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中国雲南紀行その12 沙林その2(千里香)

 承前 中国雲南紀行その11 沙林その1

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 この木は千里香(チェンリーシャン)と呼ばれ、千里離れても香りがすると言われています。砂の山の上で見つけました。中国人は誇張するのが好きですね、まさか千里離れたら匂わないと思いますがね。

 花と葉っぱを観てると、お茶の花を少しでかくしたような格好で、葉っぱもお茶に似てます。

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 こんなラクダのような格好の砂の峰の近くで、千里香を見つけました。帰国して、調べるとお茶として楽しまれているんですね。高級なお茶として売られているようです。

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中国雲南紀行その11 沙林

 承前 中国雲南紀行その10 料理編

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 雲南省昆明には石林という奇岩峰の名所と砂で出来た沙林という名所が存在します。珍しい色の砂が混じり砂の尖塔のような奇景で有名です。中国では三国志を始め西遊記や歴史物の映画やテレビ番組はこの場所で撮影されたそうです。格好のロケ地なんです。

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 従い、人工的にかなり自然は手を加えられた形跡があります。西南夷の地と呼ばれ、蛮族と中華では呼ばれていた雲南省の地域は紀元前4世紀頃から既に滇王国という国が成立していました。中国とインドを繋ぐ交易路でしたから、古代から栄えたのです。

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 この絵は滇王国の祭りを描いていると思います。真中にある大きな物は銅鼓と呼ばれる楽器です。ベトナム北部のハノイ(紅河流域)でも紀元前4世紀から、銅鼓を中心とするドンソン文化という類似の文化圏が存在しました。画面の上にあるのは編鐘と呼ばれる楽器です。これは、中華の伝統的な楽器です。

 

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エジプト紀行その9 カイロ(ナイルの賜物)

 承前 エジプト紀行その8 カイロ(エジプト考古学博物館)

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 エジプト紀行も終え帰国となりました、カイロ国際空港を飛び立った映像です。カイロの大部分はナイル川の砂州により長い年月の間に堆積したナイルシルトで、増築された『ナイルの賜物』の土地です。人間の文明というものが如何に大河により育くまれて来たかを証明しているようです。

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 砂州で出来たアレキサンドリアや世界の七不思議と呼ばれたファロスの灯台は今は存在しない。地盤が緩いので地震があれば直ぐに又、海の中に消えてゆく。文明というのは自然の前では無力である事を感じます。

 

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エジプト紀行その8 カイロ(エジプト考古学博物館)

 承前 エジプト紀行その7 カイロ(ハーン・ハリーリ市場)

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収蔵20万点を誇るエジプト考古学博物館です。カイロを訪れる人は必ず立ち寄る博物館だそうです。現地の案内人の説明では、現在アル=ギーザの3大ピラミッドのある台地に新しく巨大なエジプト考古学博物館を建造する計画がスタートしたそうだ。予算は数百億円を予定し半分は日本が援助する計画だそうです。

 

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エジプト紀行その7 カイロ(ハーン・ハリーリ市場)

 承前 エジプト紀行その6 ムハンマド(モハメッド)・アリ・モスク

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 オスマントルコの時代の隊商宿(キャラバン サライ)が起源のようですが、迷路のような道に無数のお店が立ち並ぶ異様な光景のバザールです。ハーン・ハリーリ・バザールと呼ばれており、多くの観光客が訪れる場所です。

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 東京の半分以下の狭い地域に東京の人口より多い1500万人が住むカイロ、スシ詰めのような人の群れの中を泳ぐ感覚です。人混みが嫌いで且つ、執拗な勧誘の商売人が苦手な私は眺めているだけでした。凄まじい熱気が渦巻く世界です。

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大倉山の桜模様(2010/3/27) 鶴見川土手

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 大豆戸小学校の桜は満開です。此処の桜が一番先に咲きます。

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 咲き始めがみずみずしく、青い空とよく似あいます。

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中国雲南紀行その10 料理編

 承前 中国雲南紀行その9 田園風景

 昆明、羅平で食べた料理のご紹介です。私の印象はベトナムのハノイで食していたのと大して変わらない印象でした。四川料理のように辛くはなく、日本人には馴染があるのではないかと思います。

