笠縫邑を歩く(多神社、秦庄、笠縫神社、秦楽寺) その1(多神社)
写真は多神社であります。以前から気になっている神社でして、奈良盆地の真ん中に位置し春分・秋分の日にこの神社から三輪山から昇る太陽を眺め、夕方は二上山に沈む太陽を眺める事が出来るという。
場所関係はグーグルアースの写真を参考にして下さい。
近鉄線の笠縫駅で下車し南西1キロ程度のところに多神社はあります。
多神社は正式には多坐弥志理都比古神社(おほにます みしりつひこ じんじゃ)と呼ばれています。この『みしりつひこ』さんは神武天皇の長男ですが、天皇にならず二男に皇位を譲った神八井耳命を祭神としています。多氏の祖と仰いでいる。
神社の傍は飛鳥川が流れ大和川水系の水運が開けている。そして、ここには大きな環濠集落が存在していました。
写真は飛鳥川で、左の杜が多神社です、真正面の山は神武天皇の畝傍山ですね。
飛鳥川の水運は大和川水系と繋がりますから古代は海運の面でも重要な場所であったと想像されます。
多神社の杜は多遺跡が存在し沢山の遺物・遺構が発掘されています。
多神社から東の方角を眺めた風景です、右に三輪山左に龍王山が鎮座しています。この集落が環濠集落でした。
たまたま地元の人と30分程度お話を聞く事が出来たのは幸いでした。
お会いした翁の話では最近まで環濠集落には濠が張り巡らされており弥生時代の頃からの伝統は守られていたそうです。
この写真は多神社の濠ですが、当時の残存風景かもしれないと思いました。
この神社の社格は高く名神大社(みょうじん)と延喜式では定められ、正一位の位を持つ、鳥居に書かれていますね。
さて、多遺跡では弥生時代からの遺物が出るそうですが、祭祀跡と古墳が神社の杜にあるそうです。出土品は神社に保管されています。
さて、笠縫邑と言えば崇神天皇時代に疫病が流行し、天照大神を宮から放逐し、笠縫邑に豊鍬入姫命に祭らせたとあります。その場所が今だ判っていません。候補は色々とあるようですが、この多神社もそして次に紹介する秦庄の笠縫神社が候補地に挙げられています。
この豊鍬入姫命は邪馬台国のトヨ考える人もあります。兄弟の垂仁さんが崇神天皇のあと天皇になりますが、豊の国に秦王国が存在したと聖徳太子の時代に隋から来た裴世清が記録していますが、その秦庄に笠縫神社が存在する事も興味が湧きますね。この時代は崇神さんの時代はヤマトトトビモモソヒメが女王(巫女)として統治し男王が政治を支える国のかたちであったとすれば、次の垂仁天皇の時も女王として豊鍬入姫命が存在していた可能性があります。
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