纏向遺跡の古代地形
纏向遺跡の古代の地形についてMuBlogで過去に掲載された地図をベースに桜井市立埋蔵文化財センターが発行している、『ヤマト王権はいかにして始まったか』~王権成立の地 纏向~という資料の『纏向遺跡の旧地形と墳墓・遺構の分布』地図を参考に概観してみましょう。
注:地図はMuBlog 卑弥呼の墓 纏向遺跡の宮殿跡より引用しています。
注:古墳時代初期の時代の川の復元や土器分布サークル、考古学上の地名の呼称は桜井市立埋蔵文化財センターの上記掲載資料から引用致しました。
(地形概観)
・先ず地図の一番下、箸墓古墳を含む北と南の纏向川で挟まれた土地は箸中微高地と呼ばれる。
・次に纏向東田大塚古墳を含む地図中央の北と南を川で挟まれた微高地を太田微高地と呼ばれている。比較的広い地形。
・更にその上の微高地は纏向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳を西側に東にクサビの形のように伸び今回の大型建物跡発見現場や他田天照御魂神社を含むひょろ長い地形を太田北微高地と呼ぶ。
・更にその上の珠城山古墳群を含む地域を巻野内微高地と呼ぶ。更にその北の小さな川で囲まれた微高地は草川微高地、その北の一番北を流れる川の北側も草川微高地と呼ばれている。
・一番外側の大きなサークルで囲まれた地域は布留式土器が発掘される範囲である。
・中央のサークルは庄内式土器が発掘される地域であり今回の大型建物発掘現場や他田天照御魂神社あたりがその中枢地域と考えられる。
・地図右上の珠城山古墳群地域の小さなサークルは布留式土器の中枢地域であると考えられる。という事は、3世紀初頭に庄内式土器が集中する太田北微高地即ち、今回の大型建物発掘現場あたりが中心でその後、珠城山古墳群の地域に中心が移動したと考えられる。
写真は桜井市立埋蔵文化財センターのものですが、今回の纏向遺跡の大型建物跡が発掘された太田北微高地の写真です。大型建物跡から西方面を望んだ写真であり、他田坐天照御魂神社から、勝山古墳、石塚古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳が遠望されます。
(縄文・弥生の時代の纏向)
桜井市立埋蔵文化財センターの資料によれば、縄文時代にこの地域には土石流が起こり荒れた地域でありとても人が住める地域ではなかったそうだ。弥生時代になっても箸墓古墳の南に位置する芝遺跡を中心とする母集落の人々が断片的に纏向地域に痕跡を残しただけだと述べています。
所が、古墳時代初期に突然に纏向地域に前方後円墳や農耕関連道具が一切出土しない都市と考えられる遺物ばかりが出土する場所ととなったそうだ。そういえば、弥生時代の遺跡群は唐古・鍵遺跡が有名です。
参考文献 奈良盆地の盆地湖
この資料は参考になりますね、大和川の上流の奈良盆地では当時湖が広がっており、唐古・鍵遺跡あたりが湖に面していた場所であり稲作が出来る場所だったのですね。稲作を伝えた人々は多分、河内湖から大和川を遡上し唐古・鍵遺跡のあたりや、その他の奈良盆地の湖のほとりに上陸し稲作を始めたと想定できます。
桜井市での弥生時代の母集落としては寺川南岸の坪井・大福遺跡と箸墓古墳の南部にある芝遺跡が有名です。
それでは、古墳時代が始まる頃の纏向遺跡の状況を桜井市立埋蔵文化財センターの資料館の展示物を参考に概観してゆきましょう。
参考写真集 桜井市立埋蔵文化財センター 常設展示物
説明は、次回に譲ります。
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