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 雲南の料理は日本の料理のルーツとも呼ばれていますが、やはり中華料理の影響を受けていますね。しかし、やわらかな穏やかな味は残っています。日本人には合うと思います。

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中国雲南紀行その9 田園風景

 承前 中国雲南紀行その8 1200年の歴史 圓通寺(昆明)

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 九龍瀑布近くの布依(プイ)族が住む地域の田園風景です。畑にはキャベツや菜の花も咲いているようですね。

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 水牛を使い、鋤で畑を耕しています。子供の頃に育った北河内郡大字招堤村の農村の風景と同じです。水牛ではありませんが、普通の牛が農家の牛小屋におり大事な労働力でした。鋤で田圃や畑を耕す光景は本当に懐かしい思い出です。

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 これが不思議な光景なんですが、竹が纏まって一団となり生えています。注意して竹を見つけると調べたのですが、必ずこのように纏まって集団で存在しています。不思議なので、現地案内人に訊いてみたのですが、理由は不明でした。考えられるのは、シラス台地であり土の層が浅く、集団で根を絡ませないと立つ事が出来ないのかも知れないと思った。

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中国雲南紀行その8 1200年の歴史 圓通寺(昆明)

 承前 中国雲南紀行その7 世界遺産 石林(昆明)

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 1200年の歴史を誇る昆明の『圓通寺』です。唐王朝がアジアで巨大な帝国を築いた頃に周辺諸国は唐王朝に見習い、仏教を国家鎮護の宗教として流行し日本の平城京でも東大寺大仏殿が8世紀中葉に建立され、新羅でも大仏殿が建立された。当時昆明・大理地方ではイ族が打ち立てた南昭国が興り、765年『補陀羅寺』を創建したのが『圓通寺』の前身であるそうです。1318年、蒙古が元王朝を打ち立てた頃には、禅宗の寺として再建された。

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 どうも四天王寺式伽藍かと思いながら見学したが、南大門、中門を過ぎると池の中に夢殿のような八角堂が鎮座していました。千手観音を御祭りする『八角亭』と呼ばれる建物です。

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 『八角亭』裏側(北側)の上部の写真です。荘厳国土と国家鎮護の文字が読み取れますね。

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 周りは池に囲まれています。説明では造園の手法でお寺は建立されたと言います、碧水・彩魚・彩廊に囲まれた極楽浄土の世界を演出しているという。

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 『八角亭』の北には、橋を渡ると、石塔と『圓通宝殿』が鎮座しています。日本や朝鮮半島の当時の塔とは随分と異なりますね、小さい仏舎利塔です。

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大倉山 富士見庵閑話 民宿の親爺状態

 信州は白馬村から自宅に帰還して以来、民宿の親爺をやっている。

 理由は、義理の妹の家族が総出で上京し、今行われている春バレーの応援に来ているからだ。娘さんは東九州龍谷(大分)のバレー部に属し選手ですから我が家には泊らないが、旦那さんも仕事を休み小学生の娘さんも学校を休んで総出で応援なのだ。

 私は高校バレーに詳しくないが、今年も優勝すると三連覇となるそうだ。そういえば、栄養状態がいいのか私より背が高い記憶がある。順当に今日も勝ちベスト4に順調に勝ち進んでいるようです。明日は準決勝ですね、相手は鹿児島女(鹿児島)との戦いです。もうひと組は古川学園(宮城)と共栄学園(東京)の戦いの予定です。

 という訳で、私は皆さんの食事の用意を頑張ってやっています。朝早いので、5時半起きで味噌汁を作り、オムレツを作り、息子の弁当を作りと大忙しで、皆さんが家を出るとブログも書かずに、寝床で睡眠をとる毎日だ。

 しかし、運動神経には縁が無かった我が家ですので、羨ましい限りです。素晴らしいですね。

(追伸)

 ・準決勝にて東九州龍谷(大分)は鹿児島女(鹿児島)を3-1で破り、決勝に進出しました。相手は、強敵の古川学園(宮城)です。180メータを超える双子の姉妹と主将の三人のスーパースターを擁し、今日の準決勝でもストレートで勝ち進んだ強豪です。明日はどうなるか、見応えがありそうです。

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中国雲南紀行その7 世界遺産 石林(昆明)

