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纏向遺跡 大型建物跡と三輪山信仰

 承前 MuBlog 纏向宮殿紀行(3)纏向遺跡第166次調査現地

 承前 JoBlog纏向遺跡 大型建物跡の解釈

 纏向遺跡紀行に同行したMu(浅茅原の旦那)さんが上記記事を書かれています。私も関連して今回の太田北微高地の纏向遺跡第166次調査地と三輪山その他関連遺跡との関係について考えてみます。

Photo_2   (三輪山祭祀 三角形論)

 これは有名な仮説ですが、カメラマンの小川光三氏が長年奈良盆地で写真を撮り続け辿り着いた貴重な論に三輪山巨大三角形論というのがあります。

 考古学者の石野博信氏が『三輪山と日本古代史』で小川氏の論を紹介されています。

 秋分・春分の日に太陽が三輪山山頂から昇る位置は奈良盆地では多神社から眺めるのがベストである。そして、太陽は二上山に沈むという事実であり、考古学者の石野氏も1980年9月23日朝6時に多神社から見事な三輪山山頂に昇る太陽を撮影されている。流石に考古学者、裏をとられていますね。(笑)

 私も来年の3月21日の春分の日にMuBlogの旦那をけしかけて、豪華昼飯で誘いたい所ですが残念ながら、その日は信州は白馬村でラジコン飛行機を飛ばす予定なので、秋分の日にお誘い申し上げたいと考えています。ともあれ、多神社とは『古事記』を編纂した太安万侶の子孫の多氏一族の神社であります。

 ところで、今回の纏向遺跡の大型建物跡発掘現場は太田北微高地ですが、この太田という土地の名前は多氏と何らかの関係があるんでしょうかね、気になります。

 さて、この多神社と三輪山山頂の線から30度北に傾けると冬至の日の太陽が三輪山から昇る線が生まれます。

Photo_4  冬至の日に三輪山から太陽が昇るラインを示しました。三輪山から纏向遺跡の今回大型建物跡が発掘された太田北微高地を経由し石見の鏡作神社に達しています。

 鏡作神社(石見)、鏡作麻気神社、鏡作神社(八尾)、鏡作伊多神社と4社の鏡神社が密集する場所です。

 このラインは春分・秋分の日に太陽が三輪山山頂から昇る多神社のラインから北30度振ったラインですね。そして、鏡作神社近くは奈良盆地では最大の弥生遺跡、唐古・鍵遺跡が存在しています。

 環濠を巡らし、楼閣が描かれた土器が出土しその絵を参考に現在は楼閣が復元されています。彼らは弥生時代から三輪山を崇め太陽が一番弱まった冬至に無事に三輪山から昇る事を確かめて安堵していたのだろうか。そして、その三輪山との聖なるライン上に纏向遺跡の大型建物跡が存在する。これは、偶然ではないでしょうね。

 考古学では既に確認されている事実ですが、纏向遺跡の大型建物跡の軸線の西方向への延長線上に纏向石塚古墳が存在します。この古墳は箸墓より古いと考えられていますがこの前方後円墳の前方部(殆どが失われているが)が三輪山を向いている事が有名です。従い、この古墳では三輪山祭祀がなされていたのではないかと随分と昔から語られていましたね。

 最後になりますが、三輪山・多神社ラインを南に30度振ると夏至の太陽が三輪山から昇るのを見る事が出来ます。畝傍山の神武天皇陵がこのラインに乗ると言われています。

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Comments

やれやれ
 温存している記事種を全部、実もならないうちにまかれるから、はらはらどきどきです。
 この間、小川光三さんの最近の図書を手にしましたが、お金がたりなくて諦めました(笑)。

 さて。いろいろな世界で、聖線が語られます。このことは昔からものすごく気にしていました。
 今もです。
 しかし落とし穴にも気付いています。
 なんかかんか線をひくと、なんかかんかがその線上にあるという事実ですね。

 (たとえば現代の京都御所から、橿原神宮に直線を引くとします。ものすごく大量の、それとなく意味を持つような寺社仏閣古墳もろもろがその線下に潜んでいます)

 人間が渡り鳥みたいに生体GPSを持っていたなら、緯度経度、方位をきっちり感じて行動するでしょうが、それは空想的にすぎます。

 だから、設問を変えて今、次のように考えているのです。
 現代のような地図もない、磁石もない、PCもない時代に、人々はどうやって遠隔地との関係をとりもって、聖跡を残していったのか? という設問ですね。

 唯一、太陽の運行、☆の運行が考えられます(当たり前すぎます)。Joさんはストーンヘンジまで行った方だから、なにか新発見があれば、後日ご教授願います。
(話がマヤ、アステカの暦にまで飛んでしまいそうで、しんどい話ですな)

Posted by: Mu | 2009.12.13 11:42 AM

Muの旦那はん

 京都御所の朱雀大路の聖なるラインの話ですね。有名なのは藤原宮の聖なるラインですよね、天武・持統さんの陵墓とか、日本版王家の谷という仮説ですね。

 小川光三氏の鏡作神社、神武天皇陵、三輪山の正三角形の話も有名ですよね。弥生時代に大和川が未だ奈良盆地で湖だった頃、湖の傍の唐古・鍵遺跡のあたりで稲作が始まったのでしょうね。

 そして、毎日、太陽が三輪山から昇り、二上山や葛城の山に沈むのを眺めていたんでしょうね。

Posted by: jo | 2009.12.13 01:18 PM

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