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2009年もさようならです

200912nara_331  12月30日は恒例のワンゲルの同期忘年会。場所は何時ものお初天神前の『八幸』でのとらふぐ尽くし。

 未だ現役で社長をやっているのが二人もいます。不況で会社は大変だそうです、来年はどうなるんでしょうね。

 来年は創部50周年記念だそうです、色々とイベントが企画されています。

 来年も元気であえる事を期待しています。

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纏向遺跡 ホケノ山古墳埋葬施設の復元

20093nara_052  箸墓古墳の東、三輪山尾根筋方向の小高い尾根に箸墓古墳よりも古いと考えられる『ホケノ山古墳』が存在します。3世紀前半から中頃とみられています。昨日、調査報告がなされた『堂ノ後古墳』が接している前方後円墳です。この古墳の大きな謎として列島では珍しい埋葬方法が調査により判明した事です。積石木槨墓という中国に起源を持ち朝鮮半島に伝播した埋葬方法です。

 『初期古墳と大和の考古学』石野博信(学生社)の中で実際に発掘をされた萩原儀征氏の論文『ホケノ山古墳埋葬施設の復元』から彼がどう考えたのかメモを残します。興味のある方は是非、本を読んで下さい。

 ・この古墳出土と考えられる画紋帯神獣鏡、内行花紋鏡の銅鏡は樋口清之氏の収集として国学院大学に保管されている。1983年~1993年にかけて範囲調査が行われ庄内~布留式期初頭の築造と推定された。

 ・後円部墳頂に竪穴式石積墓室が見つかった。長さ7メータ幅2.7メータの巨大な石積墓室である。その中に長さ5メータの高野槇製の割竹形木棺の主体部と葺き石を巡らした三段築成の墳丘である。画紋帯神獣鏡、銅鏃、鉄鏃、素環頭太刀、底部穿孔の壺等々が出土した。

 (積石木槨の建造方法)

 ・先ず、墳頂に南北軸線に沿い南北7メータ東西2.7メータという大きな範囲でピットを作る按配で土を掘る。そして、穴の底に石を並べる。そして、穴の中にログハウスの様な木の壁で囲まれた空間を作る。その為に四隅に杭を打ちその外側に角材を積み上げて行く。充分な強度を得るために南北中心地点にも杭を打つ。

 ・このログハウスはコウヤマキで出来た木棺を納める空間とその上に祭祀の為の空間、即ち壺などを納める空間の二階建てとする。その為に2階の床を支える根固された柱も建てる。木棺を直接床の礫石に触れさせないように枕木のような桟木を据え、その上に巨大な5メータもある木棺を安置する。

 ・祭祀空間の天井にも木の板を渡し完全に木棺の空間と祭祀の空間をきの板で塞いでしまう。その上に、石積みを行い方形の基檀を建造する。棟持柱の間に棟木を渡し、方形基檀とその下の聖なる石積木槨墓を雨梅雨から守る為に屋根を作る。

 ・木棺はログハウスの木の壁とその外を石積みで囲まれ二重に聖なる空間を維持できるように考えられた構造である。軸線が南北を向いており、葬送儀礼が行われたと想定される棺上の祭祀空間の存在と遺物によりこの墓は神仙思想の影響を強く受けた埋葬施設であると結論出来る。

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明日から急ですが、京都に帰省します

Ebisu3

昨夜は久しぶりに京都に住む姉の息子と娘に再会した。場所は恵比寿でした。

この二人は私の実家で赤ちゃんの時から幼少の頃にかけて大事にされました。私の父は

初孫の女の子として大事に可愛がっていましたね。今やもう歳も遥かにアラフォーは過ぎたようです。(笑)ボクチンの方は母が可愛がり、公家さんのような容貌でしたから、自慢していました。(笑)

 高校2年生の娘を連れての宴会でしたが、娘さんは大事なので、写真はご法度です。

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纏向遺跡ニュース 『堂ノ後古墳』築造は5世紀末 

20093nara_057  桜井市教育委員会は12月21日纏向遺跡にある、箸墓古墳の東方に位置するホケノ山古墳に近接する古墳『堂ノ後古墳』の発掘調査報告を行った。

 (注)写真はホケノ山古墳後円部から箸墓古墳を観ているが、間にある小山が堂ノ後古墳であります。

 参考 堂ノ後古墳、実は5世紀後半 奈良・桜井市教委が発掘調査(共同通信)

 参考 築造は5世紀後半 桜井、堂ノ後古墳(奈良新聞)

 参考 「日本最古」の堂ノ後古墳 掘ってみたら5世紀後半(産経新聞)

 参考 「堂ノ後古墳」日本最古でなかった(毎日新聞)

  参考 『わかざくら』桜井市教育委員会発表

 この古墳に関しては、数日前に記事を書いています、天理大学の学生が2005年にレーダ探査にて前方部周濠がホケノ山古墳に削られており、箸墓より古いと考えられるホケノ山古墳よりも古い古墳ではないかと提言され当時話題になった。

 しかし、その後はそうではない事が桜井市教育委員会により確認されていました。従い、驚く発表ではありません。

 今回の発掘で前方部より円筒埴輪や須惠器が出土し、明らかに5世紀後半と認められました。

 箸墓古墳の東方の三輪山に近い尾根筋にあたり、重要な古墳ではあると思いますが殆ど今は円墳の姿しか形状は留めていません。ホケノ山古墳に近接しており、ホケノ山古墳が箸墓古墳よりは古い時代の前方後円墳である事が判っています。しかし、6世紀の頃でしょうかホケノ山古墳の後円部には横穴式石室が設けられたいう不思議な歴史を持った古墳です。何と3世紀から少なくとも6世紀の長きに渡りホケノ山古墳は祭祀された訳です。

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(1) ホケノ山古墳周囲

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出雲オウ王について 『出雲の古代史』(門脇禎二)より

20093nara_046  承前 纏向遺跡 大型建物跡と三輪山信仰

 掲記記事にて、秋分・春分の日の太陽が三輪山から昇るのを眺める最高の場所は、奈良盆地に於いて、多神社である事に触れました。そして、太陽が二上山に沈むルートに当たり、奈良盆地の中心位置となります。そこで、多氏とは古事記を編纂し、日本書紀の編纂にも関わった太安万侶が一族では有名である事に触れました。多氏は日本最古の皇別氏族(臣籍降下した氏族)であるという、神武天皇の息子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする氏族の伝承を持つと言う。多、太、大、意富、飯富、於富・・・とも漢字では書かれます。

 この多氏は崇神天皇の時代に記録された大物主を祭祀する人物として河内の陶邑から見つけ出されたという大田田根子も、名前からして、この氏族と関係がありそうで、纏向遺跡の巨大な祭祀都市と考えられる太田微高地、太田北微高地にもその名前が残っています。ひょっとすると大物主の名前のオオ(大)もこの氏族の祖先神である可能性が無いのかという疑惑が湧いてきます。多氏の御魂の主と大物主を解釈できるかも知れない。