 承前 中国雲南紀行その6 羅平 牛街からの菜の花畑展望

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 世界遺産に登録された石林です。2億数千万年前は海の底、石灰岩の台地が隆起し広大なカルスト地形が形成されました。奇岩が多く、人気の場所です。

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 剣のように鋭く尖った岩や、石柱のように立つ岩や幾重にも塔が重なるように聳える姿や、面白い形状をした岩峰を楽しむ事ができます。

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 サニ族に伝わる悲しい娘の叙事詩『阿詩瑪(アシマ)』の像です。花籠を背負い左向きに立っている娘の姿です。四角い帽子を被っています。顔は空を見上げていますね。

 奴隷の身分であったアシマは強制的に婚姻を迫られます、彼女は苦難を強いられ抵抗し最後にこの石林の場所で岩になったと語り継がれているそうです。それが、サニ族に伝わる長編叙事詩の『阿詩瑪(アシマ)』です。少数民族悲運の歴史を語っています。

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2010年度 赤とんぼ春合宿 報告

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 赤とんぼ春合宿は、3月20日~22日の期間、恒例白馬村、岩岳スキー場の山小屋『ちんぐるま』にて開催されました。

 連休と重なり、初日の白馬行き道路も調布から相模湖までは25キロ渋滞という按配でした。初日は時折強風が吹きすさぶ厳しい状況であり、電動機は強風に弱いので、幾つかの墜落事故が発生した。

 花粉症のカッチンも調子が最初は出ない状況でしたが、二回目以降は快調でした。何時もは墜落事故はゼロのベテランYsさんは不幸にも突風に見舞われ、電動機を吹き飛ばされる事故に遭遇した。しかも、飛行機の救出時に車も雪田の道路の雪に埋もれ、たまたま通りがかりの現地のおじさんの車で牽引して貰い、救出されました。

 私の『サーカス機』はエンジンが好調でアクロバテックな離陸(要は下手くそな離陸で偶然にスレスレで離陸に成功したという意味)で観衆を大いに湧かせた。

 二日目は朝から強風と吹雪によりスキーも出来ず、フライトも出来ない山用語で言う、『沈(チン)』の一日となった。温泉と酒と肴と昼寝の一日となりました。

 マイフォト 2010年度 赤とんぼ春合宿写真集 三日間の記録写真です

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中国雲南紀行その6 羅平 牛街からの菜の花畑展望

 承前 中国雲南紀行その5 多依河 九龍瀑布

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 羅平の段々畑の菜の花を観るには、牛街という山の上の小さな村に登ると素晴らしい眺めに出合えます。写真のような不思議な地形は自然に出来たそうです。海底が隆起し石灰岩質の岩が浸食されて窪みが出来たりしたのです。

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 菜の花の最盛期は既に過ぎ去り、青い部分が目立ちますがそれでも満喫できる眺めでした。

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 この場所には菜の花を撮影する人々が集まり、望遠レンズを三脚に設置し、カメラの放列が並んでいました。太陽の光の加減を考えてシャッターチャンスを狙っているんでしょうね。私も300ミリの望遠レンズを持参しましたが、面倒なので使用しませんでした。

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中国雲南紀行その5 多依河、九龍瀑布

 承前 中国雲南紀行その4 夕日の羅平 菜の花畑

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 布依族が多く住むという意味でしょうか、多依河という川の上流に九龍瀑布が山の中にあります。半日程度のハイキングを楽しみました。何故か孔雀さんがいました。

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 多依河の上流になります、川面には美しい水墨画のような神仙の姿が映りだされていました。

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 何段にも滝が連なっています。素晴らしい眺めです、息切れがしましたね。

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 九龍瀑布の滝です。

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中国雲南紀行その4 夕日の羅平 菜の花畑

 承前 中国雲南紀行その3 布依族

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 羅平の菜の花畑で夕日を見ました。周りは菜の花畑、あるのは蜜蜂で生計を立てている人々だけです。未だ明るいうちは蜜蜂が飛び交うので、危険です。黒い衣服は危険です、なるだけ白い衣服で菜の花畑に行き、頭と顔は手ぬぐいで防備です。

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 観光客目当ての牛車で菜の花畑を回遊してくれる現地の人がおられます。

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 夕日が沈み始めました。眼下には蜜蜂農家の拠点があります、もう蜜蜂が襲う危険は去りました。

