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大和(おおやまと)古墳群を歩く その6(中山大塚古墳)

200912nara_195  承前 大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)

 中山大塚古墳です、箸墓の次に古いと考えられている全長120メータの古墳時代初期の前方後円墳です。

 泉武氏の解説による復元案では墳丘全長132メータ、後円部径73メータ、前方部幅68メータである。前方部には大和神社の末社が作られた時に削平を受けている。

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大和神社の末社が作られ『お旅所』となっています。200912nara_188

200912nara_189 200912nara_190 200912nara_191 如何に大和神社と関係が深いか推察出来ます。

 この古墳は大和神社の祭主と関係が深いと思われます。倭直(やまとのあたい)の祖である長尾市との関係です。この古墳について少し触れてみましょう。

200912nara_184 200912nara_185  円筒埴輪の出現以前の古墳であり、墳丘を覆う葺石は分厚く木が繁らない頃は遠方から見ると凄い石塚であったと考えられる。後円部には、盗掘は受けていたが大きな墓壙の中に壮大な竪穴式石室が存在した。内部に刳り抜き式の木棺(船形)が置いてあった。石室は、近畿地方の前期の大型古墳に見かける石室とは石室上部の構造が異なり、森浩一氏は『亀甲形魚鱗状天井の竪穴式石室』と定義されている。

 彼の印象は、南九州の隼人が残した地下式板石積石室を巨大化したものではないか』と述べておられます。このような石室は、年代は中山大塚古墳よりは下るが、福岡県二丈町の一貴山銚子塚など北部にあるようです。

200912nara_197  東殿塚古墳の墳丘の裾を調査した時に円筒埴輪に三艘の船の線刻がある事が判った。森氏は流石に、倭直氏の地域であると言う。東殿塚古墳は倭直氏の首長墓ではないかと述べている。

 森氏の話では岐阜県大垣市、荒尾南遺跡の方形周溝墓の溝に埋めてあった弥生後期の壺に三艘の船の線刻画が存在した。

 中央が82本の櫂で漕ぐ大船であり、左右の船は一本の帆を立てていた。この大垣の船と東殿塚の船とに共通性があり、旗の表現が似ていると言われる。倭大国魂神を祭るのに最初に任じられた姫、ヌナキイリヒメの母が尾張の大海媛であると事は、豊後の海人とともに連合していた可能性がありますね。

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