大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)
西殿塚古墳(宮内庁では衾田陵 手白香皇女墓と治定)の威容です。大和古墳群(萱生古墳群)では最大の盟主墳であります。
(古墳概要)
古墳の概要は『初期古墳と大和の考古学』石野博信編の泉武氏(天理市教育委員会)の「大和古墳群萱生支群の墳丘構造」を御紹介します。
・西殿塚古墳は墳丘の主軸を南北方向におく全長約230メータの前方後円墳である。
・古墳は西に延びる斜面に造成されているので、後円部の東は高さ6メータで三段造成、西は高さ28.2メータで四段築成だそうだ。
・この古墳の最大の特徴は前方部と後円部に方形の基檀が存在しその地下に竪穴墳墓が存在する事だ。後円部の方形壇は底辺35メータ、上辺26.6メータ、高さ2.6メータである。そして、方形壇中央には東西幅が6メータ程更に周囲より高くなっており埋葬施設が存在すると考えられる。
・前方部の方形壇は底辺22メータ、高さ2.2メータと後円部よりは小型である。頂部では扁平な玄武岩の割石が観察され、葺き石は各所で見られるという。
・方形壇の類例としては広陵町の巣山古墳の前方部に存在する。箸墓古墳の後円部には円形壇が存在し直径40メータ、高さ5メータであるという。平成10年の台風被害により調査結果、多くの河原石と板石が数十センチの厚みで積み石状である事が確認された。
・このような盛土表面を厚く覆う状況はホケノ山古墳や西殿塚古墳、中山大塚古墳でも確認されており前期古墳の特徴であるようだ。後円部から吉備様式の特殊器台が並んでいた事からも箸墓と同様に前期古墳である事は確かだ。
大和(おおやまと)神社を中心に中山大塚古墳が古く、そして盟主古墳である西殿塚古墳が築かれた。そして最後に東殿塚古墳が築造されたと考えられる。大和神社は最初、中山大塚古墳の前方部の前から中山寺跡、長岳寺にかけての広大な領域に存在していた。
大和神社で触れたが、祭主が倭直(やまとのあたい)の祖であるとすると、弥生時代から奈良盆地で土着した勢力では無く、神武東征神話に海導者である椎根津彦であり現在の大分県(豊後)の海人族であり豊予海峡で神武軍と合流している。要は、武装船団を指揮し、航海技術者集団でありました。
森浩一氏は倭国造とか倭直は豊後から移住してきた海人であると『記紀の考古学』で述べています。(第5章 倭大国魂神と中山大塚古墳 出典) とすると、秦氏もこの船団とともに奈良盆地に入植した考えるのが素直な考えではないだろうか。秦氏は武力集団ではなくてハイテク集団であり大陸との貿易業務にも通じていた集団と考えられます。
戦前、戦艦『大和』の守護神となった大和神社の背景には倭直の古代からの武装船団、航海技術者集団の伝統を踏まえた歴史だったのですね。
そこで、中山大塚古墳、西殿塚古墳が位置する場所は、律令制度の時代でも山辺郡と規定されており、柳本古墳群から南は磯城(しき)、城上(しきのかみ)郡であり地盤勢力が異なっていたと考えられる。
西殿塚古墳には前方部と後円部の二ヶ所に竪穴式墳墓が存在する訳ですが、この解釈を巡って色々と議論を生んでいる。崇神天皇の時代から始まる三輪王権の時代は巫女が頂点に立ち男王が補佐する国の形であったとすれば、巫女王と男王の二人を埋葬したと考える研究者もおられます。
再度、和田萃氏の西殿塚古墳と西山塚古墳に関する仮説を紹介しますが、彼は日本書紀にて崇神天皇陵を管轄する陵主が兼務で衾田古墳(手白香皇女墓)を管理していたという記述に注目し西殿塚古墳を崇神陵、西山塚古墳を手白香皇女の墓であると述べておられます。
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