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 夕日を眺めていると、何処かこの世の終わりのような気がするし、冷静に静かな安らぎを感じる気持ちになりませんか。

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中国雲南紀行その3 布依(プイ)族

 承前 中国雲南紀行その2 羅平 朝日が輝く菜の花畑

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 雲南省には少数民族が多く存在しています、その中で羅平のガイドをして頂いた女性が布依族の人であり、羅平の九龍瀑布の近くの村落の家庭を訪問出来ました。少し、布依族について触れますと、172万人中国には存在し、雲南省と北部の貴州省南部、西南部に居住しているそうだ。

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 布依族とチワン族は同祖と考えられ、昔は長江下流域に住み稲作を行っていた越人であるという。中国では古来、西南夷と呼ばれる雲南地方に戦国時代の楚や、秦、漢の武帝等々が攻め込んでいます。漢の武帝の遠征の時は司馬遷も従軍しておりました。従い、『史記』でもこの地方の事については詳しく書かれている。

雲南省にはメコン河やベトナムハノイに注ぐ大河である紅河、そして文明のゆりかごである長江の源流が流れています。即ち、川というハイウエイでシャム国、ベトナム、中国江南の地と密接なつながりがあったのです。

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 鶴間和幸氏の『中国の歴史 ファーストエンペラーの遺産』を読んでいると、武帝が滅ぼした野郎国と布依族の深い関係を指摘されていました。古代日本と越との深い関係については何度も記事を書きて来ました、今回の家庭訪問で判った事を述べます。

 歌垣の風習と通い婚の風習です。旧正月の期間でしたが訪問した家庭の結婚した娘さんが旧正月で夫の実家が忙しいので手伝いに出かけているという言葉でした。結婚しても実家で生活しているのですね。色々とその後調べてみると、娘が結婚して何年か経過すると娘は夫の実家で暮らすようになるそうです。母系社会の伝統が綿々と残っているのですね。

 布依族の娘さんは刺繍と、ろうけつ染が得意だそうです。美しい、衣装です。

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中国雲南紀行その2 羅平 朝日が輝く菜の花畑

 承前 中国雲南紀行その1 羅平のホテルでみた不思議な日本地図

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 羅平の九龍瀑布から流れる悠久たる流れ、そして水墨画の風景が拡がる。

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 水牛と農夫が歩く道、何千年も変わらない雲南の風景だろう。

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 日の出前の羅平の菜の花畑の風景だ。

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 霧が立ち込める山山に囲まれた菜の花畑だ。日の出を待っている。

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 こんな清々しい世界がこの世に存在するのだ。

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中国雲南紀行その1 羅平のホテルで見た不思議な日本地図

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 雲南紀行文を書くにあたり象徴的な日本地図を羅平のホテルのフロントで見かけた。皆さんこんな地図を見られたのは初めての方が多いのではないですか。日本列島は九州を一番北にして列島は南に連なり、関東あたりが一番南に位置しています。

 この地図に出合ったのは三輪山セミナーで千田稔氏の講演の時でした。その時の感動的な記事をJoBlogで書きました。

 三輪山セミナー講演録 千田稔氏講演録

 中国人は宋の時代でも明の時代でも日本列島は朝鮮半島の南の海洋にあり、九州島を最北端として南に長く連なる列島であったと認識していたのです。従い、魏志倭人伝に於いても伊都国から邪馬台国に向かう道筋は南、南へと路程を記録したと考えられると千田稔氏は説明されていたのを思い出した。

 魏志倭人伝で記録された倭人の風俗はまさに、長江下流域の越の海人の風俗であり、あたかも雲南に住む人々、昔の滇王国の人々の風俗を記録したと考えられるというのです。その傍証として、前漢の武帝が滇王国の王に与えた金印の鈕と、後漢の時代に九州島の奴国王が貰った金印の鈕は同じ、南国の蛮夷の国の印である蛇の紋様なんですね。

 参考Web記事 西南シルクロード紀行

 何故、羅平のホテルがこんな世界地図を掲げているのか不明ですが、多くの日本人観光客が雲南を訪れるので、親しみを込めて掲載していると考えました。日本と雲南は2千年前から繋がりがあると言いたいと受け止めました。(本当の理由は不明です)