 今回は触れないが、多神社の近くに秦庄が存在します、秦氏と三輪山の酒の神としての大神神社の関係についても何れそのうち研究したいと考えています。

 それでは、多氏と三輪山の神と関係があるとすれば必ず出雲との関係が存在する筈ですね。そこで、昔、門脇禎二氏が書かれた『出雲の古代史』からオウ王の出雲支配に触れたいと思います。

 (出雲のオウ王)

 古代出雲は西と東に別れて統治されていたと門脇氏は考えています。東を統治していたのが仁徳紀即位前紀条に書かれた出雲臣之祖、淤宇宿禰(オウスクネ)であり、西を支配していたのが崇神紀60年秋7月条に書かれた、出雲臣遠祖、出雲振根(イズモフルネ)であるという。そして、5世紀からオウ(宿禰)は出雲の国造であったという。

  この出雲の西部を支配していた振根(フルネ)は崇神天皇の時代に吉備津彦に殺され滅亡し吉備の支配下に組み込まれた。しかし、依然として出雲の東地域はオウ王の支配がその後も続いたというのだ。

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夜の顧問会議(2009/12/21) in『魚喰呑人樂』

200911hakoda_017  何時もの「夜の顧問会議」のメンバーです。怪しい名前が気に入ってこのまま来年も続きそうです。

 このメンバーは今年の夏頃まである会社の顧問をしていたメンバーの集まりです。会社は離れましたが、おもろいメンバーなので、時折ゴルフや宴会を開催して集まりを続ける事になりました。

 宴会は何時もの新橋のお店です、テーブルに七輪を載せ新鮮な魚を焼いて食べます。昨夜は、江戸湾の海ホタル近くで獲れたアナゴが美味でしたね。

 承前 顧問OB会 

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纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(3) 年輪年代法による纏向

  承前 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(2) 纏向石塚古墳

今年の夏に、歴博の春成氏グループによる放射線炭素14法での箸墓古墳や纏向遺跡の遺物の年代測定結果が発表され、センセーショナルな結果が出た事は最新の出来事です。纏向遺跡では、年代測定に関しては過去に、年輪年代法による調査もなされています。

 (纏向石塚古墳の年代)

20093nara_068  1989年の第四次発掘調査により、周濠より出土したヒノキの板材(長さ約30センチ、幅約60センチ、厚さ約2センチ前後)を選定し年輪年代法により調査が行われた。ヒノキの暦年標準パターンと照合し、板材は177年と確定した。そこで、使用された原木の表皮までの距離(辺材幅)を平均の1センチとすれば、この試料の残存辺材部に刻まれていた年輪総数は36層と推定され、平均年輪幅は0.58ミリ、この年輪幅でもって最終形成年輪まで推移したとすると、18年輪が形成されていた事になる。

 従い、削除された18年輪を足すと伐採年は西暦195年となる。この結果は年輪年代を基にあとは推算した数値をあてはめただけであるから、正確性には欠けるしかし、西暦200年を境にして狭い年代幅で伐採された事は確かだ。

 この前方後円墳の祖形となった重要な古墳の年代に関して、石野氏は纏向1式、寺沢氏は布留0式と土器編年に於いて、異なる意見が存在している。

 ちなみに、放射性炭素14法による調査で石塚古墳の周濠下層の木材・種実は1880¹⁴CBPであり3世紀前半という結論を今年の夏の考古学協会の発表論文『古墳出現の炭素14年代』で春成氏が報告されている。

 いずれにせよ、箸墓よりは古い古墳であり纏向遺跡群に於いて、前方後円墳の始まりを示すメルクマールとなる古墳であるこに変わりはない。

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『坂の上の雲』 第四回 日清開戦

 承前 『坂の上の雲』 第三回 国家鳴動

  参考 威海衛

  参考 戦艦『定遠』

Photo  日清戦争が始まりました、列強が虎視眈々と眠れる大国である清国を狙っていた時代です。明治維新を成し遂げ、近代国家を目指していた明治日本は大国である清国と戦争をする実力は無かった筈です。清国の北洋艦隊は当時の日本の海軍力と比べれば比較にならない程の近代化した戦艦を持ち、巡洋艦を持つ優位な立場だったと思います。

 主人公の秋山真之が乗船していた『筑紫』は老朽艦船ですから鴨緑江河口海戦(黄海海戦)には呼ばれなかった。当時の清国の北洋艦隊司令長官は名将、丁如昌が率いていた。黄海会戦では清国では旗艦である『定遠(7300トン戦艦)』に丁如昌が乗り、同じく戦艦『鎮遠(7300トン)』、以下巡洋艦『東遠(3000トン)』、巡洋艦『経遠(3000トン)』以下8隻の巡洋艦を備えていた。

 日本の連合艦隊は殆どが巡洋艦クラスであり旗艦『松島(4200トン)』に本隊旗艦として伊東佑亨が指揮を取り、『千代田』、『厳島』、『橋立』、『比叡』、『西京丸』、『赤城』、『扶桑』の陣立て、遊撃隊旗艦は『吉野』に坪井航三が司令官として乗船、以下、『高千穂』、『秋津洲』、『浪速』と足の速い船を使用した。

 この海戦は清国側は戦艦二隻を持ち、巡洋艦を従える重火器中心の装備であるが、日本の連合艦隊は巡洋艦だけだが、速射砲を多数構え足の速い船中心の戦争でした。陸上戦で表現するなら、清国側は戦艦二隻を中心に据え、両翼に一列に開く鶴翼の陣形で戦った。日本の連合艦隊は縦一列の隊列であるが、遊撃隊『吉野』を中心とする足の速い巡洋艦(騎馬隊に相当)と本隊である『松島』を中心とする隊列ですから、雁行の陣形と呼べるのではないでしょうか。

 遊撃隊が相手の陣形を崩し、本隊が縦一列で突入する戦い形でした。これは陸上戦では秦の始皇帝やハンニバルが得意とした戦法です。これを、海の上で行ったのです。戦闘場面を描かないのが司馬遼太郎です、戦争を描くために『坂の上の雲』を書いたのではない。当時の弱肉強食の列強の帝国主義に脅かされていた日本が、止む無く戦わねばならない過酷な歴史状況を悩み生きる若者と日本の姿を描こうとした訳です。

 黄海海戦(鴨緑江河口海戦)では連合艦隊の旗艦『松島』以下被弾し甚大なる損害を受けるが、沈没した船は無く、清国は5隻の巡洋艦を失うという大損害を与え決定的な打撃を与えた。列強諸国は日本の連合艦隊の統率力と操舵技術、そして速射砲による相手戦艦、巡洋艦の戦闘員を壊滅させる新しい時代の海上戦を提示したと言われている。

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纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(2) 纏向石塚古墳

