大和(おおやまと)古墳群を歩く その4(西山塚古墳)
承前 大和(おおやまと)古墳群を歩く その3(萱生環濠集落へ)
墳丘の長さ115メータの前方後円墳で6世紀前半に築かれたもので、萱生の古墳群の殆どが古墳前期時代の古墳であるのに、これだけが6世紀です。
墳丘上で採取された円筒埴輪により年代が推定されており、本格的な発掘はされていない。
森浩一氏はこの古墳が継体天皇の皇后である手白香皇女の衾田陵ではないかと推測されている。但し、西殿塚古墳を6世紀に手白香皇女の墓として、再利用したのであれば、現在の宮内庁の治定の通りとなる。
森氏の『記紀の考古学』によれば、吉田東伍氏と和田萃(あつむ)氏が西殿塚古墳を崇神天皇陵墓とし、大和王権の初代の王以来の直系の血統者である手白香皇女の墓を初代の王の近くの西山塚古墳に埋葬したと述べています。ちなみに、和田氏は箸墓古墳を台与の墓と考えておられるようです。
ヲホド王(継体天皇)は武烈天皇で断絶した河内王朝のあと、新たに応神天皇5世の孫という資格でヤマト王権の大王に推挙された。最終的に手白香皇女を皇后に迎える事で奈良盆地でも大王として迎えられたと思います。現在宮内庁は西殿塚古墳を衾田陵として手白香皇女の墓と治定しているが、古墳の築造年代と合わないので、問題となっている。
萱生環濠集落です、濠で囲まれた防御システムですが、唐古・鍵環濠集落や多・秦庄環濠集落のように弥生時代からの低地集落では有りません。標高100メータの高地に築かれた萱生環濠集落と少し北に位置する竹之内環濠集落は特殊なんですね。
どうやら、南北朝の戦乱の頃にこの環濠集落は形成されたようです。萱生環濠集落は西山塚古墳の周濠をうまく利用して作られたようです。そういえば、中世の戦乱の頃に中山大塚古墳や箸墓古墳には砦が築かれていたと聞きました。その頃は飛鳥の古墳も荒らされ石材が持ち去られ砦に利用されたと聞いています。
さて、次は大和(おおやまと)古墳群、萱生古墳群の最大古墳、盟主である西殿塚古墳に向かいましょう。
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