« 何処でもつかまり立ち出来るようになる | Main | トルコ大紀行 計画 »

土佐人の反骨精神と一言主神社

Photo 土佐一の宮は御存知、雄略天皇の時代にヤマト王権に対峙した葛城の一言主神社が流刑となり土佐に流された場所を起源とする。雄略帝が葛城を訪問した時に大王と同じ装束をして対等に立ち向かい、怒りに触れ、土佐に流されました。その後、この土佐一の宮は土佐で一番格式が高い神社として続いています。

 グーグル 土佐一の宮

「tosaichinomiya.kmz」をダウンロード

200911kyoto_041  神さんが流されるという事は、葛城の多くの人々が同時に流刑になったと考えます。葛城は応神天皇、仁徳天皇等々の河内王朝を実質支えた豪族でした。それは、河内王朝の皇后が殆ど葛城氏出身であることから判ります。しかし、雄略帝の時に葛城円は攻め滅ぼされ滅亡します。

 司馬遼太郎さんの話では配流後、300年経過し天平宝字八(764)年に葛城の鴨族の巫女の一人である高加茂田守(たかがもの たもり)が奈良の朝廷に奏して一言主命を呼び戻したという。勿論、土佐にも和魂はお残りになっている。(写真は葛城の一言主神社)

 一言主神社がある場所は『高丘』と呼ばれ、神武天皇の二代目天皇である綏靖天皇(すいぜい)が皇居を定めた場所であります。綏靖さんのお母さんは事代主神の娘さんでヒメ タタラ イスズヒメさんですね。皇后はイスズ ヨリヒメさんで、お母さんの妹です。要は神武さんの後継者は葛城が握ったという事ですね。

 その後、三輪王朝が断絶したと考えられる神功皇后、応神天皇の時代(所謂、河内王朝への交代)から葛城襲津彦が朝鮮半島で活躍し娘を仁徳天皇の皇后につけ、その後河内王朝の皇后は葛城氏が握る事になる。葛城の全盛時代が始まりました、しかし、上記の如く雄略天皇の時代に滅ぼされる運命を辿る。

200911kyoto_059  葛城が神武さんから欠史8代と呼ばれる時代に活躍し、そして崇神さんの時代に三輪に王権は移行ししばらく潜伏するが4世紀末から5世紀にかけて三輪王権から河内王権に移行する時代から又、勢力を盛り返した。葛城氏はカモ氏、秦氏、平群氏、蘇我氏、巨勢氏、等々が同じグループと想定されている。(写真は葛城の高丘です)

 さて、本題の土佐人の反骨精神ですが、雄略さんの時代(5世紀)に土佐に配流された葛城の人々は王権に対して決してへりくだらない対等の立場をとり続けた人々であります。この精神が土佐に刷り込まれたのではないだろうか。勿論、江戸時代に山内家と長宗我部家の軋轢は大河ドラマで描かれているが、もっと古代から存在したと思います。

 大河ドラマの『竜馬伝』で竜馬が江戸に旅立つ時に神社に参拝する場面がありました、あの神社は5世紀にヤマト王権に反抗し流罪となった一言主神社(土佐一の宮)ではないでしょうか。既に、竜馬には一言主さんの精神が宿っていたと考えながらテレビを観ていました。

 蛇足になりますが、最新の歴博の放射性炭素14法により弥生時代の開始時期に関する論文で、面白いと感じたのは北九州に稲作が伝播しその次に伝播したのが土佐である事が以外な結果でした。吉備の国よりも早く土佐に稲作が伝播していた事実が存在したのです。

|

« 何処でもつかまり立ち出来るようになる | Main | トルコ大紀行 計画 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 何処でもつかまり立ち出来るようになる | Main | トルコ大紀行 計画 »