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家内も還暦迎えました

20101ookurayamaume_036  家内も遂に還暦を迎えた。子供たちから時計を貰い、とても喜んでいます。大事だから、明日からの旅行には持って行かないと言うてます。

 昨夜、息子が代表して買ってきたようです、ケーキもぶら下げて帰還でした。何時もは深夜の帰宅なのに、昨夜は早く帰ってきました。

 CITIZENのEXCEEDの女性に人気の腕時計ですね、こんな高価なものを買える身分になった事が嬉しいです。

 姉二人と相談して購入したんでしょうね。メキシコからはAmazon経由で『百恵ちゃん記念DVD』が贈られて来ましたが、高価なものなので家内はどうするか心配していました。それに、家内が好きなマロングラッセもそろそろ届くそうです。

 関西からは妹が赤いパジャマを贈ってきてくれました。明日からの旅に持って行くと言ってます。仲の良い姉妹ですね。

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エジプト紀行 計画

Photo  トルコ大紀行のあと、イスタンブールから空路、カイロ国際空港に入ります。約2時間半程度でしょうか。

 今回はナイル河を遡上せずに中流部と下流部の遺跡を廻ります。

 ギザの三大ピラミッドとスフインクスを見学し、メンフィスでラムセス2世の巨像を眺め、サッカラの階段ピラミッドを訪問する。

 そして、ダハシュールの屈折ピラミッドを見学しカイロに戻るコースとなります。

 グーグルアース ギザの三大ピラミッド

「Khufu.kmz」をダウンロード

200910london2_712  衛星写真を観ると、ピラミッド群は緑の大地に接する場所に存在する事が一目瞭然ですね。アスワン・ハイダムが建設されるまではナイル河はピラミッドの近くまで河床を拡げていたのが判ります。ナイル河の西の大地にピラミッドは建設された。太陽が沈む方向ですね。

 今回は残念ながら時間が無く、ナイル河の上流まで行くことが出来ません。ナイル河のクルージングも出来ません。

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孫とトラの追いかけっこ

Photo_3  孫が猫の『トラ』が気になり追いかけるようです。

 けど、孫は階段を登れないので、呆然としています。

 『トラ』は気になるらしく、階段の上から眺めています。

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トルコ大紀行 計画

Photo_2  明後日からトルコ大紀行が始まります。

成田から直行便でイスタンブールに13時間。トルコ航空なので、機内で酒は出ません、従い、チェックイン後に成田で酒を持ち込む予定です。(笑)

 ビザンチン帝国の都、コンスタンチノープルが最初の訪問場所です。オスマントルコに制圧された後は、♪飛んでイスタンブールとなりましたね。

 大紀行は、ダーダネルス海峡をフェリーで航行しチャナッカレに6時間程度かけて向かいます。そして、シュリーマンのトロイ遺跡を見学し、200キロ移動してベルガマ遺跡を見学し、又200キロ移動してクシャダンに向かう。

 エフェソス遺跡を見学し190キロ移動し世界遺産パムッカレに向かう。ヒエラポリスの遺跡や石灰棚を見学し410キロ離れたコンヤのメヴラーナ博物館を目指す。

 コンヤから230キロ離れたキリスト教徒の隠れ里、カッパドキアを目指す。

 カッパドキアから310キロ離れたアンカラを目指す。アンカラからは夜行列車に乗り460キロ離れたイスタンブールに帰還する計画である。

 参考 イスタンブール天気

 参考 グーグルアース

「kapadokya.kmz」をダウンロード

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土佐人の反骨精神と一言主神社

Photo 土佐一の宮は御存知、雄略天皇の時代にヤマト王権に対峙した葛城の一言主神社が流刑となり土佐に流された場所を起源とする。雄略帝が葛城を訪問した時に大王と同じ装束をして対等に立ち向かい、怒りに触れ、土佐に流されました。その後、この土佐一の宮は土佐で一番格式が高い神社として続いています。

 グーグル 土佐一の宮

「tosaichinomiya.kmz」をダウンロード

200911kyoto_041  神さんが流されるという事は、葛城の多くの人々が同時に流刑になったと考えます。葛城は応神天皇、仁徳天皇等々の河内王朝を実質支えた豪族でした。それは、河内王朝の皇后が殆ど葛城氏出身であることから判ります。しかし、雄略帝の時に葛城円は攻め滅ぼされ滅亡します。

 司馬遼太郎さんの話では配流後、300年経過し天平宝字八(764)年に葛城の鴨族の巫女の一人である高加茂田守(たかがもの たもり)が奈良の朝廷に奏して一言主命を呼び戻したという。勿論、土佐にも和魂はお残りになっている。(写真は葛城の一言主神社)

 一言主神社がある場所は『高丘』と呼ばれ、神武天皇の二代目天皇である綏靖天皇(すいぜい)が皇居を定めた場所であります。綏靖さんのお母さんは事代主神の娘さんでヒメ タタラ イスズヒメさんですね。皇后はイスズ ヨリヒメさんで、お母さんの妹です。要は神武さんの後継者は葛城が握ったという事ですね。

 その後、三輪王朝が断絶したと考えられる神功皇后、応神天皇の時代(所謂、河内王朝への交代)から葛城襲津彦が朝鮮半島で活躍し娘を仁徳天皇の皇后につけ、その後河内王朝の皇后は葛城氏が握る事になる。葛城の全盛時代が始まりました、しかし、上記の如く雄略天皇の時代に滅ぼされる運命を辿る。

