葛城 一言主神社(ひとことぬしじんじゃ) その1
4世紀末、応神天皇の時代に朝鮮半島で大活躍をした武将であり葛城氏の祖とされる人物が登場する。それが、葛城襲津彦であり、朝鮮半島より弓月君一族(秦氏の祖と考えられる)を移住させる。洛東江流域の鉄資源の確保に大活躍する人物であり、娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后となる。名前から襲(日向から鹿児島にかけての地域)の港の男と呼ばれていたので、海人族であると思われる。
5世紀の河内王朝時代には葛城氏は大きな権力を吉備氏とともに持つが、雄略天皇の時代に円大臣・眉輪王・韓媛ともに一族は滅亡させられてしまいます。同時に、吉備氏も滅ぼされた。この時に、葛城を拠点としていた賀茂氏、秦氏、蘇我氏、等々の渡来系の氏族は四散した。秦氏・賀茂氏は山背(現在の京都)に移動したと考えられる。
(土蜘蛛伝説)
小松和彦さんの『京都聖地案内』を読んでいると、葛城の土蜘蛛が出てきます。紀、神武天皇即位前記には『高尾張邑(たかをはりのむら)に、土蜘蛛あり。其の人となりは、身長が低く、手足が長い。侏儒(しゅじゅ)と相類(あいに)たり。皇軍(みいくさ)、葛の網を結(す)きて、襲いて殺した。因(よ)りて、改めて其の邑を名づけて葛城と曰ふ』とあります。
神武さんがヤマトに侵入した時に葛城に住む先住民が激しく戦った記憶です。小松さんの考えでは、奈良盆地の東側に「倭国」が存在し、西南の葛城山麓には「葛城国」が存在していたのではないかと述べる。「倭国」との間で婚姻関係を結び並立していたが、そのうち「倭国」が力をつけ従属関係になったのではないかと推測する。
後の世に能では『土蜘蛛』という作品が生まれました、場所は京都ですが源頼光が原因不明の病で寝込んでいると夜中に、大柄な法師姿の者が現れたので切りつけるとその者は逃げて行き北野の大きな塚に至った。塚を崩すと大きな山蜘蛛が出てきたという。その蜘蛛は葛城で修行をしたという。
朝廷に反抗する者として葛城は描かれているのですね。今も葛城の一言主神社境内には蜘蛛塚が存在しています。
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