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太安万侶・稗田阿礼拠点集落

 承前 纏向遺跡 大型建物跡と三輪山信仰

 承前記事にて多神社と太安万侶の関係に触れました。『古事記』の筆者であり『日本書紀』の編者でもある太安万侶とはどんな人物であり、考古学的にも何処まで実在が確認できるのでしょうね。ついでに、稗田阿礼についても追いかけましょう。

Photo  グーグルアース 太安万侶火葬墳墓(墓誌銅板)

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 1979年奈良市此瀬町の茶畑で火葬墳墓が見つかり銅板に太朝臣安万侶の文字が刻まれた墓誌が出土した。

 この辺りは平城京に仕えた官人たちの墓地域だそうです。

 墓誌に書かれた死亡年度は1日のずれがあるが『続日本紀』の記述と整合するので、実在が考古学的にも確認された。太安万侶の太氏は多氏とも漢字で書かれる事も多く、同じである。森浩一氏の『古代史おさらい帖』の「太安万侶とその墓」で記述された内容を参考に以下メモを残します。

 ・太安万侶の父は壬申の乱の時に大海人皇子の将軍として活躍した多臣品治(おおのおみ ほんじ)だそうだ。乱の終了後功績により朝臣を与えられる。

 ・奈良県田原本町の式内社の多神社はヤマトの国中(くんなか)で抜群の社格と経済力を持っていた。神社境内からは弥生土器、銅鏡、銅剣の破片など点々と出土し、弥生時代に拠点集落(母村)が存在したと考えられる。

 ・多神社の北西は田原本町となる前は多村矢部(おおむら やべ)と呼ばれ、水田の中に直径30メータの円墳『団栗(どんぐり)山古墳』が存在し1937年に龍文を配する環頭をつけた太刀や各種の馬具に混じり蛇行状鉄器が発掘された。

 ・蛇行状鉄器とは馬上の戦士が馬の尻に旗飾りを立てる為の鉄製品である。埼玉県行田市の酒巻14号墳出土の馬形埴輪の造形から判っている。6世紀後半の副葬品と考える。多の地に安万侶や父の品治(ほんじ)よりも数世代前に、既に朝鮮半島の乗馬具と共通した武具を持つ人物がいた事は多氏を考える上で参考になる。

 参考 行田市 酒巻14号墳出土埴輪

 参考 田原本町『団栗山古墳』

Photo_2 稗田環濠集落(垣内かいと)の衛星からの写真です。

 Photo_4

『古事記』編纂にあたり天武天皇が指名したのが稗田阿礼でしたね。かれの本拠は大和郡山市の稗田という場所であり、今も環濠集落、奈良では垣内(かいと)と呼ぶそうです。

 この環濠集落は中世までは確実に遡れるそうだが、森浩一氏はそれ以前にも集落は存在したのではないかと考えておられるようです。

 衛星写真を見ていると、南の多神社から真っ直ぐ北に線を延ばすと、鏡作神社があり、唐古・鍵遺跡があり、そして稗田環濠集落が存在します。古代の『下つ道』ではないですかね。森氏は稗田と多が地縁関係が存在したのではないかと推測されています。

 (夢が拡がる)

 さて、三輪山を崇める人々を考える時に奈良盆地では何処が一番いい場所かという発想から、多神社が登場しました。秋分・春分の日に三輪山山頂から太陽が昇るのを観測出来るのは多神社でした、そして、太陽は死の国である二上山に沈む。弥生時代に未だ奈良盆地が大和川の湖であった頃に岸辺の唐古・鍵遺跡や多神社のある田原本町あたり、北は何処まで岸辺であったか判らないが、稗田あたりだったのでしょうか。

 そして、『下つ道』がいつの日か人々の交流により出来上がった。稲作をする上で太陽の運行は一番気になる事であり豊穣を太陽に祈っつたのではないでしょうか。そして、三輪山信仰が発生した、太陽の昇る山だからです。

 『古事記』を書くという事は漢文を極めて高度なレベルで使いこなせるという事です。渡来系の人々ではなかったでしょうか。『日本書紀』については誰が執筆したかは、以前に記事を書きましたが、概略判っています、勿論、渡来系の人でした。稲作を持ち込んだ人々は何処から来たのでしょうね、瀬戸内海から難波津を通過し河内湖に入り大和川を遡上して大和川の奈良盆地の岸部に辿り着いたのか、それとも、奈良盆地の北の木津川から奈良坂を越えて奈良盆地に入植したのか、それとも熊野、吉野から葛城川を下って来たのか、謎ですね。

 私が気にしているのは、多氏(太氏)と崇神天皇の時代の大田田根子との関係です。大田田根子は河内の陶邑(すえむら)で発見されたといいますから、5世紀には巨大な須惠器の登り窯を築き、一大生産拠点が築かれる場所であり、朝鮮半島から渡来したハイテク集団です。

 それともう一つ、気になるのは田原本町には秦氏の拠点である秦庄が存在する事ですね、謎の秦氏が存在するのが気になります。

 グーグルアース 田原本町 秦庄

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 参考 『日本書紀』を書いたのは誰か

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