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何処でもつかまり立ち出来るようになる

Photo_2  北海道に帰還した7カ月の孫は何処でもつかまり立ち出来るようになったそうです。

 意外と、男の子は成長が早いのですね、驚いています。

 椅子の上に猫がいると、興味があるのでしょうね、椅子につかまり立って猫を追いかけるようです。

 猫は二匹もいるので、これから楽しいでしょうね。

写真は椅子の上に『トラ』がいて観察してる情景だそうです。

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ミワ、カモ、クズ 古代のヤマトの風景

Photo  承前 司馬遼太郎『竹内街道』シルクロードの終点より

 司馬さんの『街道をゆく』では奈良盆地では出雲系のミワ族とカモ族が農耕を営んでいたと記述されていました。そこに、外来の崇神さんが侵入してきたと述べています。同時に、吉野の山には国栖(クズ)と呼ばれる土着の漁労・狩猟民族が存在していた事を述べています。

 記紀によれば、神武さんが熊野からヤマトを目指した時に、吉野川上流で出会った不思議な風体・習俗をした土着の民族について触れています。彼らは、神武軍を受け入れ従ったと言われている。国栖と呼ばれる人々ですね。彼らには尻尾があり、穴の中で暮らしていたとあります。誰が書いた書物か忘れたが、彼らが神武軍の味方をしたのは、彼らのルーツは元々が薩摩半島・大隅半島に住んでいた人々が大昔に吉野川を遡上し住みついていたと仮説を述べる人も居られました。

 彼ら国栖の人々は明治の時代に至るまで、皇室と関係が深い人々として歴史を残しています。神武さんの時代は、時折ヤマトの盆地に下り宮門を警護し山の幸やウグイなど献上し歌と笛を吹き歌舞をした。そして大嘗祭に於いて、隼人とともに歌笛を献納する行事を行った。天武さんが吉野に逃げると彼を助け東国に逃げる手助けをしたという。

 南北朝の頃は後醍醐天皇を吉野で支えたのも国栖の人々であり皇室を守る守護神だったのですね。

 司馬さんの話では、明治維新の時にも十津川郷士として新撰組と戦ったそうだ。十津川郷士の中井某が新撰組の斎藤一と花屋町の料亭で戦い山で習得した居合抜きで攻撃したが、初太刀をかわされ斬られたという。その後も、明治になり皇宮警察が諸門を警備したが薩摩、長州、土佐以外では十津川出身者のみに許されたといいます。なんと、歴史というのは面白いですね、古代の国栖の伝統が明治初年まで綿々と続いていたのです。

 国栖の研究についてはネットでも検索可能な論文が存在しました、参考にして下さい。

  参考 国栖の歌笛奏上とこれに関わる官司について

 隼人とともに如何に国栖の人々が王権の儀礼に関わったのか興味ある研究です。

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ワンゲル時代の思い出

Mettschenn  大学1年生の頃の写真です。実は大学のクラブ創部50周年記念でアルバムを作るという事で同期の本岡氏から送付して貰いました。

 女性が4名も部員だったんですね。何処で撮影したのか不明ですが、ブレザー姿の古波蔵さんとか、学生服の田中さんも居られるので、大学の近くの青谷の河原だと思います。

何故か僕と箕輪さんが山登りの格好なのか不明です。要は授業に出てなかったという事でしょうね。もう44年も昔の写真です。

 残念ながら、3回生に進む頃は女性の姿は有りませんでした。けど、写真の二人の女性はワンゲル同士で結婚となり幸せな人生を送られたと聞いています。

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朱色5千基鳥居 伏見稲荷大社 その2(石清水八幡宮)

Photo  秦氏関連でもう一つ重要な場所が有ります、石清水八幡宮です。桂川、宇治川、木津川が合流し淀川になる場所です。そして、天王山と男山に挟まれたクビレの場所であり京都盆地はこの狭い場所を通過しなければ難波や摂津には出れません。平安京を守る軍事的に大事な場所です。

 この場所を制圧するには男山に陣を張るのが最高です。ここに宇佐神宮から勧進された石清水八幡宮があります。建立は9世紀ですが由緒ある神社ですね。子供の頃、牧野の豪族で同級生の笠井一族の正義君がこの神社で笛を吹いていましたので、馴染の神社でした。『やわたの はちまんさん』と呼んでいました。 参考 石清水八幡宮公式ホームページ

 ともあれ、この神社の麓に聖水が存在したのではないかと森浩一氏は考えておられるようです。現在の高良社の場所です。

 参考 聖水信仰

 宇佐神宮と言えば豊前の国、秦王国が存在した秦氏の故郷です。偶然かも知れないが、石清水八幡宮から真北に線を延ばせば木嶋坐天照御魂神社に至りますね。聖なる南北ラインで結ばれています。グーグルの地図で見ていただければ判ると思います。

 このように秦氏の関連する場所をプロットすると、平安京は元糺の杜を中心に太陽信仰と聖水信仰を根幹とするグランドデザインが完璧であると考えられます。その後、仏教の影響で鬼門にあたる日枝山は比叡山と改名され、延暦寺が建立された。

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朱色5千基鳥居 伏見稲荷大社 その1(秦氏の聖なるライン)

200912nara_268  日本の稲荷神社の元締め伏見稲荷大社を訪れてみましょう。

 京都伏見の稲荷山を覆うように5千基の朱の鳥居が立ち並ぶ光景は壮観であります。

711年(和銅4年)に秦伊呂臣(具)が創建したと言われています。

子供の頃から、馴染の神社でして、参道で売られる雀のピン焼きと伏見人形が有名でした。

 五穀豊穣の神様ですから、雀は天敵だったのでしょうか。

先ず、伏見稲荷大社と秦氏と平安京について概要を説明したいと思います。

Photo  (秦氏の聖なるライン)

