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バンコク紀行その7 アユタヤ日本人町跡

 承前 バンコク紀行その6 ラーマーヤナ物語

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 アユタヤはバンコクからチャオプラヤー川を70キロ程遡上した場所にあります。最初の王朝は13世紀にアンコール王朝から独立したスコータイ王朝ですが、もっと遡上したタイ北部に位置しています。アユタヤは1351年に創設されたスコータイ王朝を継いだ王朝ですが、都はこのアユタヤになりました。川に周囲を囲まれた城塞都市として建設され1767年まで417年間シャム王国の首都として繁栄した。

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 王城の外にはフランス、イギリス、ポルトガル、オランダ等々の西洋の国々、ラーオ、モン、クメール、ベトナム、中国、日本等々の国々が租界地を開いていた。日本人町はチャオプラヤー川東岸で川を挟んでお向かいさんはポルトガル租界地でした。アユタヤ歴史研究センターの現地資料によれば、日本人3千人、現地民や中国人、ベトナム人を加えると8千人の規模が日本人町の規模であったと想定されるそうだ。

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 駿河国駿府馬場町で駕籠かきをしていた山田長政が朱印船で渡来したのは1612年である。関が原の内戦が終わりもはや下剋上が閉ざされ、且つ、キリスト教が禁止され活路を海外に求めた優秀な人材がアユタヤに集まったのかもしれない。現地のガイドの説明でも日本人の多くはキリシタンであったと言う。

 17世紀初頭の頃、関が原終了時点での戦闘能力を考えると、日本の過酷な戦国時代を経験したレベルは世界最高のレベルではなかったでしょうか。武器・戦術・兵士教育、等々を考えると群を抜いたレベルであったと確か司馬さんがおっしゃっていたと思う。山田長政が傭兵頭として頭角を現すのは当たり前の事であったかも知れない。

 マイフォト アユタヤ日本人町跡写真集

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 3千人の日本人と仲間8千のグループは武装していたと思います。多分、鋭利な日本刀を持ち込んで現地でも製造を始めていたでしょう。湿地での戦いは日本と環境が同じであり、欧州や大陸の連中よりは得意であった可能性が高いと思います。

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 やはり、山田長政は遂にシャム王国で傭兵としては最高の地位に登り、且つ、国のナンバー3にまで出世し海運の税の徴収権まで与えられたと言う。王の信頼が篤かった事を窺わせる。しかし、最後に政争に敗れるが見事な坂本竜馬のはしりのような人間ではないですかね。

 彼は最後には何をやりたかったか訊いてみたい気がしました。当時のシャムはほぼインドシナ半島を制覇していましたし、海のシルクロードを抑えていたので膨大な財が彼の懐にも入っていたと思います。当時の栄華はアユタヤの遺跡群を見学すれば判ると思います。

 しかし、アユタヤも長政忙殺のあと、王朝は内部から乱れ隣のビルマの攻撃で壊滅しました。何事も無かったかのように今もゆったりと流れるチャオプラヤー川を観てると『平家物語』を思い出される一時でした。

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