20093nara_069   纏向石塚古墳に関して実際に発掘した研究者がどう考えているか『大和・纏向遺跡』から拾ってみます。

 この古墳は戦時中に砲台となった歴史があり今は墳丘も削られ、前方部は殆ど跡形もありません。発掘調査により幅20メータの周濠や前方部も確認されました。

 この古墳は箸墓より古いと想定されており祭祀の中心場所として昔から注目されていた。

 古墳の位置も注目されています、今回の大型建物跡が発掘された同じ太田北微高地の西方向延長上にあり大型建物群の中軸線を西に延ばすと、他田坐天照御魂神社を通過しこの石塚古墳を通過します。

200911kyoto_004  この古墳は纏向では非常に重要な古墳と考えられ、第一次、第二次調査は石野氏、関川氏が中心で発掘され、第三次、四次は寺沢氏が発掘された。

 未だに両氏の意見は異なっています、石野氏は築造時期は纏向1式と考え、寺沢氏は纏向3式(庄内3式)という考えです。

いずれにせよ、箸墓よりは古い時代であり前方後円墳発生の謎を秘めた重要な古墳なのですね。

 今回、現場を訪れたのは二回目です、私の結論を最初に述べますが、この纏向石塚古墳は古い弥生時代の遺跡の上に建造され、傍に方形周溝墓もあります、そして祭祀の関連遺物が集中的に存在し、弥生時代から此処で祭祀が行われた聖なる場所であったと考えます。一般農耕民は遥か低地の唐古・鍵地域や田原本町や葛城川の下流の大和川が形成していた湖に面した場所に住んでいたと思います。

 そして、従来の銅鐸祭祀を捨てた、新しい宗教を持った人々が此処に前方後円墳を建造し新しい祭祀が始まった。後ほど触れますが、弧文円板とか鶏形木の板とかを使用する吉備にルーツを持つ人々が此処に祭祀センターを建造したのだ。そして、此処から東に川で挟まれた狭い中洲のような太田北微高地に次第に祭祀センターを建造し、宮殿を建造し今回発掘された大型建物まで延長し山に向かって登り始めた。

 日本書紀で言う崇神天皇、ヤマトトトビモモソヒメの時代の宮殿が今回発掘された大型建物群の場所ではないだろうか。崇神天皇の宮と伝えられる瑞垣の宮とはまさに、川に囲まれた今回の大型建物跡と条件が合いますね。

 そして、時代は移りこの石塚古墳から大型建物群の軸線を東に延ばすと、崇神天皇の次の天皇である垂仁天皇の珠城宮跡や少し、南にぶれるがその次の天皇である景行天皇の日代宮跡が位置しています。聖なる場所は石塚古墳を出発点として東に正確に軸線をブラさずに伸びて成長して行ったと感じました。これが崇神王権(王朝)とか三輪王権(王朝)とか呼ばれる従来の出雲が支配していた奈良盆地を制圧した王権だと推測します。 

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自由が丘Bar『八甲田』 52年間の灯が消える

200911hakoda_006  自由が丘で52年間灯り続けたバー『八甲田』も遂に終わりを迎えた。

 昨夜は今までお世話になった御礼とお別れの会になりました。

 オーナーの清水青年氏は青森は八甲田の出身、18歳でこの自由が丘で『八甲田』の店を開いたそうだ。そして52年間もう70歳、昔のお客さんも段々と減り世代交代はせずに遂に閉じる事にしたという。

 清水さんは、気に入った客しか店に入れないので有名です、店の雰囲気を守ろうとしていたのです。

 ママは函館出身の天然ボケ芸風、未だに方言が抜けない何時までも少女のままの素晴らしい人でした。哲ちゃんによく説教して、人の道を教えていましたね。私と哲ちゃんがお世話になり始めたのは1986年からだと記憶しています、私が米国駐在から帰任した年からだと思います。それ以来23年間お世話になりました。

 当時、同じ会社ですが職場は関係ない部長さん、小野さんに連れて行かれたのが初めての出会いでした。当時、小野先輩は自由が丘の帝王と呼ばれていた人で夜のネオン街に精通した粋な人でした。酒場でのルールというのを教えて下さった恩人です。

関連ブログ 道産子哲 八甲田~♪

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纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(1)

 『大和・纏向遺跡』増補新版(学生社 石野博信)は500頁を越える大著なのと中身が学術資料である為に小説のようにスラスラとは読めない。辞典のように使用するのがいいでしょうね。所謂『纏向遺跡大典』ですね。今後、この資料を参考に興味を覚えた色んな事について記事を書いて行きたいと思います。

 (纏向遺跡の発掘調査地点図 橋本輝彦原図作成)

20093nara_058  今、纏向遺跡全貌が判る発掘調査の地図を眺めている。先ず一番南の箸墓古墳が存在する箸中微高地を眺めてみる。この箸中微高地の南は纏向川が東より西に流れている。北には同じく川が東から西に流れており、太田微高地と境界を形成している。今年の夏にホケノ山古墳に登った時に疑問があったのは三輪山から西方に延びる尾根が何故かホケノ山古墳の東側で切断され纏向川流れホケノ山古墳の南から箸墓古墳の南方を西に流れている。

 写真はホケノ山古墳から東方向の三輪山に続く尾根筋を観たところです。途中が切断され、巻向川が流れ民家が立ち並ぶ。

 誰かが昔に纏向川が箸中微高地と太田微高地の間を流れていた流路を強引に三輪山の尾根の先端を切断し南に流れるように変更したのではないかと感じた。従い、私がホケノ山古墳に立った時この古墳は、古墳の古い形態である丘尾切断形の古墳ではないかと感じた。そして、箸墓古墳そのものも実は平地に建造された古墳では無く、ホケノ山古墳から連続する三輪山の尾根の先端部に建造されたのではないかと疑問を持った。

 (ホケノ山古墳)

20093nara_063  ホケノ山古墳に接近して西側(箸墓古墳側)に堂ノ後古墳や北側には幾つかの古墳が点在する。堂ノ後古墳は2005年に天理大学の若者達がレーダー探査でホケノ山古墳の濠が堂ノ後古墳の濠を切断しているので、ホケノ山古墳よりも古い古墳ではないかと話題を投げかけたニュースがありました。その後、確認はしていないが、誤りであったと記憶しています。

 ホケノ山古墳の東北の箸中微高地先端の地域からは竪穴住居、池田1,2号墳や方形周溝墓が発掘されている。さて、このホケノ山古墳は重要な前方後円墳ではないだろうか。石野氏の説明を御紹介します。(写真は ホケノ山古墳から東北方向を眺めた風景です。)

20093nara_050  ・全長80メータの纏向型前方後円墳で、幅20メータ余の周濠があり、周濠外縁の上層堆積は纏向3式新である。

 ・墳丘は二段築成で、葺石は石垣風で垂直に近く、中山大塚と同じような葺き方をしている。そして、くびれ部には葺石を壊して作られた木棺墓20093nara_055 があり、添えられた土器は四国西部系の土器である。

 ・主体部の埋葬施設は竪穴式であるが、石囲い木槨と呼ばれる珍しい形式である。木棺があり、副葬品は画文帯神獣鏡1面、内行花文鏡片と銅鏃70点余、刀剣7点余、鉄鏃80点余、農耕具が出土。時期は庄内式中頃である。

