« 自由が丘Bar『八甲田』 52年間の灯が消える | Main | 『坂の上の雲』 第四回 日清開戦 »

纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(2) 纏向石塚古墳

20093nara_069   纏向石塚古墳に関して実際に発掘した研究者がどう考えているか『大和・纏向遺跡』から拾ってみます。

 この古墳は戦時中に砲台となった歴史があり今は墳丘も削られ、前方部は殆ど跡形もありません。発掘調査により幅20メータの周濠や前方部も確認されました。

 この古墳は箸墓より古いと想定されており祭祀の中心場所として昔から注目されていた。

 古墳の位置も注目されています、今回の大型建物跡が発掘された同じ太田北微高地の西方向延長上にあり大型建物群の中軸線を西に延ばすと、他田坐天照御魂神社を通過しこの石塚古墳を通過します。

200911kyoto_004  この古墳は纏向では非常に重要な古墳と考えられ、第一次、第二次調査は石野氏、関川氏が中心で発掘され、第三次、四次は寺沢氏が発掘された。

 未だに両氏の意見は異なっています、石野氏は築造時期は纏向1式と考え、寺沢氏は纏向3式(庄内3式)という考えです。

いずれにせよ、箸墓よりは古い時代であり前方後円墳発生の謎を秘めた重要な古墳なのですね。

 今回、現場を訪れたのは二回目です、私の結論を最初に述べますが、この纏向石塚古墳は古い弥生時代の遺跡の上に建造され、傍に方形周溝墓もあります、そして祭祀の関連遺物が集中的に存在し、弥生時代から此処で祭祀が行われた聖なる場所であったと考えます。一般農耕民は遥か低地の唐古・鍵地域や田原本町や葛城川の下流の大和川が形成していた湖に面した場所に住んでいたと思います。

 そして、従来の銅鐸祭祀を捨てた、新しい宗教を持った人々が此処に前方後円墳を建造し新しい祭祀が始まった。後ほど触れますが、弧文円板とか鶏形木の板とかを使用する吉備にルーツを持つ人々が此処に祭祀センターを建造したのだ。そして、此処から東に川で挟まれた狭い中洲のような太田北微高地に次第に祭祀センターを建造し、宮殿を建造し今回発掘された大型建物まで延長し山に向かって登り始めた。

 日本書紀で言う崇神天皇、ヤマトトトビモモソヒメの時代の宮殿が今回発掘された大型建物群の場所ではないだろうか。崇神天皇の宮と伝えられる瑞垣の宮とはまさに、川に囲まれた今回の大型建物跡と条件が合いますね。

 そして、時代は移りこの石塚古墳から大型建物群の軸線を東に延ばすと、崇神天皇の次の天皇である垂仁天皇の珠城宮跡や少し、南にぶれるがその次の天皇である景行天皇の日代宮跡が位置しています。聖なる場所は石塚古墳を出発点として東に正確に軸線をブラさずに伸びて成長して行ったと感じました。これが崇神王権(王朝)とか三輪王権(王朝)とか呼ばれる従来の出雲が支配していた奈良盆地を制圧した王権だと推測します。 

 そして、補足すれば今回発掘の大型建物群の真南には箸墓古墳が存在しています。崇神天皇の墓と考えるのが飛鳥、奈良時代の感覚ですが、実は三輪王権時代は巫女さんが頂点に存在し王は巫女さんの下で実務を行う行政官であったと考えると、箸墓は崇神さんではなく日本書紀に書かれたヤマトトトビモモソヒメ即ち、卑弥呼となります。是は日本書紀と整合する事になりますね。さて、石塚古墳の話でした。

 (弧文円板、鶏形の木の板)

 石塚古墳の周濠からは重要な弧文円板が出土しました。近くには白木の柱が数本出土したという。200911kyoto_194

 弧文円板は石塚古墳以外でも二三か所から出土しています。専門的には宇佐晋一氏、斎藤和夫氏が纏向報告書で書かれているそうだ。

 これは、吉備に源流がある祭祀に用いられる聖なる文様であるらしい。これは全体で丸い形をして柱の上に飾れていたそうだ。

 辟邪の文様なんでしょうね。鳥は祭祀ように頻繁に用いられるのが常です。

(追加補足 組帯文、弧文の系譜について)

1.        『大和・纏向遺跡 増補新版』60頁には組帯文の系譜(豊岡卓之氏論文)が掲載され弧文は吉備がルーツでは無く唐古・鍵遺跡であり、大和と吉備、両方で育ったと述べる。

2.        唐古・鍵遺跡で発掘された弥生中期の高杯に特殊な文様が刻まれており、そのあと色んな遺跡の文様に発展して行く。石塚古墳から出土した弧文円板は唐古以来の伝統の文様と捉えられる。

3.        岡山の地域では、楯築古墳から出ている亀石という、唐古で生まれた文様を祖型とした特殊な文様を刻んだ石があって、そこから様々な文様が発展し、器台に刻まれるようになった。

4.        埴輪の祖型と考えられる特殊器台、墓専用具は明らかに岡山の弥生時代からの発展であり岡山発であるが、そこに刻まれた文様は近畿地方の弥生文化から生まれたものである。

5.        古墳時代の初期古墳と位置づけられる箸墓古墳、西殿塚古墳、等に採用されている事は初期ヤマト政権は大和と吉備との連携によって生まれた事を示している。

6.        雄略天皇の時代に岡山出身の星川皇子が天皇位を取ろうとして起こした反乱は、元々が大和と俺達は対等の立場で政権を樹立したものであり、吉備に政権を戻そうとしたのが背景ではないか。大王位を取ろうとした反乱は星川皇子の時だけである。 

|

« 自由が丘Bar『八甲田』 52年間の灯が消える | Main | 『坂の上の雲』 第四回 日清開戦 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 自由が丘Bar『八甲田』 52年間の灯が消える | Main | 『坂の上の雲』 第四回 日清開戦 »