秦氏の中心地点は元糺の杜、即ち木嶋坐天照御魂神社(きじまに います あまてる みたまじんじゃ)の三角鳥居で囲まれた聖なる泉であります。秦氏が一番大事にした聖なる祭祀の場所です。恒武天皇を平安京に招聘したのは秦氏であり、秦氏の住居を皇居に提供しました、それが御所ですね。

200912nara_243  太陽が昇る比叡山(日枝山、日吉山)と元糺の杜を繋ぐライン上に下賀茂神社(糺の杜)、御所が位置しています。そして、松尾山には秦氏の神社である松尾大社があります。ここにも聖なる泉が存在しています。現在は酒の神ですね、今でも酒造家は松尾大社の泉の水で酒の仕込みを始めます。

 そして、冬至の太陽が昇る稲荷山に秦氏の伏見稲荷大社が存在しています。秦氏の平安京の聖なるグランドデザインが恒武天皇が遷都される以前に出来上がっていました。

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銅鏡について 

       銅鏡に関するメモ    

 『三輪山と日本古代史』鏡の考古学より抜粋(森浩一)  

(黒塚古墳の銅鏡の出土状況)

 ・ 黒塚古墳は地震か偶然か石室が壊れた為にもとの儘で残った貴重な例である。

 ・ 木棺の中の遺体の頭の近くに中型の画文帯神獣鏡が置かれていた。同時に刀剣類が置かれていた。

 ・ 木棺を閉じたあと蓋をして、頭部に近い部分に盤龍鏡が置かれていた。そして、棺と石室壁との間に三角縁神獣鏡が32面が頭部から北方向に西と東の石室と棺の隙間に置かれていた。

 ・ 和泉黄金塚古墳でも盤龍鏡はこのような位置に置かれていたのが参考になる。

 ・ 三角縁神獣鏡は全て棺の外である事に注目すべきである。即ち副葬品では無い。

・ 森浩一氏は、三角縁神獣鏡は葬具ないし、呪具ではないかと考える。葬式用に特別にこしらえた物という考えです。(森氏は、三角縁神獣鏡は中国で一枚も出土していないので、国内で製造されたと考える。)

 ・ 森氏の話では、大阪の紫金山古墳の出土状況でも、棺の中に置かれていたのは方格規矩鏡1枚であり、それ以外の鏡は棺の蓋を閉めたあと外に置かれた。10枚の三角縁神獣鏡も外であった。

参考 画文帯神獣鏡 奈良国立博物館

参考 奈良文化財研究所 三角縁神獣鏡のデジタルアーカイブ化

参考 三角縁神獣鏡を復元する 

 (平原古墳の超大型内行花文鏡)

 ・ 直径が46.5センチもある超大型の内行花文鏡の同型鏡が5面出土した。この鏡は中国では考えられない大型の鏡であり、伊都国で製造されたと考える。銅鐸を作る技術を応用して、同型鏡を製造したと考える。

 ・ 中型の方格規矩鏡が、一番数が多く出土している。中国では見られない陶氏作鏡の銘文を持つ鏡が存在。この 鏡も中国の学者(王士倫氏)の話では日本産であると結論している。その後、柳田康雄氏は研究を重ね日本製であると結論した。

 ・ 弥生時代の終わり頃に鏡作りの職人グループは古墳時代初期にヤマトに移動し大神神社の周辺に定着した。(唐古・鍵遺跡の近くに鏡作神社が沢山あります)

 ・ 超大型鏡である内行花文鏡のテクノロジーは受け継がれ、柳本大塚古墳の40センチ、桜井の外山茶臼山古墳の鏡は破片になっていたが復元すると39センチと想定される、天理の下池山古墳の37.6センチである。

 参考 内行花文鏡 伊都国歴史博物館

 (中国人と越人)

 ・ 一人の墓に10枚以上の鏡を埋納する風習は中国では殆どみられない。

 ・ 稀に中国で確認されるのは、広州の南越王(文帝)の紀元前2世紀、弥生中期の初め位の時代の墓から出土する。

 ・ 漢民族ではない越人の地帯である。古い周の時代から倭人と越人はペアを組んで都に出かけたという。金印にも二人の民族は蛇の鈕のデザインであり、分身鯨面も同じである。

 参考 南越王金印

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大和(おおやまと)古墳群を歩く その10(感想)

 承前 大和(おおやまと)古墳群を歩く その9(山辺の道)

年末に京都への帰省の機会があり、二日間をかけてヤマト王権成立の鍵を握る遺跡群を歩いた。初日は、近鉄線の笠縫駅から多神社、秦庄を歩き、同じく石見駅で下車し石見鏡作神社から唐古・鍵遺跡を歩いた。

 二日目はJR長柄駅で下車し、大和(おおやまと)神社から萱生(かよう)古墳群、中山古墳群を廻った。特に、継体天皇の皇后で飛鳥時代を切り開いた、欽明天皇を産んだ手白香皇女の墓の仮説がある西山塚古墳、そして大和古墳群最大の盟主墳である西殿塚古墳を訪問した。

 又、この古墳群で一番古いと考えられる中山大塚古墳と大和神社の御旅所を訪れ、古代の武装航海民である倭直氏の雄大な大陸との航海を想像した。そして、最後に柳本の黒塚古墳を訪れ32面も出土した三角縁神獣鏡が埋納された石室の上に立った。

 昨年は春の3月に桜井茶臼山古墳から纏向遺跡群を歩き、11月にも纏向遺跡や葛城を歩いた。やはり、現場に行かないと実感が湧かない、机上や本を読んでばかりいては駄目である事を再認識出来た旅でもありました。