 橋本氏の説明は

 ・現在80メータと言うことだが、前方部は旧巻向川に流されており短くなっているので、築造時はもっと長い古墳だった。周濠堆積物は布留0式である。

 橿考研による炭素14年代測定

 ・炭素14年代測定により築造は3世紀前半と発表。(これについては議論多し)

 

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纏向遺跡を学ぶ 『大和・纏向遺跡』より

200911akatonbo_057  本日の夕焼け富士の風景です。冬になると朝夕は美しい富士山を拝む事が出来ます。

 (大和・纏向遺跡より)

 承前 纏向遺跡のバイブル 『大和・纏向遺跡』

 纏向遺跡の汗と涙と感動の30年以上に渡る調査・発掘の歴史が感動的に詰め込まれています。必見のバイブルです。

全体の構成についてメモを残します。

 第一部 『都市』纏向と早期古墳

  第一章 纏向遺跡と邪馬台国(石野博信)

   1.回想・纏向遺跡の調査

   2.邪馬台国はここか

  第二章 変革期の纏向遺跡と早期古墳(石野博信)

   1.摂津・田能遺跡と弥生木棺墓

   2.近畿弥生社会の中の九州的要素

   3.纏向石塚古墳

   4.纏向遺跡の特色

   5.弥生時代の方形区画墓と墳丘墓

   6.長突円墳(前方後円墳)の出現

   7.纏向石塚・箸墓・特殊器台

 第三章 三世紀の『都市』纏向(石野博信)

   1.『都市』纏向の環境

   2.『都市』纏向の用途区分

   3.平屋と高屋のマチ、そして外来者

   4.都市のまつり

   5.大溝による水運

   6.低塚と高塚

   7.纏向遺跡と邪馬台国

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歴博放射性炭素14法と邪馬台国問題

参考 歴史民俗博物館 弥生時代の開始年代について

参考 弥生時代の実年代(歴博)

 弥生時代の始まりが今までの常識から500年も時代が遡るという結論ですね。従来北九州に稲作が始まったのは紀元前300年頃とされていたのが、紀元前800年という結果である。中国が戦国時代に稲作は日本に伝わったと考えられていたのが、殷(商)の滅亡から西周の成立の頃であった事になり従来の東アジアの中での日本を考え直す必要があるという。

 放射性炭素14法で測定した年代とは、簡単に言うと動植物が死滅した段階から遺物に含まれる放射性炭素14が崩壊を始める、その崩壊速度が一定である事から崩壊率から今から何年前に動植物が死滅したかが判る科学的な分析方法です。昔から存在した分析手法ですが、20年前頃から加速器で炭素14を直接測定する方法が確立し、1mg程度の資料でも測定可能という進歩があり考古遺物の年代測定に利用されるようになりました。

 しかし、問題は植物が空気中の二酸化炭素を光合成で固定する訳ですが、大気中の炭素14は一定ではないそうだ、放射線の影響や海中から放出される炭素により変動していた。従い世界中の国が協力して過去の空気中の炭素14をあらゆる方法を使い割り出し、正確な年代を割り出す基礎資料を蓄積し始めた。これが、較正年代曲線と呼ばれる補正グラフなんですね。

 較正年代を作成する一つの重要な資料は年輪年代法で時代が確定した木材試料から放射性炭素14を測定する方法です。奈良文化財研究所で地道に続けられた木材の年輪幅の歴史上の年代毎の変化資料は重要です。樹木は毎年同じ幅で年輪が刻まれる訳ではない、気候の影響を受けるからですね、これが少なくとも縄文時代から現在まで正確な年輪の変化を地道な努力で積み重なれて来た。

 この、年輪年代法で確定した木材試料の放射性炭素14を測定する事で較正曲線を確定してゆこうという地道な作業があります。それ以外にも、色んな方法で放射性炭素14法での年代測定の精度をあげようと努力がされている。DNA分析も昔に比較して随分と精度が向上したと言われますが、同じように科学の分野では急速な進歩が期待されるのです。

 一方、考古学の世界では伝統的な土器形式により年代を決めて行く方法があります。日本列島の各地では地道な土器形式の分類と年代資料を蓄積して来ました。土器が出土するとその土器が包含されていた地層は何なのか、関東ローム層では私が作業員として第10層までのピットを掘った経験があります。参考 浜田山遺跡 発掘(3)

 その地層は撹乱地層では無いか、慎重に土層を確認し出土遺物が埋まった年代を確定してゆきます。このプロセスで土器の年代を決めてゆけますし、新しい地層から出土する土器は古い地層から出土する土器よりは当然ながら新しいのですね、だから土器形態の相対時代年表が出来上がります。こんな、地道な努力の積み重ねで土器編年が60年以上の考古学の積み重ねで出来上がっているのです。

 従い、放射性炭素14法で年代が確定しても従来の考古学の成果である土器編年と矛盾を来すと、どちらが正しいかというと、現在は土器編年年代が正しいという事になります。

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太安万侶・稗田阿礼拠点集落

 承前 纏向遺跡 大型建物跡と三輪山信仰

 承前記事にて多神社と太安万侶の関係に触れました。『古事記』の筆者であり『日本書紀』の編者でもある太安万侶とはどんな人物であり、考古学的にも何処まで実在が確認できるのでしょうね。ついでに、稗田阿礼についても追いかけましょう。

Photo  グーグルアース 太安万侶火葬墳墓(墓誌銅板)

「Oonoyasumaro.kmz」をダウンロード

 1979年奈良市此瀬町の茶畑で火葬墳墓が見つかり銅板に太朝臣安万侶の文字が刻まれた墓誌が出土した。

 この辺りは平城京に仕えた官人たちの墓地域だそうです。

 墓誌に書かれた死亡年度は1日のずれがあるが『続日本紀』の記述と整合するので、実在が考古学的にも確認された。太安万侶の太氏は多氏とも漢字で書かれる事も多く、同じである。森浩一氏の『古代史おさらい帖』の「太安万侶とその墓」で記述された内容を参考に以下メモを残します。

 ・太安万侶の父は壬申の乱の時に大海人皇子の将軍として活躍した多臣品治(おおのおみ ほんじ)だそうだ。乱の終了後功績により朝臣を与えられる。

 ・奈良県田原本町の式内社の多神社はヤマトの国中(くんなか)で抜群の社格と経済力を持っていた。神社境内からは弥生土器、銅鏡、銅剣の破片など点々と出土し、弥生時代に拠点集落(母村)が存在したと考えられる。

 ・多神社の北西は田原本町となる前は多村矢部(おおむら やべ)と呼ばれ、水田の中に直径30メータの円墳『団栗(どんぐり)山古墳』が存在し1937年に龍文を配する環頭をつけた太刀や各種の馬具に混じり蛇行状鉄器が発掘された。