 雲南紀行を終え、飛行機で北京に向かいましたが、飛び立つと幾重にも連なる山岳地帯を越えて華中の平原に出ます、まさに、雲南地方は黄河流域の世界とは隔絶された世界だと感じました。

 

 

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エジプト紀行その6 ムハンマド(モハメッド)・アリ・モスク

 承前 エジプト紀行その5 アル=ギーザの3大ピラミッドの謎

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 カイロ市内を見下ろす小高い丘(モカッタムの丘)の上に12世紀に十字軍と戦い勝利を収めた山城(要塞)=サラディン城塞が存在します。その中に19世紀に建造されたムハンマド・アリー モスクが聳えている。

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 詳細は、Indie Historyで記事を書きましたのでそちらを参照下さい。

 Indie History ムハンマド(モハメッド)・アリ モスク

 マイフォト カイロ市内 ムハンマド・アリー モスク写真集

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エジプト紀行その5 アル=ギーザの3大ピラミッドの謎

 承前 エジプト紀行その4 メンフィスの『ラムセス2世巨像(ブタハ神殿跡)』

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 さて、最大の山場である3大ピラミッドになります。アル=ギーザの台地上に聳える巨大なクフ王、息子のカフラー王、孫のメンカウラー王のピラミッド群です。4500年前の時代である古王国第4王朝の繁栄した時代の遺跡です。多くの謎が未だに残るピラミッド群ですね。

  Indie Historyにて5回に渡り3大ピラミッドに関する記事を書きましたので、是非、ご覧下さい。

  Indie History  アル=ギーザの3大ピラミッド 何故クフ王は此処を選んだか

  Indie History アル=ギーザの3大ピラミッド 大スフィンクスと直角三角形

  Indie History アル=ギーザの3大ピラミッド クフ王のピラミッド

  Indie History アル=ギーザの3大ピラミッド カフラー王のピラミッド

  Indie History アル=ギーザの3大ピラミッド メンカウラー王のピラミッド

 以上が3大ピラミッドに関連する記事です。私が昨年考古調査士の資格取得で学んだ、早稲田のエジプト考古学の近藤二郎教授が使用されたテキストや今はサイバー大学の吉村作治氏の『エジプト 博物館』の書籍から引用させて頂いています。

 マイフォト アル=ギーザの3大ピラミッド 写真集(約100枚)

 なんせ4500年も前の歴史ですから、謎だらけというのがエジプト考古学の現状ではないでしょうか。しかし、行って見なければ判りませんが下エジプトの『メンフィスとその墓地遺跡』として指定されている世界遺産群だけで、南北100キロ、東西10キロのナイル川西岸地帯の沙漠を発掘対象とするのですから、スケールが違いますね。

 今回は訪問していない、上エジプトの遺跡群を考えると気が遠くなる遺跡の宝庫です。砂嵐の中で何十年も発掘作業をされている専門家の人は本当に大変だな~という印象です。年寄りには絶対に出来ないだろうというのが今回の印象です。若い研究者に期待しています。

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エジプト紀行その4 メンフィスの『ラムセス2世巨像』(ブタハ神殿跡)

 承前 エジプト紀行その3 ダハシュールの『屈折ピラミッド』、『赤ピラミッド』

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 サッカーラの東にメンフィスという古都があります。3千年近く栄えた場所で、初期王朝時代から古王国時代は5~600年間都として栄えた。その地にはブタハ神殿跡があり畑の中から写真の見事なラムセス2世の巨像が掘りだされた。詳細は、Indie Historyを参照して下さい。

 Indie History メンフィスの『ラムセス2世巨像』(ブタハ神殿跡)

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 ラムセス2世は第19王朝のファラオーですから、新王国時代(BC13世紀)です。彼のミイラをエジプト考古学博物館で見ましたが、背の高さが183センチ近くあり90歳近くまで生きた壮健な王であったようです。エジプトの領土を拡げ、鉄の王国であるトルコのヒッタイトの南下侵攻と果敢に戦った事でも有名です。

 マイフォト メンフィスの『ラムセス巨像』

 マイフォトに写真を収蔵していますので、興味のある人は参照して下さい。

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エジプト紀行その3 ダハシュールの『屈折ピラミッド』、『赤ピラミッド』