2010年が幕開けし、橿考研は桜井茶臼山古墳の調査で銅鏡が最低、81面埋納されていたことを発表した。大王墓であると考えられる桜井茶臼山古墳はヤマト王権の中枢の磐余(いわれ)という場所に位置する。ヤマト王権誕生の謎を解く鍵は奈良盆地中央低湿部の弥生時代から続く唐子・鍵遺跡や多神社の付近、葛城川が古代の奈良盆地湖に注ぐ地域、そしてヤマト王権が誕生する龍王山から三輪山西麓の北部、大和古墳群、中部の柳本古墳群、三輪山西麓の纏向(箸墓)古墳群、そして、一番南部の鳥見山北麓の桜井(外山)茶臼山古墳である。

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大和(おおやまと)古墳群を歩く その9(山辺の道)

 承前 大和(おおやまと)古墳群を歩く その8(黒塚古墳)

200912nara_181  『刀根早生』の力強い生きる姿です。

200912nara_156 一本の柿の木に鳥の為に柿の実が残されている。なんと日本人は優しいのでしょうか。

200912nara_179  柿の木は子供の頃を思い出す。大人になっては二日酔いに防止に酒場で食べた。

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大和(おおやまと)古墳群を歩く その8(黒塚古墳)

 承前 大和(おおやまと)古墳群を歩く その7(柿の森を歩く)

200912nara_205  黒塚古墳です、1997年に橿原考古学研究所が発掘し、三角縁神獣鏡33面及び画文帯神獣鏡1面が出土した古墳として有名です。

 墳丘長130メータの前方後円墳で古墳時代初期の古墳です。先日、橿考研が折しも桜井茶臼山古墳の副葬銅鏡81面についての発表がありました。

 柳本古墳群としては古墳時代初期の古墳として知られていました。この古墳の特徴は後円部墳頂に巨大な竪穴石室が存在した事です。

200912nara_210

200912nara_213_2 後円部の大きさの割には巨大な南北8.3メータ×東西1メータ×高さ1.7メータの石室です。解説を読みましょう。

200912nara_208 200912nara_206 200912nara_211 200912nara_212  石室は三~四段程度は頭大の大きさの石を積み上げその上は板状石を持ち送りながら重ねて三角形の天井を作る。水銀朱を床面に施し割竹式の刳り抜き式木棺を据えていた。頭の近くに画文帯神獣鏡を縦に置き、刀剣を置き、棺の外には33面の三角縁神獣鏡が副葬されていた。

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桜井茶臼山古墳 副葬銅鏡81面(続報)

 20093nara_024 承前 桜井茶臼山古墳 副葬銅鏡国内最多81面

 新聞各社では先日の橿原考古学研究所が発表した桜井(外山)茶臼山古墳の副葬銅鏡81面について、再度報道を行っている。

 論説副委員長 渡辺裕明 鏡が語る国家誕生の謎(産経新聞)

 この記事に出てくる平原1号墳というのは魏志倭人伝に登場する伊都国と考えられ40面の銅鏡は方形周溝墓から出土している。有名な原田大六氏が発掘を担当されたと記憶します。発掘時にことごとく銅鏡は割られていたので、葬送儀礼に於いて鏡を割る風習が存在したのでしょうか。椿井大塚山古墳37面については私は崇紙天皇と激しい国内戦を戦った山背の武埴安(たけはにやす)の墳墓ではないかと考えています。黒塚古墳34面銅鏡については、現在紀行文を載せている『大和(おおやまと)古墳群を歩く』で記事を書く予定です。

 クローズアップ2010 国内最多 銅鏡確認 権力映す数と種類(毎日新聞)

 記事で13種の銅鏡に注目していますね、大王に相応しい人はあらゆる鏡を保持していたと考える。三角縁神獣鏡だけではなく、数多くの種類の鏡を持つ事は連合国の多さを誇示しているのかもしれない。

 大王墓 鏡の宝庫 卑弥呼時代照らす文字(読売新聞)

 橿考研の奥山誠義氏の3D画像分析が今回の立役者ですね。既に700面以上の銅鏡の3D画像データベースを蓄積しているようだ。指紋分析のように銅鏡破片からその銅鏡の仲間を探る科学的分析手法である。300を超える銅鏡の破片から81種を特定したのに3ヶ月必要だったそうだ。

 国内最多銅鏡81枚(奈良新聞)

新聞各社も速報とは別に、今回の桜井茶臼山古墳出土81面の銅鏡に関して記事を掲載するのはこのニュースの重要性に着目している証拠です。未だ、解明されていない鏡の破片が存在し100面を越える可能性が高いと思います。如何にヤマト王権の大王クラスは権力を保持していたか想像されます。

 鏡というのは倭国では神宝でした、中国の史書がその事を述べています。現在も皇室では三種の神器の一つとして鏡が皇位継承の証として存在しています。発掘された鏡の表面に絹の痕跡が存在していたと報道されている。平絹に大事に包まれて副葬されていたといいます。しかし、多くの鏡が粉々になっているのは平原1号墳の鏡のように副葬時に破壊して副葬する風習が存在したのではないでしょうか。

 大王(巫女)から下賜された銅鏡は、大王(巫女)が死ぬと王達は持ちより葬送儀礼の時に破壊して副葬したのではないでしょうか。盗掘時に銅鏡が割られただけでは説明が出来ないと思います。

 

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大和(おおやまと)古墳群を歩く その7(柿の森を歩く)