 ・蛇行状鉄器とは馬上の戦士が馬の尻に旗飾りを立てる為の鉄製品である。埼玉県行田市の酒巻14号墳出土の馬形埴輪の造形から判っている。6世紀後半の副葬品と考える。多の地に安万侶や父の品治(ほんじ)よりも数世代前に、既に朝鮮半島の乗馬具と共通した武具を持つ人物がいた事は多氏を考える上で参考になる。

 参考 行田市 酒巻14号墳出土埴輪

 参考 田原本町『団栗山古墳』

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纏向遺跡のバイブル『大和・纏向遺跡』

20093nara_056  纏向遺跡が話題を集めています、この遺跡を学ぶには石野博信氏の『大和・纏向遺跡』学生社を読まなければいけないようです。増補新版が2008年10月に出版されています。

 この数日間面白くて読んでいますが、遺跡の保護というのは最後は人間であるとつくづく感じています。あの、吉野ヶ里遺跡でも高島忠平氏がおられなかったら遺跡は守られなかった。日本各地で今まで執念の人が居て遺跡は守られたのではないだろうか。偉い学者が遺跡を守るのでは無い、地元の人やその遺跡を守りたいと執念を燃やす人が居なければ歴史から消されて行くのではないだろうか。

 石野氏のこの膨大な500ページを越える『大和・纏向遺跡』の本を読んでいて恐ろしい執念を感じました。シュリーマンの『トロイの遺跡』を彷彿とさせます。30年間も纏向遺跡を発掘するエネルギーは何処から来るのだろうか。日本国民にとり我々の国家の発祥の地は何処なのか、置き去りにされている。戦後の歴史・考古学会は記紀を神話のおとぎ話の如く扱い、日本建国神話もフィクションとして扱って来た歴史がある。

 纏向遺跡は弥生時代とは確実に一線を画す日本独自の前方後円墳が誕生し九州から関東にかけての幅広い地域の土器が出土する南北2キロで囲まれた大きな遺跡である。そして、巨大な神話に包まれた箸墓古墳が存在する。昼は人が造り、夜は神が造ったという、そして石を逢坂山から人々が列を作り手渡しで運んだという。ヤマトトビモモソヒメ造墓の記述である。

 古墳の発掘は成果が直ぐに出易い、しかし、南北2キロの広大な町・都・邑の発掘は容易ではない。石野氏の話では発掘当時は調査報告書を印刷する金もなく、同朋が内緒で寄付してくれた金で印刷出来たとか、無償で沢山の人々が発掘を助けてくれたそうです。

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『坂の上の雲』 第三回 国家鳴動

 承前 『坂の上の雲』 第二回 青雲

 日本は近代国家の体裁を整えて行く、明治22年『大日本帝国憲法』が発布された。法治国家の体裁を整え、陸海の軍備を拡大して行く。ドラマでは兄の好古は陸軍士官学校から陸軍大学校1期生を卒業しフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学する。弟の真之は海軍兵学校に進み首席で卒業し軍艦に乗り始める。子規は遂に喀血を行い故郷松山に静養に帰る。

 朝鮮半島を巡り宗主権を主張する清国と対立を深め危機的な状況が生まれ伊藤博文が苦悩を始める。陸軍参謀本部次長の薩摩の歴戦の雄、川上操六が登場する。彼は、鳥羽伏見の戦いから西南戦争の現場で戦ってきた戦士ですね。当時の首相の伊藤博文などは戦に於いて彼の眼中になかったでしょう。

 朝鮮半島出兵に於いて、一個旅団2千名の派兵を何とか取り付けるが、実際は数倍の規模の兵隊を派兵する。ここに、昭和の大戦に繋がる『暗部』が隠されています。川上操六は派兵だけを首相に決めさせれば後はなんとでもなる、天皇にお話しすれば良いと言います。これが、司馬さんが死ぬまで語っていた明治憲法の欠陥部分でした。

 天皇の『統帥権』であります。軍部暴走の法的根拠となる重要な憲法の欠陥部分でした。『坂の上の雲』で司馬さんが描きたかったのは、幕末から明治維新を起こした若者達の夢と希望です。松山の貧乏な三人の若者の成長の姿を借りて明治という時代の欧米列強の植民地支配から逃れる独り立ちするがむしゃらな活気ある『国のかたち』を描きたかったと理解しています。

 しかし、既に朝鮮半島派兵の時から、軍の『暗部』が存在していた事も見逃していません。

 参考 NHK『坂の上の雲』第三回 国家鳴動

 

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Webサライ

 今度、縁があり雑誌『サライ』のWeb版メデイアにご協力する事になりました。小学館とnifty社が協力して、『サライ』出版20周年を記念して立ち上げたメデイアだそうです。

 詳細は、友人の『ふろく』さんが書いておられるので、参考にして下さい。20年間シニア世代を対象として出版されてきたマガジンですね。私はサライ⑳ブロッガーの一人として登録されました。何をすればいいのか自分でもあまり判っていません。

 『サライ』公式サイト

 私は63歳ですから、雑誌の購読者層にあたります、又、ブログでも忙しく発信していますので、選ばれたようです。

 お暇な折は、『サライ』の方も覗いて下さい。

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纏向遺跡 大型建物跡と三輪山信仰

 承前 MuBlog 纏向宮殿紀行(3)纏向遺跡第166次調査現地

 承前 JoBlog纏向遺跡 大型建物跡の解釈

 纏向遺跡紀行に同行したMu(浅茅原の旦那)さんが上記記事を書かれています。私も関連して今回の太田北微高地の纏向遺跡第166次調査地と三輪山その他関連遺跡との関係について考えてみます。

Photo_2   (三輪山祭祀 三角形論)

 これは有名な仮説ですが、カメラマンの小川光三氏が長年奈良盆地で写真を撮り続け辿り着いた貴重な論に三輪山巨大三角形論というのがあります。

 考古学者の石野博信氏が『三輪山と日本古代史』で小川氏の論を紹介されています。

 秋分・春分の日に太陽が三輪山山頂から昇る位置は奈良盆地では多神社から眺めるのがベストである。そして、太陽は二上山に沈むという事実であり、考古学者の石野氏も1980年9月23日朝6時に多神社から見事な三輪山山頂に昇る太陽を撮影されている。流石に考古学者、裏をとられていますね。(笑)

 私も来年の3月21日の春分の日にMuBlogの旦那をけしかけて、豪華昼飯で誘いたい所ですが残念ながら、その日は信州は白馬村でラジコン飛行機を飛ばす予定なので、秋分の日にお誘い申し上げたいと考えています。ともあれ、多神社とは『古事記』を編纂した太安万侶の子孫の多氏一族の神社であります。

 ところで、今回の纏向遺跡の大型建物跡発掘現場は太田北微高地ですが、この太田という土地の名前は多氏と何らかの関係があるんでしょうかね、気になります。

 さて、この多神社と三輪山山頂の線から30度北に傾けると冬至の日の太陽が三輪山から昇る線が生まれます。

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オスロ野外民族博物館 ゴル・スターヴ(ステイブ)木造教会

20088misayo_055  2008年夏にノルウエーをのんびり旅をした事がありました。オスロ郊外にある野外民族博物館を訪問しましたが、その時に遭遇したノルウエー独自の木造教会には驚いた記憶があります。