 承前 エジプト紀行その2 サッカーラの『階段ピラミッド』

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 サッカーラの『階段ピラミッド』の次に登場したのが、少し南に位置するダハシュールの『屈折ピラミッド』です。第3王朝最後の王であるフ二王の息子で第4王朝を築いたスネフェル王が父親の後を継いで建造したと考えられています。

 何故、下部の傾斜角度と上部の傾斜角度が異なるのか不思議ですね。詳細はIndie Historyを参照して下さい。

 Indie History ダハシュール 『屈折ピラミッド』 謎その1

 Indie History ダハシュール 『屈折ピラミッド』 謎その2

Photo  位置関係はグーグルアースの写真から概略把握されたと思います。

エジプトの初期の王朝は北から移動してきた民族が建設し、北極星を信仰する『星辰信仰』だった訳ですが、地元のエジプトの人々はナイル川で農耕をする『太陽信仰』の人々だった。スネフェル王が妃にしたヘテプルスが『太陽信仰』の大神官の娘だった時に遂に地元の勢力が表舞台に登場出来たのでしょうね。

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エジプト紀行その2 サッカーラの『階段ピラミッド』最古のピラミッド

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 承前 エジプト紀行その1 序章

 最古のピラミッドがサッカーラにある『階段ピラミッド』です。写真は南東の方角から撮影しています、手前の建物はセド祭用の神殿です。このピラミッド及び複合施設の建設はエジプト第3王朝のネチェリケト(一般的にはジェセルの名前で知られている)王が建設した。(BC2686年頃)

 この『階段ピラミッド』が誕生するまでの墳墓の形態は日干しレンガを使用し、直方体の建造物を構築し内部に玄室を設ける『マスタバ墓』という形態でした。それが、この『階段ピラミッド』から初めて石材(切石)を使用したピラミッドの形態が誕生したのです。その謎は意外なものでした、詳細は Indie History ピラミッド誕生秘話 を参照して下さい。

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 『階段ピラミッド』だけが単独で存在するのではなく、ピラミッド北側に葬祭殿、南側に近接してセド祭用神殿、王宮、南側に墳墓群、柱廊、等々の施設を含む複合施設として築かれた。これをピラミッド・コンプレックスの始まりでした。これ等の施設の周囲には周壁が張り廻らせられていました。南北545メータ、東西277メータの大周壁であります。写真はその一部であり施設に入る門が開いています。

  参考 Indie History 『階段ピラミッド』大周壁

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 写真は周壁を入ると、天井のある柱廊を進んで行きます。巨大な石の柱が立ち並び狭い通路であり上部の狭い隙間から太陽の光が差し込みます。敬虔な気持ちにさせる効果があるようです。

 参考 Indie History 『階段ピラミッド』 大列柱廊

 

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エジプト紀行その1 序章

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 イスタンブールからカイロに飛びました。今回はナイル川下流域の世界遺産『メンフィスとその墓地遺跡』とカイロ市内の遺跡だけの訪問です。ナイル川上流域については次回の旅に譲りたいと思います。

 今回の訪問する主な遺跡は、世界最古のピラミッドである『階段ピラミッド』、謎の『屈折ピラミッド』、『赤のピラミッド』、メンフィスの『ラムセス2世像』、そして、アル=ギーザの3大ピラミッド、そしてカイロの『モハメッド・アリ モスク』とエジプト考古学博物館となります。

Photo

 主な場所関係をグーグルアースで眺めてみました。概略の位置関係がお判りになると思います。

 エジプト紀行については、昨年、考古調査士の資格を得る為に早稲田の考古学教室のお世話になりましたが、エジプト考古学の近藤二郎教授の講義テキストをベースに各遺跡をご紹介出来ると思います。

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トルコ大紀行その24 旅を終えて

 承前 トルコ大紀行その23 アンカラエキスプレス(アンカラ→イスタンブール)

 トルコ3000キロの旅が終わりました。殆ど知識の無い国への初めての訪問、どんな国なのか興味がありました。一応、イスラムの国ですから日本からは缶ビール1ダース以上、ウイスキー一瓶、湯沸かしポット(お茶、味噌汁、即席めん等々を調理する為に持参)、等々を持参し私の荷物は食料品で満載で出かけた。