 承前  大和(おおやまと)古墳群を歩く その6(中山大塚古墳)

200912nara_157  萱生の山辺の道は柿の木の森を歩く感じです。柿の名前は『刀根早生』と言われる柿の発祥の地だそうですよ。

 奈良と言えば柿、柿と言えば『鐘が鳴るなり 法隆寺』の正岡子規です。子供頃育った北河内郡大字招堤村にも至る所に柿の木は有りました。

 柿の木は随分と背が高く、竹の先に「刺又(さすまた)」風の二股を着けて枝の先の柿をクルクル巻きつけて収穫しました。

200912nara_156 200912nara_170  親に言われたのは、柿の木は脆いので登らないようにと言うことです、しかし、登っては柿を取って食べていました。関西は柿が豊富なんですね、鳥が食べて近郊に拡散させてきたのでしょうね。

200912nara_172  二上山が遠く望む事が出来ますね。久しぶりに歩いた山辺の道は素晴らしい景色です。四季折々に異なる風景を見せてくれるのでしょうね。

 この辺りの中山支群の古墳群の景色と盆地の街の景色、そして遥か彼方に二上山が見えます。

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大和(おおやまと)古墳群を歩く その6(中山大塚古墳)

200912nara_195  承前 大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)

 中山大塚古墳です、箸墓の次に古いと考えられている全長120メータの古墳時代初期の前方後円墳です。

 泉武氏の解説による復元案では墳丘全長132メータ、後円部径73メータ、前方部幅68メータである。前方部には大和神社の末社が作られた時に削平を受けている。

200912nara_186 200912nara_187

大和神社の末社が作られ『お旅所』となっています。200912nara_188

200912nara_189 200912nara_190 200912nara_191 如何に大和神社と関係が深いか推察出来ます。

 この古墳は大和神社の祭主と関係が深いと思われます。倭直(やまとのあたい)の祖である長尾市との関係です。この古墳について少し触れてみましょう。

200912nara_184 200912nara_185  円筒埴輪の出現以前の古墳であり、墳丘を覆う葺石は分厚く木が繁らない頃は遠方から見ると凄い石塚であったと考えられる。後円部には、盗掘は受けていたが大きな墓壙の中に壮大な竪穴式石室が存在した。内部に刳り抜き式の木棺(船形)が置いてあった。石室は、近畿地方の前期の大型古墳に見かける石室とは石室上部の構造が異なり、森浩一氏は『亀甲形魚鱗状天井の竪穴式石室』と定義されている。

 彼の印象は、南九州の隼人が残した地下式板石積石室を巨大化したものではないか』と述べておられます。このような石室は、年代は中山大塚古墳よりは下るが、福岡県二丈町の一貴山銚子塚など北部にあるようです。

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大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)

承前 大和(おおやまと)古墳群を歩く その4(西山塚古墳)

200912nara_154  西殿塚古墳(宮内庁では衾田陵 手白香皇女墓と治定)の威容です。大和古墳群(萱生古墳群)では最大の盟主墳であります。

(古墳概要)

 古墳の概要は『初期古墳と大和の考古学』石野博信編の泉武氏(天理市教育委員会)の「大和古墳群萱生支群の墳丘構造」を御紹介します。

 ・西殿塚古墳は墳丘の主軸を南北方向におく全長約230メータの前方後円墳である。

200912nara_149 200912nara_155  ・古墳は西に延びる斜面に造成されているので、後円部の東は高さ6メータで三段造成、西は高さ28.2メータで四段築成だそうだ。

 ・この古墳の最大の特徴は前方部と後円部に方形の基檀が存在しその地下に竪穴墳墓が存在する事だ。後円部の方形壇は底辺35メータ、上辺26.6メータ、高さ2.6メータである。そして、方形壇中央には東西幅が6メータ程更に周囲より高くなっており埋葬施設が存在すると考えられる。

200912nara_160  ・前方部の方形壇は底辺22メータ、高さ2.2メータと後円部よりは小型である。頂部では扁平な玄武岩の割石が観察され、葺き石は各所で見られるという。

200912nara_159 200912nara_163  ・方形壇の類例としては広陵町の巣山古墳の前方部に存在する。箸墓古墳の後円部には円形壇が存在し直径40メータ、高さ5メータであるという。平成10年の台風被害により調査結果、多くの河原石と板石が数十センチの厚みで積み石状である事が確認された。

 ・このような盛土表面を厚く覆う状況はホケノ山古墳や西殿塚古墳、中山大塚古墳でも確認されており前期古墳の特徴であるようだ。後円部から吉備様式の特殊器台が並んでいた事からも箸墓と同様に前期古墳である事は確かだ。

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大和(おおやまと)古墳群を歩く その4(西山塚古墳)

 承前 大和(おおやまと)古墳群を歩く その3(萱生環濠集落へ)

200912nara_146  写真は萱生環濠集落に存在する西山塚古墳です。

 墳丘の長さ115メータの前方後円墳で6世紀前半に築かれたもので、萱生の古墳群の殆どが古墳前期時代の古墳であるのに、これだけが6世紀です。

 墳丘上で採取された円筒埴輪により年代が推定されており、本格的な発掘はされていない。

 森浩一氏はこの古墳が継体天皇の皇后である手白香皇女の衾田陵ではないかと推測されている。但し、西殿塚古墳を6世紀に手白香皇女の墓として、再利用したのであれば、現在の宮内庁の治定の通りとなる。