 (ゴル・スターヴ教会)

 現地語表記ではGol Stavkirkeと書きます。オスロから北に200キロ程度離れたゴルという地方に残存していた木造教会を移築したものです。

 建造時期はバイキング時代が終焉し100年程度経過した12世紀から14世紀頃の木造教会ですね。

20088misayo_022  バイキング時代の土着の信仰の上にキリスト教が被さったノルウエー独自のキリスト教信仰の姿であります。

 何処か弥生時代から古墳時代の楼閣の雰囲気というか、東南アジアの古い建物に似ていませんか。何処か懐かしさと温かさを感じました。

 屋根の上にはバイキング時代の船の船首と船尾に備えられていた龍頭が聳えています。

 屋根は鱗のように板(こけら板)を重ねた構造です。彫刻にもバイキング時代の伝統文様と神々が彫られています。

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天皇陵を考える

 先日奈良県のブロッガーとしてネット上だけですが、お知り合いの、ほかもどりさん、お住まいの近くと思われるコナベ古墳である出来事がありました。

 参考 奈良新聞 コナベ古墳円筒埴輪列を確認

 参考 朝日新聞 コナベ古墳 調査を評価

 参考 産経ニュース コナベ古墳の調査状況を公開

 珍しく宮内庁書陵部は歴史・考古学者の代表を招いてコナベ古墳の調査状況を見学させたそうだ。事実関係は新聞報道に頼るしかないが、一歩前進と考えます。宮内庁が管轄する陵墓並びに陵墓参考地については、一般の国民及び歴史学者・考古学者の立ち入りが禁止されています。先祖の墓ですから、穢してはいけないという考えです。

 私も自分の先祖の墓を他人にとやかく言われたくありませんね、宮内庁の考えはもっともであります。しかも、神武天皇から数えると今上天皇は125代も綿綿と続く世界に類をみない王室であります。

 しかし、であります、現在宮内庁が決めている天皇陵及び陵墓参考地については考古学者や歴史学者からはその正統性について疑問がでています。例えばですが、私が生まれ育った北河内郡大字招堤村の隣の樟葉村で即位された継体天皇の陵墓であります。

 考古学を少しでも学んだ人間は継体天皇という言葉は正確ではなく、ヲホド王と呼ばなければなりませんが皆さんに判り易いように継体天皇と最近は言っています。(天皇の称号が決まったのは天武さん以降ですね)それは、さておき、現在、継体天皇の陵墓は太田茶臼山古墳に治定されていますが、学者の殆どは今城塚古墳であると決めています。

 又、最後に皇后となられた手白香皇女さんの墓が西殿塚古墳と治定されています。考古学者の殆どはこれを認めていません、考古遺物から時代が合わないと考えています。このような状況が何時までも連続する事はあまり宜しくないと思いますね。それと、宮内庁が陵墓及び陵墓参考地としてる領域は限られていて、最近は民家が押し寄せてきています、もっと広域に文化遺産という観点で守らないといけないと考えています。

 開かれた皇室は昭和天皇から始まり、現在の今上天皇に受け継がれています、是非とも陵墓及び陵墓参考地についても学会の専門家が調査に参画出来るような道を開いて貰いたいと思います。その最大の古墳は箸墓古墳であります。宮内庁はヤマトトビモモソヒメの墓として管理されているが、考古学上は一番調査が必要な古墳だと思います。

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お陰さまで累積110万アクセスになりました

 2004年4月にJoBlogを開設し早くも5年半が経過しました、何時も三日坊主のJo君でしたが、皆様のお陰で続ける事が出来ました御礼申し上げます。

 コンテンツ容量: 7449MB(近いうちに動画は全て削除します)

 記事数:2132件

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 累積アクセス数:1100206件

 一日当たり平均:539件

 (最近1か月のアクセス)

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 1.トップページ 2120 2.卑弥呼の宮殿発見か 173 

 3.纏向遺跡 大型建物跡発掘速報(続編) 143

 4.桜井茶臼山古墳と纏向遺跡紀行 目次編 97

 5.纏向遺跡 大型建物跡発掘速報(続々編) 94

 6.桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行(3) 箸墓古墳 92

 7.箸墓古墳は卑弥呼の墓 学術論文より   92

 8.桜井・茶臼山古墳とマキムク遺跡紀行: トップページ 81

 9.高句麗(コグリョ) 文明            78

10.『継体天皇の時代 徹底討論 今城塚古墳』 高槻市教育委員会 吉川弘文館

 トップ10は全て纏向遺跡関連の古代史記事となりました。これは、異常ですね、普段は山の関連記事が人気があるのです。 

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葛城南部の遺跡を歩く

Photo  葛城南部の遺跡を歩くルートが橿原考古学研究所のホームページに掲載されています。

 参考 橿考研 葛城南部の遺跡を歩く(8キロ)

 近鉄御所駅からJR掖上駅まで8キロの行程だそうです。私はグーグルアースで遺跡をプロットしましたので参考にして下さい。詳細をグーグルで辿りたい方は

 グーグルアース 葛城南部の遺跡検索

「Miyasutsukakofun.kmz」をダウンロード

 (鴨都波遺跡)

 鴨都波神社界隈の遺跡群です。弥生時代から古墳時代まで鴨氏の大集落が存在した場所だそうだ。この遺跡は唐古・鍵遺跡と並ぶ縄文時代から弥生時代の奈良を代表する遺跡だそうです。松菊里(ソングンリ)式と呼ばれる韓国の扶余の紀元前5世紀頃の水田稲作の竪穴式住居や文化んぽ痕跡が見られるという。韓国から北九州に伝播した文化が伝わったのでしょうね。

 楕円形に二本の柱を建てる様式や甕棺、石包丁、石鎌、石斧等々朝鮮半島の扶余から伝播した痕跡が残る。

 (室宮山古墳)

 墳長246メータの前方後円墳で5世紀初頭に建造された葛城南部の最大の古墳であり、葛城襲津彦の墓ではないかと伝説が残るという。後円部墳頂には二基の竪穴式墳墓が存在し南側が発掘され巨大な長持形石棺が見つかっている。この石棺は津堂城山古墳のものと類似すると言われている。 参考 津堂城山古墳界隈の地図    此処は古市古墳群であり、応神天皇と関係が深った事を示している。記紀と整合する。Photo_2

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纏向遺跡 大型建物跡の解釈

 承前 纏向遺跡第166次調査現地説明会資料(桜井市教育委員会)

 先日の纏向遺跡第166次調査現地説明会で日本中を話題の渦に巻き込んだ内容について、疑問を抱く専門家や考古学ファンもおられるようです。

 問題は現地説明会資料の3ページです、発掘図面が示されていますが、その一番東に位置する大型建物跡と呼ばれる図面です。南北4間(19.2m)×東西2間(6.2m)の建物遺構と説明ですが、実際に柱穴が確認されているのは一部であります。図面を見ると確かに、建物の東側の半分しか柱穴が発掘されていません。