 しかし、トルコという国はイスラム圏ではあるが北大西洋条約機構の一員であり、ユーロ圏への加盟を努力している国であり、中東諸国の厳しいイスラム世界とは一線を画す国でした。心配した喫煙も大丈夫でしたね、大衆は水タバコを吸う光景もあり私にとり住み易そうな国でした。

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 (シルクロードの一部を体感した)

 エーゲ海(地中海の一部)の海岸から一路、東を向い一直線で伸びるシルクロード、ラクダの隊商が休息し商売が出来る砦の数々、遥か長安を目指した人々の足跡を感慨を持って知ることが出来た。文明というのは異なる文化が衝突しなければ生まれないという考えが正しければ、その役割を担った人々は陸では遊牧民であり隊商を組んだ中東の人々でした。海路でもイスラムの人々は古代から交易で活躍したと考えられます。

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 (イスラム教徒の生きる道)

 トルコ大紀行その17 メヴラーナ博物館で記事を書きましたが、実はコンヤという古都ではセルジューク朝時代からイスラム神秘主義の教団が存在していた。しかし、共和国成立と同時に教団は解体させ、施設は博物館としたトルコ政府、ここにトルコが世界で生きる道を見つけたと思う。同じく、イスタンブールの聖ソフィアの扱いも博物館として扱い、ビザンチン帝国時代からのキリスト教施設と、改造されたオスマントルコ時代のイスラム施設を併存して保存した。

 何故このような道を選んだのかは私には判りませんが、過去のアナトリア半島の長い歴史がそれを可能にしたのではないかと旅をして感じた。アナトリア半島の西側はエーゲ海、地中海に接し古くギリシャ・ローマ文明の影響を受けた。セルジュークトルコがアナトリア半島を制圧しても、ど真ん中のカッパドキアの山岳地帯のキリスト教徒の地域は制圧出来なかった歴史がある。

 現在はバルカン半島でブルガリア、ギリシャと国境を接し、東はグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアという国々と国境を接している。政治の舵取りが難しい位置にある。しかし、石油も出ない国が近代国家として繁栄を築く道を間違いなく正しく選んだと感じた。

 

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トルコ大紀行その23 アンカラエクスプレス(アンカラ→イスタンブール)

 承前 トルコ大紀行その22 カッパドキア(ギョレメ屋外博物館)

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 さて、トルコの旅も最終章になりました。今日までイスタンブールからアンカラまでバスの旅2500キロを走破、最後は540キロをトルコの首都であるアンカラからイスタンブール(ハイダルパシャ駅)まで夜行寝台列車で行きます。

20101turky_1228  電車は夜22時30分発、イスタンブール到着は朝の8時30分と聴いていましたが、時刻表はあって無いのが海外の列車ですさて、どうなるのでしょうか。以前、カナダに紅葉を見に出かけた時に、美人のJTBの添乗員さんがトルコに行くなら是非とも寝台列車をお勧めするとアドバイスを頂いていました。

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 どうやら無事に定刻に列車は出発しそうです、良かったですね。

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20101turky_1246  列車の通路は人とすれ違うのに苦労するほど狭いです。出発してしばらくすると係の人がベッドを作りに来てくれます。1ドルのチップを渡すのが礼儀だそうです。私はドルの細かい金は沢山持参していましたので、便利でした。勿論、トルコリラでも構いません。部屋は狭くベッドを作ると寝るしか無いです。

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トルコ大紀行その22 カッパドキア(ギョレメ屋外博物館)

 承前 トルコ大紀行その21 カッパドキア(洞窟ホテルと奇岩峰)

20101turky_1130  ギョレメ谷には30カ所を超える岩窟教会と沢山の人々が暮らしていた洞窟住居が存在します。今屋外博物館として保存されており世界遺産に登録されています。

20101turky_1157  元々がローマのキリスト教弾圧から逃れてきたキリスト教徒達が移り住んだと思われますが、その後イスラムの攻撃を受け11世紀から12世紀にかけてこのギョレメ谷に多くの岩窟教会と人々の洞窟住居が掘られました。写真はリンゴの教会、聖バルバラ教会ですが、見事なフレスコ画が残されています。

 マイフォト カッパドキア(ギョレメ屋外博物館)

 詳しくはマイフォト カッパドキア(ギョレメ屋外博物館)を参照して下さい。

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