200912nara_144  森氏の『記紀の考古学』によれば、吉田東伍氏と和田萃(あつむ)氏が西殿塚古墳を崇神天皇陵墓とし、大和王権の初代の王以来の直系の血統者である手白香皇女の墓を初代の王の近くの西山塚古墳に埋葬したと述べています。ちなみに、和田氏は箸墓古墳を台与の墓と考えておられるようです。

 ヲホド王(継体天皇)は武烈天皇で断絶した河内王朝のあと、新たに応神天皇5世の孫という資格でヤマト王権の大王に推挙された。最終的に手白香皇女を皇后に迎える事で奈良盆地でも大王として迎えられたと思います。現在宮内庁は西殿塚古墳を衾田陵として手白香皇女の墓と治定しているが、古墳の築造年代と合わないので、問題となっている。

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桜井茶臼山古墳 副葬銅鏡国内最多81面

20093nara_022  昨年、橿考研が60年ぶりに調査を行った桜井(外山)茶臼山古墳に関し新たな発表を行った。

朝日新聞 国内最多81面の銅鏡の副葬判明

毎日新聞 副葬銅鏡が81枚に ヒミコ時代のものも

読売新聞 桜井茶臼山古墳から銅鏡破片331点出土

共同通信 国内最多 銅鏡81枚を副葬

20093nara_026  桜井茶臼山古墳は磐余(いわれ)の地にあり大王の墓であると考えられているが、今回の橿考研の執念の60年ぶりの再発掘で銅鏡の破片を331点も見つけ、その数センチの破片から銅鏡の種類や埋葬された鏡の数を割り出した。未だ、不明な破片が幾つもあるという。80枚という数の銅鏡が副葬され、石室には200キロの辰砂が使用された大王は誰なんでしょうか。

 今回、報道では魏の年号で卑弥呼の使者が魏から帰国した年である、正始元年の銘がある銅鏡と同じ銅鏡の破片が見つかったと言うではないですか。邪馬台国問題にこの桜井茶臼山古墳は割って入りましたね。

 問題はこの古墳の築造年代になりますね、今迄の常識では4世紀初めの頃ではないかと言われていました。しかし、この数年前から弥生時代の年代の見直しの動きや放射性炭素14法の進化により、意外と年代は3世紀に遡る可能性もでてきたのではないだろうか。

 私は現在、磐余の地の大王に相応しいヤマト王権の伝説の始祖王である磐余彦が再葬されたランドマーク陵墓ではないかと考えています。再葬された時期は不明ですが、今年あたりには橿考研が発表する可能性を信じています。

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大和(おおやまと)古墳群を歩く その3(萱生環濠集落へ)

 承前 大和(おおやまと)古墳群を歩く その2(大和神社)

200912nara_122 200912nara_123 200912nara_124  橿考研の地図を観ながら馬口山古墳→ヒエ塚古墳→波多子塚古墳を巡ろうと歩きだしたが、道に迷ってしまった。(笑)

最初の写真の柵の向こうが馬口山古墳だと思います。特殊器台形埴輪片が出土し全長110メータの古墳時代初期の未調査の前方後円墳だそうだ。ヒエ塚古墳も同じく古墳時代初期の古墳であるが私有地の為に発掘調査がなされていない。注目すべき100メータクラスの大型前方後円墳であり、箸墓と同じく初期の古墳である。このあたりは考古学ファンにとり宝庫が眠ってますね。

 この妙な格好をした木は萱生(かよう)の『刀根早生』という有名な美味しい柿なんですね。地元の果樹園の人に訊くと、柿の実の採集が便利なようにこのような低い木にしているそうですよ。萱生(かよう)という聞きなれない名前がこの紀行の最後まで気になっていました。名前の由来は何なんでしょうね、まさか伽耶ではないでしょうね。

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200912nara_127 200912nara_128 南西方向にはふたこぶラクダの二上山が美しく横たわり、東の眺めると龍王山の山塊が見えますね。

 萱生の柿の果樹園が一面に斜面に連なるのどかな風景です。柿の実がなる季節に来れば良かったです。(笑)

 時折、鳥の為に未だ熟した柿の実が枝の先に残されています。

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大和(おおやまと)古墳群を歩く その2(大和神社)

200912nara_116  承前 大和(おおやまと)古墳群を歩く その1(概要説明)

200912nara_109 200912nara_115  JR桜井線の長柄駅から歩いて5分程度で到着します。年末でお正月の準備で氏子さん達は忙しそうでした。

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祭神は日本大国魂大神すなわち、大地主(おおとこぬし)と書かれています。ヌナキイリヒメの話も日本書紀に従っています。

200912nara_112 本殿修理に1億2千万もかかるようですね。

200912nara_117  本殿の隣には『たかおおかみ』神社というものがあります。難しい漢字ですね、水の神のようですが、説明を読みましょう。

200912nara_113_2  どうやら雨を祈願する為に皆さん集まるようですね。この『たかおおかみ』神社をもう少し観てみましょう。

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こんな按配ですよ。邪馬台国の卑弥呼も台与も雨乞いの儀式をやったのでしょうね。時代は下るが斎明天皇が酒船石、亀石遺跡で行った水の儀式も3世紀からの伝統を継いでいるのでしょうね。

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大和(おおやまと)古墳群を歩く その1(概要説明)

200912nara_101  写真はJR長柄駅で掲載されている遺跡案内です。私が歩くのは橿原考古学研究所が勧める以下のルートです。

 橿原考古学研究所推薦コース萱生古墳群から柳本古墳群を歩く

 一般の人々には聞きなれない古墳群の名前が登場しますね、少し自分なりに概要を説明したいと思います。

 日本列島に於いて最初に前方後円墳が出現したのは奈良盆地の東の北に龍王山塊、南に三輪山が連なる山脈の西側の麓に出現しました。

200912nara_159  大きく分類すると一番北部に西殿塚古墳(宮内庁は衾田陵と治定)を盟主とする中山大塚古墳や東殿塚古墳、大和神社その他古墳群をまとめて、大和(おおやまと)古墳群とか橿考研が定義する萱生(かよう)古墳群と呼びます。