 この図面の儘なら、南北4間東西2間の建物となりますね。問題は柱穴の大きさが1m×1.7m程度で柱の太さが32cm程度と推測される大きな柱が立っていた。32センチという大型であり問題は柱と柱の中間に径40cm前後で柱の太さが15cm程度と想定される建物の床を支える束柱が存在する事です。

 発掘現場だけの建物の再現をすると南北(正確には5°西に傾いている)に19.2mで東西6.2mの細長い建物となり且つ建物の床を支える束柱まで完備した建物となります。はて、こんな建物は何に使えるでしょうね。先ず、同じ広さが必要ならば3間×3間の建物を建てますね。そんな建物が古代に存在したか知識が無いので判らないが私が設計者ならそうする。

 長い矛のようなものを格納する倉庫と考えれば、縦に格納すれば良いのでわざわざ、ウナギの寝床のような建物は建造しませんね。という訳で、この遺構は西側の柱穴が発掘されていないが、東西は4間あったと判断したのが桜井市教育委員会の見解ではないでしょうか。

 この建物Dについては現在の発掘現状からは東西4間という断定は発掘資料だけらは実証できないのが現実だと思います。しかし、162次調査に於ける建物A,建物B、建物Cとの関係を総合すると桜井市教育委員会の解釈も筋が通る説明であると私は考えます。

 今後、線路で分断された場所から東側の発掘に期待したいと思います。JRの問題は文化遺産の保護の観点で何とかして欲しいですね。

 (古代の宮の風景について)

 私は今回の発掘で興味が湧いたのは高槻市教育委員会が以前に発掘した今城塚古墳の造り出し部で発掘された巨大な埴輪祭祀場であります。東西65メータ、南北10メータの埴輪祭祀場は4区画の建物に分割され継体天皇の宮と思われる建物を再現し4つの区画された建物や衛士、巫女、力士、鶏、鳥、その他当時の宮の風景というか政治の風景を埴輪でジオラマを作ったものがありました。

 参考 JoBlog 『継体天皇の時代徹底討論 今城塚古墳』 高槻市教育委員会

 私は、今回の纏向遺跡の建物跡の発掘において発掘が難しい宮の発掘に挑戦されていると思います。垂仁天皇や景行天皇の纏向での宮跡は未だ発掘されていません。珠城山古墳近辺で期待したいです。

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葛城の古代の記憶 

Photo_2  衛星から葛城地方を眺めた図であります。今まで一言主神社について何回か記事を書きました。そして、京都の太秦や糺の杜の下賀茂神社について葛城氏の歴史を辿りました。

 さて、葛城山と金剛山の麓に賀茂(鴨)氏に関わる場所が多いですね。金剛山は中学生のワンゲル部の時代からよく登山をした場所ですが、葛木神社が存在するのですね。

 どうやら、役小角時代以前は金剛山は葛城山もしくは高天山(たかまがやま)と呼ばれたようです。山頂の葛木神社の祭神は一言主の大神です。という事は、葛城山の麓の一言主神社の奥宮(山宮)という事になりますね。

 高天山と発音するとなると、麓の高天彦神社(たかまひこじんじゃ)と高天原(たかまがはら)が気になります。さて、高天彦神社とは何でしょうか。

 (高天彦神社)

 この神社は延喜式では最高の社格を持つ神社だそうで、祭神は高皇産霊(たかみむすび)の神であり葛城氏の祖と言われている。古事記で述べる天照が住む天上の地がこの場所であると言うのでしょうか。神社の傍に高天原(たかまがはら)という地名が存在します。神社の名前からして高天山に住む男性の神となりますね。

 しかし、地上に降臨する前の神々の場所が存在していいのでしょうか、是非、一度は訪れて確認しないといけませんね。中学生の頃にもっと歴史を勉強しておれば良かったですね、ワンゲルで山を歩くしか能が無かったのが悔やまれます。

 (鴨の上社・中社・下社)

 衛星写真を見ると高鴨神社(上社)と葛木御蔵神社(中社)と平野部に鴨都波神社(下社)と三か所に鴨の神社が存在します。この上社の高鴨神社の社格も延喜式によれば大神神社や大和大国魂神社と肩を並べる程高いそうです。鴨氏の祖霊を祭っているようです。神社の由緒を読むと鴨氏は神武天皇を八咫烏(やたがらす)となり熊野からヤマトに案内し神武・綏靖・安寧天皇の后をさしだし葛城山麓に葛城王朝の基礎を作ったと述べる。

 しかし、私の古事記の解釈では神武さんには日向時代(薩摩半島 吾田隼人)の嫁さんとヤマトに入植してからは、淀川右岸の三島(現在の高槻市)にいる大物主さんが現地の豪族に産ませたヒメタタライスズヒメさんだと思います。(しかし、日本書紀と先代旧事本紀では事代主神としており鴨の祖と考えがあるのかもしれない)。

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『坂の上の雲』 第二回 青雲

 承前 『坂の上の雲』 第一回 少年の国

今回は真之と子規が大学予備門に入学出来て必死に勉強する場面が中心でした。二人は一緒に暮らし始めた。英語が苦手な子規に対して、秀才の夏目漱石が登場します。子規と漱石の出会いが始まった。当時の大学予備門に入学出来て勉強する人は秀才中の秀才だったでしょうね。まさに、将来の日本を背負って立つエリートと人々は考えていたと思う。

 若い頃の1年は年寄りの10年に匹敵するほどの強い印象を残すと思います。あらゆる新しいものを吸収し、異文化に憧れ吸い取り紙に水が沁みこむように膨れ上がる。友との絆も生涯のものとなったと思います。皆さんの経験でもそうではないでしょうか。あの新撰組の青年の激動の経験もたった2年少しの期間だった訳ですから、如何に青春時代は短く炎のような大事な期間であるか判ります。

 大学予備門入学の祝いの席に旗本の娘が鯛を祝い膳として出す場面がありましたが、まさに将来は大臣か博士の卵と映っていたと思います。そんな真之も中退し海軍に行く事を決める。

 (メッケルとモーゼルワイン)

Photo  好古の陸軍の学校ではドイツから招聘した日本陸軍創設の祖と呼ばれるメッケルさんが登場していました。

 彼はモーゼルワインが大好きで赴任の条件だったようですね。彼の故郷であるトリアー(Trier)はドイツ西部のモーゼル川のほとりの古い街、ドイツでは数少ないワインの産地だそうです。

 グーグルアース トリアー地図

「Trier.kmz」をダウンロード ちなみに、私が数回でかけたフランスのブルゴーニュのワインの産地と地図で比較して下さい。随分と緯度が上である事が判りますね、赤葡萄酒は寒くて出来なくてリースリング系の白葡萄酒だといいます。

