐の形に出来上がった蕎麦玉を正円に伸ばして行きます。手の腹を使いながらフライパンの中のお好み焼きみたいな円形にします。

この蕎麦玉を作るまでの行程が、実に忍耐が必要だと思いました。腰を使い丁寧に練り上げてゆく面倒くささに打ち勝たねばならない。

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エジプト紀行その10 パピルス

 承前 エジプト紀行その9 カイロ(ナイルの賜物)

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 エジプトというとパピルスが有名ですね。英語のPaperの語源はPapyrusだそうです。ナイル川下流域、所謂、下ナイルの湿地帯にはパピルスという多年草の草が沢山生えています。茎が三角形をしていますが、表皮を剥ぎ、茎を薄く切り水に浸け、木づちで叩き縦横に並べて圧縮したものがパピルス紙です。写真のカイロ大学を出た彼女が実演してくれました。

 ちなみに、エジプトの観光地で売られているパピルス紙と思われる紙に絵が描かれた多くは偽物だそうですよ。彼女がパピルス紙の見分け方を教えてくれました。

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 エジプト考古学博物館ですが、前庭にプールが有りますね、真中に貧弱なパピルスが植えてあります、周りはロータスですね。パピルスは下ナイルを代表するもの、ロータスは上ナイルを代表する植物であり、エジプトはこの両方の地域を統合しなければファラオーとして認められないという深い意味があるそうです。

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