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出雲オウ王について 『出雲の古代史』(門脇禎二)より

20093nara_046  承前 纏向遺跡 大型建物跡と三輪山信仰

 掲記記事にて、秋分・春分の日の太陽が三輪山から昇るのを眺める最高の場所は、奈良盆地に於いて、多神社である事に触れました。そして、太陽が二上山に沈むルートに当たり、奈良盆地の中心位置となります。そこで、多氏とは古事記を編纂し、日本書紀の編纂にも関わった太安万侶が一族では有名である事に触れました。多氏は日本最古の皇別氏族(臣籍降下した氏族)であるという、神武天皇の息子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする氏族の伝承を持つと言う。多、太、大、意富、飯富、於富・・・とも漢字では書かれます。

 この多氏は崇神天皇の時代に記録された大物主を祭祀する人物として河内の陶邑から見つけ出されたという大田田根子も、名前からして、この氏族と関係がありそうで、纏向遺跡の巨大な祭祀都市と考えられる太田微高地、太田北微高地にもその名前が残っています。ひょっとすると大物主の名前のオオ(大)もこの氏族の祖先神である可能性が無いのかという疑惑が湧いてきます。多氏の御魂の主と大物主を解釈できるかも知れない。

 今回は触れないが、多神社の近くに秦庄が存在します、秦氏と三輪山の酒の神としての大神神社の関係についても何れそのうち研究したいと考えています。

 それでは、多氏と三輪山の神と関係があるとすれば必ず出雲との関係が存在する筈ですね。そこで、昔、門脇禎二氏が書かれた『出雲の古代史』からオウ王の出雲支配に触れたいと思います。

 (出雲のオウ王)

 古代出雲は西と東に別れて統治されていたと門脇氏は考えています。東を統治していたのが仁徳紀即位前紀条に書かれた出雲臣之祖、淤宇宿禰(オウスクネ)であり、西を支配していたのが崇神紀60年秋7月条に書かれた、出雲臣遠祖、出雲振根(イズモフルネ)であるという。そして、5世紀からオウ(宿禰)は出雲の国造であったという。

  この出雲の西部を支配していた振根(フルネ)は崇神天皇の時代に吉備津彦に殺され滅亡し吉備の支配下に組み込まれた。しかし、依然として出雲の東地域はオウ王の支配がその後も続いたというのだ。

20093nara_062  詳細は、『出雲の古代史』を読んで頂ければと思います。

あくまで、空想の世界になりますが出雲のオウと多氏と同じ氏族であったすれば、大物主、三輪山、多神社、多氏、出雲の淤宇(オウ)が全て繋がります。神武東征以前の奈良盆地には出雲系のオオ、オウ一族が稲作を始め国を治めていた可能性がでてきます。その中心は田原本町の多神社周辺や唐古・鍵遺跡だったかも知れない。

 そして、神武東征後の奈良盆地では多氏の祖は神武天皇の系列に組み込まれ祖先神が抹殺されてしまったのかも知れない。(神武東征があったとすればの話だが)

Photo  いずれにせよ、この発想は稲作を奈良盆地で行い、三輪山を聖なる神の山であると崇めるならば、必然的に田原本町の多神社が最適な場所となり、毎日、朝太陽が三輪山から昇り、夕方には二上山に沈む、豊な稔りを期待する人々からすれば、多神社の場所が重要となります。そして、この多氏が大物主や出雲のオウと繋がれば記紀で書かれた出雲神話や三輪山神話の謎に迫る事が出来る気もしますね。

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Comments

多氏ですが、佐太神社の祭神である佐太の大神が
多氏の起源ではないかという仮説が成り立たないか考えております。
佐太は、現代ではさだと読みますが、もともとは、佐の太=佐の多=さのおふと読めたのではありませんでしょうか。
現在の祭神はサルタヒコとされていて、事勝国勝長狭を意味します。籠神社の伝承によると、事勝国勝長狭はオホタタネコの祖先であると
いうことで、佐太大神から多氏までが繋がります。
佐太大神自体は、麻須羅神とカミムスビの娘の子とされており、どちらも謎が多い神です。
多氏は金属や鏡作りの氏族であることが知られているため、麻須羅神は天津麻羅のことでは?
と考えております。

Posted by: tanaka | 2010.05.12 02:57 AM

tanaka様 コメント有難うございます

 出雲の佐太神社と多氏との関係について研究されておられるようですね。残念ながら、私は未だ佐太神社を訪問した事が有りません、一度、行かないといけませんね。

 佐陀大社とも呼ばれているようですね。興味深い神社のようですね。佐陀と言えば、私の故郷の招堤村から長尾の方面に行くと確か佐陀という地名が残っていましたよ。

 枚方あたりから古代では百済寺があり佐陀の近くに王仁博士の伝、墓地があります。少し行けば、隼人庄もありますね。かぐや姫の伝承地です。(実在の姫さま)

 佐陀というと、古くから馬韓・弁韓の特に馬韓地域にあり大伴金村が失脚した加羅諸国の一つの国の名前だったと記憶しています。百済に割譲したと日本書紀には記録があると思います。

 さて、多氏ですが、唐子・鍵遺跡を歩くと出雲の香りもしますね、鏡神社の近くに、杵築神社もありましたね。思いだしました。

 また、研究が進まれた時に教えてください。

Posted by: jo | 2010.05.12 10:01 AM

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