中山大塚古墳(全長130メータ前方後円墳)は箸墓古墳に次いで古い古墳であると考えられています。そして、盟主は何といっても西殿塚古墳であり、全長234メータの巨大前方後円墳であります。これらの古墳はJR長柄駅の東方の山麓に存在します。(写真は西殿塚古墳です)

200911kyoto_160  次にJR柳本駅の東の龍王山の麓に展開する古墳群、行燈山古墳(宮内庁は崇神天皇陵と治定)、櫛山古墳、黒塚古墳、南部に渋谷向山古墳(宮内庁は景行天皇陵と治定)などを柳本古墳群と呼んでいます。盟主は行燈山古墳であり全長242メータの巨大前方後円墳であります。これらも古墳時代初期の古墳と考えられております。(写真は行燈山古墳です)

 最後に三輪山の麓に展開する古墳群であり箸中古墳群とか三輪(纏向)古墳群とも呼んでいる。盟主は最大の全長278メータ20093nara_045 の一番古いと想定される箸中山古墳(箸墓古墳)であります。

 参考 橿考研推薦コース 柳本古墳群から箸中古墳群へ

  (写真は箸中山古墳、箸墓古墳です)

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唐古池でみかけたラジコン青年

200912nara_096  唐古池の東隣でラジコン飛行機を飛ばす青年に出会いました。

 今、ヘリを飛ばそうと準備中でした。話しかけると気楽に手を休め楽しいラジコン談義となる。

 午前中はもっと沢山のラジコンマニアが飛行機を飛ばしていたそうですが、午後は彼一人残ったようでした。

 30クラスの小型のヘリでしたが、写真を撮りたいというと、それならば、零戦を撮影して下さいとの話になる。

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石見鏡作神社、唐古・鍵遺跡を歩く その2(唐古・鍵遺跡)

200912nara_090  唐古・鍵遺跡の中心地点です。近鉄線の石見駅から石見鏡作神社を経由して寺川を渡り磯城郡 八坂神社の交差点を南下すれば到着します。

Photo 石見駅からの概略ルートを示しています。唐古・鍵遺跡は寺川と大和川に囲まれた中洲のような場所に展開しています。

200912nara_073 遺跡群は写真の通り唐古・鍵遺跡を中心に沢山の環濠集落が点在しています。

 近畿地域では最大の弥生時代の遺跡ではないでしょうか。そして、我々を驚かせたのが弥生土器の破片に描かれていた楼閣の絵でした。それは、先進地域である北九州や朝鮮半島をとび越え、中国漢時代の文明的な建物が描かれていた。今までの弥生時代の概念を打ち砕き素晴らしい文明を読み取れる建物でした。

 参考 唐古・鍵遺跡出土土器片絵画

200912nara_067  47回を越える田原本町(たわらもと)教育委員会の唐古・鍵遺跡の執念の発掘成果であります。この遺跡は故末永雅夫さんが1937年に発掘を始められたのが最初です。東西600メータ、南北500メータの円形の大集落であり、周囲に濠をめぐらせた環濠集落です。

200912nara_069  考古学者の森浩一さんは『古代史の窓』(唐古・鍵遺跡の楼閣の土器絵画)に於いて、語られているのは、以下引用『環濠集落は日本列島の弥生社会に多いだけでなく、タイ、ヴェトナム、中国に広く分布している。その多くは、単なる農村ではなく、金属器、木製品、織物などの生産を行い、交易や水陸交通の盛んな都市的性格を持っている。』と語っています。200912nara_070 200912nara_071

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石見鏡作神社、唐古・鍵遺跡を歩く その1(石見鏡作神社)

200912nara_047  近鉄線の石見駅で下車し石見鏡作神社から唐古・鍵遺跡を訪問しましょう。

石見駅とは妙な駅名ですね、駅前には付近の遺跡の案内板がありました。200912nara_042 200912nara_043

地図を見ますと、今回は石見駅の東の方角の唐古・鍵遺跡を訪問するので西の方角には行きません。しかし、但馬とか杵築という名前が登場しますね。

 杵築神社が二ヶ所もありますね、出雲大社の事なのか、それとも秦氏の豊の国の杵築なのか判りません。先月記事を書きましたが、出雲の西部を支配していた杵築神の事であれば、但馬と合わせると日本海から丹後半島の勢力がここに存在した事になります。

 参考 出雲オウ王について『出雲の古代史』(門脇禎二)

200912nara_100 写真は杵築神社の遠景です。石見鏡作神社から唐古・鍵遺跡への道で撮影しました。

 石見・但馬・杵築となるとやはり出雲の勢力が弥生時代からこの場所で環濠集落を形成していたのでしょうね。そういえば、纏向遺跡の近くは昔出雲庄が存在していたと聞きました。

  しかし、秦氏の故郷である豊の国に杵築があるんでしょうね、秦氏と出雲とは関係があるんでしょうか、今後の課題です。さて、石見鏡作神社でしたね。

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笠縫邑を歩く(多神社、秦庄、笠縫神社、秦楽寺) その2(秦庄)

200912nara_027 承前 笠縫邑を歩く その1(多神社) 

