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歴博放射性炭素14法と邪馬台国問題

参考 歴史民俗博物館 弥生時代の開始年代について

参考 弥生時代の実年代(歴博)

 弥生時代の始まりが今までの常識から500年も時代が遡るという結論ですね。従来北九州に稲作が始まったのは紀元前300年頃とされていたのが、紀元前800年という結果である。中国が戦国時代に稲作は日本に伝わったと考えられていたのが、殷(商)の滅亡から西周の成立の頃であった事になり従来の東アジアの中での日本を考え直す必要があるという。

 放射性炭素14法で測定した年代とは、簡単に言うと動植物が死滅した段階から遺物に含まれる放射性炭素14が崩壊を始める、その崩壊速度が一定である事から崩壊率から今から何年前に動植物が死滅したかが判る科学的な分析方法です。昔から存在した分析手法ですが、20年前頃から加速器で炭素14を直接測定する方法が確立し、1mg程度の資料でも測定可能という進歩があり考古遺物の年代測定に利用されるようになりました。

 しかし、問題は植物が空気中の二酸化炭素を光合成で固定する訳ですが、大気中の炭素14は一定ではないそうだ、放射線の影響や海中から放出される炭素により変動していた。従い世界中の国が協力して過去の空気中の炭素14をあらゆる方法を使い割り出し、正確な年代を割り出す基礎資料を蓄積し始めた。これが、較正年代曲線と呼ばれる補正グラフなんですね。

 較正年代を作成する一つの重要な資料は年輪年代法で時代が確定した木材試料から放射性炭素14を測定する方法です。奈良文化財研究所で地道に続けられた木材の年輪幅の歴史上の年代毎の変化資料は重要です。樹木は毎年同じ幅で年輪が刻まれる訳ではない、気候の影響を受けるからですね、これが少なくとも縄文時代から現在まで正確な年輪の変化を地道な努力で積み重なれて来た。

 この、年輪年代法で確定した木材試料の放射性炭素14を測定する事で較正曲線を確定してゆこうという地道な作業があります。それ以外にも、色んな方法で放射性炭素14法での年代測定の精度をあげようと努力がされている。DNA分析も昔に比較して随分と精度が向上したと言われますが、同じように科学の分野では急速な進歩が期待されるのです。

 一方、考古学の世界では伝統的な土器形式により年代を決めて行く方法があります。日本列島の各地では地道な土器形式の分類と年代資料を蓄積して来ました。土器が出土するとその土器が包含されていた地層は何なのか、関東ローム層では私が作業員として第10層までのピットを掘った経験があります。参考 浜田山遺跡 発掘(3)

 その地層は撹乱地層では無いか、慎重に土層を確認し出土遺物が埋まった年代を確定してゆきます。このプロセスで土器の年代を決めてゆけますし、新しい地層から出土する土器は古い地層から出土する土器よりは当然ながら新しいのですね、だから土器形態の相対時代年表が出来上がります。こんな、地道な努力の積み重ねで土器編年が60年以上の考古学の積み重ねで出来上がっているのです。

 従い、放射性炭素14法で年代が確定しても従来の考古学の成果である土器編年と矛盾を来すと、どちらが正しいかというと、現在は土器編年年代が正しいという事になります。

 さて、なかなか本論に入れないので失礼しました、前置が長くなりました。現在、歴博では放射性炭素14法により今まで積み上げられて来た考古学の成果である土器編年に絶対年代を付けて行こうとしています。そして、話題になっているのが北九州での弥生時代が従来の説よりも500年も時代が遡るという研究成果と今年の夏に発表された箸墓古墳が240年から260年に築造され、卑弥呼の死亡時期と合致するという仰天な発表でした。

 現在の考古学会では歴博のこのチームは袋叩きに遭遇してるように、素人の門外漢からは映りますね。もっと学会で議論をしてから世間に発表すべきであるという意見が殆どではないでしょうか。未だ、較正年代も未熟な資料しか無い状況での年代判断であるとか、測定そのものに対する批判とか沢山あります。久しぶりに、考古学会が湧きたつ思いで私は面白いと思っています。

 昔から、邪馬台国論争は九州説を唱える東大学派と近畿を唱える京大学派が激しい論争を続けてきた時代が懐かしいです。未だに決着がついていないのが現状でしょうね。邪馬台国という国は中国の歴史書に登場する国であり、日本の歴史書には登場しないこれまた不思議な話なんですね。しかし、プロの歴史学者も考古学者も一般庶民も邪馬台国と言うと何故か人気があり魅了される魔物であるようです。

 3世紀の初めの頃から、中国は3国に分かれ北方の魏は長江流域の呉と対立していました。又、呉との対立から朝鮮半島は公孫氏という勢力が存在し呉と魏に挟まれ微妙な政治情勢にあった。公孫氏が魏に滅ぼされた翌年に卑弥呼は魏に使者を出している、そして大歓迎を受け、破格の待遇を卑弥呼は受けているのです。

 魏はよほど、呉との対立から卑弥呼、邪馬台国連合は味方にする利益が存在したのでしょうね。裏を返せば、倭という国は魏からみてどう考えても呉の味方であるという常識が存在していたのかもしれない。そんな根拠もないが推測が生まれますね。鯨面分身の入れ墨をした海賊のような倭人はどう考えても北方の風俗では無い。長江流域から東シナ海にかけて船で移動する先祖を呉・越とする民族であると考えていたと思う。

 所が、卑弥呼の邪馬台国は魏の味方をするという、戦略的に重要だったのでしょう。しかし、倭国には呉と連携する勢力も確実に存在していた筈であります。卑弥呼が狗奴国と戦争をする訳ですが魏から使節が来る程ですから大変な国内戦だったのでしょうね。狗奴国の背景には呉が存在していたのかも判らない。

 私はこの戦争は崇神天皇時代のヤマトトトビモモソヒメが戦争を予想した武埴安・吾田媛との戦争だと考えています。この内戦は凄まじい古代最大の戦争だったと理解しています。武埴安は出雲・日本海・琵琶湖・淀川を経済圏とする人物、吾田媛は有明海から薩摩半島・日向を経済基盤とする女戦士です。北九州・瀬戸内海・吉備・河内・播磨・東海を抑えていた邪馬台国連合と天下二分の戦いだったと想像しています。

 テーマ外れましたが、歴博が今後丁寧に日本各地の弥生遺物を調査し炭素14法で各地の稲作の始まりの時期を提案して貰うのは、必ずこの未解決の邪馬台国問題や日本列島の正確な歴史が判ってくると思います。そのプロセスで大いに議論をして欲しい。

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