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笠縫邑を歩く(多神社、秦庄、笠縫神社、秦楽寺) その2(秦庄)

200912nara_027 承前 笠縫邑を歩く その1(多神社) 

多神社を後にして、次は秦庄を訪問しましょう。再度、近鉄電車の笠縫駅に戻ります。約1キロ程度は歩きます。

 写真は左が春日神社、右が笠縫神社です。問題は笠縫神社ですね、日本書紀が語る崇神天皇の時代に宮中を追い出された天照さんを豊鍬入姫が祭祀した神社でしょうか。

 候補が幾つかありますので、確定ではありません。しかし、トヨと豊の国の秦氏との関係を考えると何らかの関係があるのかも知れませんね。秦氏は本当に謎の氏族であります。

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 写真左が笠縫神社、右が春日神社で並列して並んでいますが、入口は春日神社となっています。

200912nara_026 こんな按配なんですね。秦氏は時代に敏感な氏族です、時代に合わせて来たのでしょうか。この二つの神社は現在、秦楽寺境内の隅っこにあります。

 この辺りは秦庄にありますが、聖徳太子さんの時代に秦河勝は政治を支えた訳です。事実、斑鳩から通勤される聖徳太子さんの道(太子道)はこの秦庄の北を通過しています。太子さんは、通勤途中でこの秦庄で一服されながら通われたのではないだろうか。

200912nara_032  この寺は大化3年に百済から贈呈された観音様を秦河勝が貰い受け安置した時から始まると寺伝は伝えています。

 寺の池は空海が唐から帰国後、『阿』の字の形をした池をここに作ったと伝えられています。

 『阿』の池があるなら、『吽』の池も存在したのではないでしょうかね。(笑)

200912nara_033  写真は『秦楽寺』 (じんらくじ)と呼びます。寺の名前の由来は何でしょうか。200912nara_039

  寺の説明によれば、雅楽や猿楽(申楽)の意味で秦氏の楽人という意味だそうです。

 そういえば、秦氏は秦河勝以降脈々と雅楽や猿楽の祭祀や歌舞演劇の世界で活躍したと伝えられていますね。確か世阿弥もこの庄出身ではなかったでしょうか。

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寺の門が中華風なのが面白いですね。

 秦氏については、ライフワークとして歴史を追いかけています、彼らが朝鮮半島から渡来してきた時期が問題ですが、弓月君以前から渡来して来ていた可能性はないのでしょうか。

 宇佐神宮の近辺に秦王国を築いた彼らはいつ頃この奈良盆地に入植したのでしょうか。

 秦庄の東の方に箸墓古墳の手前の地名が豊前であり、豊田という地名が気になります。3世紀に既に奈良盆地に入植していた可能性があれば、日本の歴史にどのような影響を与えていたのでしょうか。 

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