多神社を後にして、次は秦庄を訪問しましょう。再度、近鉄電車の笠縫駅に戻ります。約1キロ程度は歩きます。

 写真は左が春日神社、右が笠縫神社です。問題は笠縫神社ですね、日本書紀が語る崇神天皇の時代に宮中を追い出された天照さんを豊鍬入姫が祭祀した神社でしょうか。

 候補が幾つかありますので、確定ではありません。しかし、トヨと豊の国の秦氏との関係を考えると何らかの関係があるのかも知れませんね。秦氏は本当に謎の氏族であります。

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 写真左が笠縫神社、右が春日神社で並列して並んでいますが、入口は春日神社となっています。

200912nara_026 こんな按配なんですね。秦氏は時代に敏感な氏族です、時代に合わせて来たのでしょうか。この二つの神社は現在、秦楽寺境内の隅っこにあります。

 この辺りは秦庄にありますが、聖徳太子さんの時代に秦河勝は政治を支えた訳です。事実、斑鳩から通勤される聖徳太子さんの道(太子道)はこの秦庄の北を通過しています。太子さんは、通勤途中でこの秦庄で一服されながら通われたのではないだろうか。

200912nara_032  この寺は大化3年に百済から贈呈された観音様を秦河勝が貰い受け安置した時から始まると寺伝は伝えています。

 寺の池は空海が唐から帰国後、『阿』の字の形をした池をここに作ったと伝えられています。

 『阿』の池があるなら、『吽』の池も存在したのではないでしょうかね。(笑)

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笠縫邑を歩く(多神社、秦庄、笠縫神社、秦楽寺) その1(多神社)

200912nara_004  写真は多神社であります。以前から気になっている神社でして、奈良盆地の真ん中に位置し春分・秋分の日にこの神社から三輪山から昇る太陽を眺め、夕方は二上山に沈む太陽を眺める事が出来るという。 

 場所関係はグーグルアースの写真を参考にして下さい。

Photo  近鉄線の笠縫駅で下車し南西1キロ程度のところに多神社はあります。

 参考 太安万侶・稗田阿礼拠点集落

 参考 纏向遺跡 大型建物跡と三輪山信仰

 多神社は正式には多坐弥志理都比古神社(おほにます みしりつひこ じんじゃ)と呼ばれています。この『みしりつひこ』さんは神武天皇の長男ですが、天皇にならず二男に皇位を譲った神八井耳命を祭神としています。多氏の祖と仰いでいる。

200912nara_012  神社の傍は飛鳥川が流れ大和川水系の水運が開けている。そして、ここには大きな環濠集落が存在していました。

 写真は飛鳥川で、左の杜が多神社です、真正面の山は神武天皇の畝傍山ですね。

 飛鳥川の水運は大和川水系と繋がりますから古代は海運の面でも重要な場所であったと想像されます。

 多神社の杜は多遺跡が存在し沢山の遺物・遺構が発掘されています。

 

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ETV特集 日本と朝鮮半島2千年シリーズを振り返り

 承前 『日本と朝鮮半島2千年 第5回 日本海の道』

 承前 『日本と朝鮮半島2千年 第1回~第4回』

 参考NHK 6回 蒙古襲来の衝撃

    NHK7回 東シナ海の光と影 倭寇の実像を探る

    NHK8回 豊臣秀吉の朝鮮侵略

        NHK9回 朝鮮通信使 和解の為に

       NHK日本と朝鮮半島2千年スペシャル番組 海峡を越える国宝の美

 お正月の期間、NHKでは教育テレビ放映50周年記念で作成されている『日本と朝鮮半島2千年』番組の再放送を連日行った。私は、既に観ていたが再度又、観てしまった。最新の考古学により発掘成果を踏まえた番組構成になっており、面白いからである。

 朝鮮半島に於いても、長い間日本と関係が深かった洛東江流域の伽耶諸国については偏見が存在していたと思われる。今までは三国時代(高句麗、百済、新羅)と呼ばれ伽耶諸国は無視されてきた。しかし、最近の韓国では洛東江流域の発掘が進みこれまでの考えが大きな転換局面に対峙している。伽耶諸国には高句麗、百済、新羅に匹敵する政治勢力が存在した事である。

 私は、日本書紀の記述による任那の存在と明治以来の戦前の日本人の常識である任那の歴史観が韓国の人々に特別な感情を与えていたと思います。しかし、伽耶諸国は確実に存在し、日本書紀が述べる任那とは何なのかを解き明かす為には洛東江流域の発掘調査が不可欠である事に日韓の考古学者も歴史学者も認識で一致した。これは、成果だと思う。

 

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メキシコ オアハカからの年賀状

Anonuevo  娘のMisayoはメキシコシテイ南部500キロに位置する古都オアハカで絵の修業をしています。

 竹田鎮三郎画伯にお世話になって暮らしています。老犬の世話に追われているようです(介護)。

メキシコでは寅では無く、豹だといいますね。娘も、家内も、孫娘もトラ年生まれ,おまけに義父も姉も姉の娘も寅歳生まれ、今年は当たり年です。

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2010年 元旦の富士山

200912nara_342  2010年、正月を迎えました。元日の富士山の風景です。望遠レンズAF70-300mmF/4-5.6で撮影しました。

 少し曇りの様子ですが、天気は晴れです。何とか今年は景気が持ち直してもらいたいですね。

 政権交代後の初年です、皆で選んだ政権です長い目で育てなければ日本は沈没する、世界一の経済大国では無く、豊な美しい世界から尊敬される国民が住む国を目指したいですね。

 昨夜はテレビを息子に取られ、早々に寝てしまいました、夜の10時過ぎに起きて本を読みながら年を越してしまった。

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