桜井茶臼山古墳 副葬銅鏡国内最多81面
昨年、橿考研が60年ぶりに調査を行った桜井(外山)茶臼山古墳に関し新たな発表を行った。
朝日新聞 国内最多81面の銅鏡の副葬判明
毎日新聞 副葬銅鏡が81枚に ヒミコ時代のものも
読売新聞 桜井茶臼山古墳から銅鏡破片331点出土
共同通信 国内最多 銅鏡81枚を副葬
桜井茶臼山古墳は磐余(いわれ)の地にあり大王の墓であると考えられているが、今回の橿考研の執念の60年ぶりの再発掘で銅鏡の破片を331点も見つけ、その数センチの破片から銅鏡の種類や埋葬された鏡の数を割り出した。未だ、不明な破片が幾つもあるという。80枚という数の銅鏡が副葬され、石室には200キロの辰砂が使用された大王は誰なんでしょうか。
今回、報道では魏の年号で卑弥呼の使者が魏から帰国した年である、正始元年の銘がある銅鏡と同じ銅鏡の破片が見つかったと言うではないですか。邪馬台国問題にこの桜井茶臼山古墳は割って入りましたね。
問題はこの古墳の築造年代になりますね、今迄の常識では4世紀初めの頃ではないかと言われていました。しかし、この数年前から弥生時代の年代の見直しの動きや放射性炭素14法の進化により、意外と年代は3世紀に遡る可能性もでてきたのではないだろうか。
私は現在、磐余の地の大王に相応しいヤマト王権の伝説の始祖王である磐余彦が再葬されたランドマーク陵墓ではないかと考えています。再葬された時期は不明ですが、今年あたりには橿考研が発表する可能性を信じています。
私の意見は、森浩一氏の桜井茶臼山古墳に関する幾つかの意見を総合し、研究者としてはなかなか想像の域で意見は言えません、しかし、高句麗の始祖王の再葬の例をだして意見を述べておられたので、自分なりに森さんは磐余彦の再葬墓と考えておられるのではないかと邪推したまでです。
さて、奈良盆地の東の山麓に巨大な大王墓として相応しい前方後円墳が幾つも存在します。北から述べると、大和(おおやまと)古墳群とも萱生古墳群とも呼ばれる古墳群の盟主である西殿塚古墳があります。そして、少し南下し、龍王山山麓に柳本古墳群と呼ばれる古墳群が存在し行燈山古墳、渋谷向山古墳があります、そして三輪山の麓に箸中(纏向)古墳群の盟主である箸中山古墳(箸墓古墳)が存在します。
そして、一番南に位置する磐余の桜井茶臼山古墳があります。以上の古墳はヤマト王権の大王墓に相応しい古墳であると思います。ただ、記紀が書かれた時代は中国の政治思想が強く支配的であり魏志倭人伝が伝える日本列島の政治体制は巫女さんが頂点に位置し、男王が政治を行うという国のかたちを無視したと思えてなりません。
従い、巨大古墳は男王だけではなくむしろ巫女の墓である可能性が大であると考えています。昨年から、この奈良盆地の東側の古墳群を歩いていますが、問題は宮内庁が治定する陵墓や陵墓参考地には考古学者が立ち入れないのが問題です。研究が進まないのが実情です。
そんな中で、幸い桜井茶臼山古墳は宮内庁の管轄外であり大いに日本の古代史のベールを科学的に学問的に解き明かして貰いたいと期待しています。
参考 桜井茶臼山古墳 木棺搬出
参考 桜井茶臼山古墳 石室公開
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