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纏向遺跡の遺物について

200911kyoto_013 承前 纏向遺跡の古代地形

 纏向遺跡は縄文時代に土石流が起こり弥生時代にかけて人々が暮らせたり、稲作が出来る環境では無かった事を前回の記事で御紹介しました。

 突然に古墳時代が始まる頃にこの纏向地域に人々が集結したようです。しかも農耕の為ではなく都市と考えられる町(邑)を作る為であったようです。

 最盛期の布留0式期の頃(3世紀後半)の頃は2.7km₂に及び唐古・鍵遺跡の7倍、国内古墳時代遺跡では群を抜いた規模でありました。日本列島各地の土器が出土し、東は関東から九州、韓国の土器まで出土する巨大な都市が出現したのです。

 その理由は、出土遺物で鍬の出土割合が5%しか出土せず、95%が鋤という土木工事、現在のスコップの使われ方をする道具が出土するからです。

 写真はビニールシートで覆われた第166次纏向遺跡発掘現場の写真です。大型建物跡が発見された場所であります。前回、御説明したように纏向地域は沢山の川が東より西に向かい流れていました、その川に挟まれた微高地に遺跡が残っています。

 庄内0式土器編年期(3世紀初頭)から布留1式土器編年(4世紀初頭)までの期間と考えられています。(注:今年の夏に発表された歴博の放射性炭素14法の結果では少し、時代が数十年古くなるかも知れません、学会で議論中です)

 (二重口縁壺 土師器)

二重口縁壺 桜井茶臼山古墳出土この壺は桜井茶臼山古墳から出土した遺物ですが、同じ形式の壺が箸墓古墳の前方部より底に孔をうがったものが出土しています。現在は桜井茶臼山古墳の築造年代は箸墓の時代より新しいとされているが、祭祀の形態は継承していると考えていいと思います。

 (弧文円板と弧文板と吉備との関係)

 弧文円板 纏向石塚古墳出土遺物写真は弧文円板の写真ですが、石塚古墳から出土したものです。纏向遺跡からは弧文円板、弧文板、弧文石、特殊埴輪が出土し特殊な文様がほどこされています。写真の遺物は古墳のまわりの柱の上に取り付けられていた威儀具のひとつとされています。

 この弧文という曲線を多用した文様はヤマトには存在せず、吉備地方から持ち込まれたと考えられます。吉備地域の特殊器台や弧帯石の系譜を引くものと考えられています。
200911kyoto_192 木製仮面です、長さ26センチ幅21.5センチであり人間の顔を覆いかぶせる事が可能です。
 アカガシ亜属製の広鍬を転用して制作されたようです。
 口は柄穴をそのまま利用し、加工したものです。眉毛あたりには僅かに赤色顔料が残存していたようで、庄内1式期頃(3世紀前半)と考えられます。
 
 その他、纏向遺跡関係の出土遺物に関しては、マイフォトを参照ください。
 200911kyoto_018
 (他田坐天照御魂神社)
 今回の太田北微高地で発掘された大型建物と春に発掘された建物群の中心線は反時計まわり5度傾きながら真っ直ぐに東西方向に伸びてており、その線上に他田坐天照御魂神社や纏向石塚古墳、そしてそれを取り囲むように勝山古墳、矢塚古墳が存在しています。
 そして、真南には箸墓古墳が鎮座しています。後の時代、飛鳥時代には藤原京の朱雀大路を延長し南下すると天武・持統陵や王墓の谷が存在する岸俊男先生の仮説を思い出しました。
 アマテラスという太陽を神と崇める神は五穀豊穣を願い祭祀を行った、その場所は夏至や冬至という農耕にとり重要な時に太陽が神が坐す神聖な山から昇らなければ祭祀にならないと考えるようになりました。京都は太秦で観た木嶋坐天照御魂神社での日枝山(比叡山)、伏見稲荷山と纏向での三輪山、巻向山、何か精神の関係が連続しているように思えます。
 
 

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