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纏向遺跡の遺物について

200911kyoto_013 承前 纏向遺跡の古代地形

 纏向遺跡は縄文時代に土石流が起こり弥生時代にかけて人々が暮らせたり、稲作が出来る環境では無かった事を前回の記事で御紹介しました。

 突然に古墳時代が始まる頃にこの纏向地域に人々が集結したようです。しかも農耕の為ではなく都市と考えられる町(邑)を作る為であったようです。

 最盛期の布留0式期の頃(3世紀後半)の頃は2.7km₂に及び唐古・鍵遺跡の7倍、国内古墳時代遺跡では群を抜いた規模でありました。日本列島各地の土器が出土し、東は関東から九州、韓国の土器まで出土する巨大な都市が出現したのです。

 その理由は、出土遺物で鍬の出土割合が5%しか出土せず、95%が鋤という土木工事、現在のスコップの使われ方をする道具が出土するからです。

 写真はビニールシートで覆われた第166次纏向遺跡発掘現場の写真です。大型建物跡が発見された場所であります。前回、御説明したように纏向地域は沢山の川が東より西に向かい流れていました、その川に挟まれた微高地に遺跡が残っています。

 庄内0式土器編年期(3世紀初頭)から布留1式土器編年(4世紀初頭)までの期間と考えられています。(注:今年の夏に発表された歴博の放射性炭素14法の結果では少し、時代が数十年古くなるかも知れません、学会で議論中です)

 (二重口縁壺 土師器)

二重口縁壺 桜井茶臼山古墳出土この壺は桜井茶臼山古墳から出土した遺物ですが、同じ形式の壺が箸墓古墳の前方部より底に孔をうがったものが出土しています。現在は桜井茶臼山古墳の築造年代は箸墓の時代より新しいとされているが、祭祀の形態は継承していると考えていいと思います。

 (弧文円板と弧文板と吉備との関係)

 弧文円板 纏向石塚古墳出土遺物写真は弧文円板の写真ですが、石塚古墳から出土したものです。纏向遺跡からは弧文円板、弧文板、弧文石、特殊埴輪が出土し特殊な文様がほどこされています。写真の遺物は古墳のまわりの柱の上に取り付けられていた威儀具のひとつとされています。

 この弧文という曲線を多用した文様はヤマトには存在せず、吉備地方から持ち込まれたと考えられます。吉備地域の特殊器台や弧帯石の系譜を引くものと考えられています。

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纏向遺跡の古代地形

Himikomakimuku  纏向遺跡の古代の地形についてMuBlogで過去に掲載された地図をベースに桜井市立埋蔵文化財センターが発行している、『ヤマト王権はいかにして始まったか』~王権成立の地 纏向~という資料の『纏向遺跡の旧地形と墳墓・遺構の分布』地図を参考に概観してみましょう。

 注:地図はMuBlog 卑弥呼の墓 纏向遺跡の宮殿跡より引用しています。

 注:古墳時代初期の時代の川の復元や土器分布サークル、考古学上の地名の呼称は桜井市立埋蔵文化財センターの上記掲載資料から引用致しました。

 注:纏向遺跡 第166次調査現地説明会資料 地図参照

 (地形概観)

 ・先ず地図の一番下、箸墓古墳を含む北と南の纏向川で挟まれた土地は箸中微高地と呼ばれる。

 ・次に纏向東田大塚古墳を含む地図中央の北と南を川で挟まれた微高地を太田微高地と呼ばれている。比較的広い地形。

 ・更にその上の微高地は纏向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳を西側に東にクサビの形のように伸び今回の大型建物跡発見現場や他田天照御魂神社を含むひょろ長い地形を太田北微高地と呼ぶ。

 ・更にその上の珠城山古墳群を含む地域を巻野内微高地と呼ぶ。更にその北の小さな川で囲まれた微高地は草川微高地、その北の一番北を流れる川の北側も草川微高地と呼ばれている。

200911kyoto_189  (土器分布)

 ・一番外側の大きなサークルで囲まれた地域は布留式土器が発掘される範囲である。

 ・中央のサークルは庄内式土器が発掘される地域であり今回の大型建物発掘現場や他田天照御魂神社あたりがその中枢地域と考えられる。

 ・地図右上の珠城山古墳群地域の小さなサークルは布留式土器の中枢地域であると考えられる。という事は、3世紀初頭に庄内式土器が集中する太田北微高地即ち、今回の大型建物発掘現場あたりが中心でその後、珠城山古墳群の地域に中心が移動したと考えられる。

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京都 嵐山・清水秋景色 (2009年)

200911kyoto_091  嵐山、渡月橋の秋景色です。

200911kyoto_094

 松尾大社対岸から嵐山を望む。

200911kyoto_090_2 松尾大社方面を眺む

200911kyoto_093 渡月橋界隈の紅葉模様

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葛野 松尾大社 その3

200911kyoto_072  (水の祭祀)

 松尾大社の神泉ですが、この奥にには小さな滝があり涸れる事が無い水に恵まれています。200911kyoto_073 古来日本では水を祭る祭祀が国家レベルで行われていたといいます。

 最近の発掘成果では明日香での酒船石遺跡での導水設備の発掘は斉明天皇が水の祭祀をされておられた証拠として記憶に新しいと思います。7世紀中頃の遺跡と考えられるが亀かスッポンの形をした石槽に山の上の酒船石があるあたりから導水し石畳のコロッセオのような場所で天皇が水の祭祀をされていた。

 天変地異の全ての責任が天皇にあると考えられていた時代、天皇の一番大事な仕事は天変地異を鎮める事であったと思います。水は生命の源であり豊穣の源でもあります。以前にカンボジアのアンコール遺跡を歩いた事がありますが、彼の地に於いても最大の祭りは水祭りでした。秦氏が如何に4世紀末頃から葛城が王権に大きな影響を与え始めた頃から平安時代にかけて祭祀の重要な立場についていたか、想像ができます。

 (宇佐神宮と秦氏)

 隋の裴世清(はいせいせい)が聖徳太子に隋皇帝の返書を持ち来朝したおり、豊後に秦王国が存在したと隋書倭国伝に記録を残している。宇佐神宮は秦氏の一族である辛島氏が建立したと考えられているが、友人の浅茅原さんの話では境内に卑弥呼の墓と伝説がある遺跡があるそうだ。

 例の奈良時代に道鏡事件が起こるが、和気清麻呂が宇佐神宮に神の言葉を聴きにゆく場面が登場しますが、それ程重要な神社であったそうだ。祭神は応神天皇なので、4世紀末に秦氏の祖と考えられる弓月君の大がかりな朝鮮半島からの移住が始まる頃であります。

 京都盆地の南を固める男山の頂上にこの宇佐八幡から分家した石清水八幡宮が鎮座しています。これも秦氏と関係がある可能性があります。森浩一先生の話では石清水八幡宮の麓に『徒然草』で有名な仁和寺の法師が間違って高良社を石清水八幡と間違って参拝した記事がありますが、本来、この場所が水祭祀の重要な場所ではなかったかと発言されています。

 高良社は継体天皇と戦争をした九州の磐井の高良社と関係が深いのではないかと森先生は記録されていた記憶があります。磐井の名前そのものが水祭祀と関係が深い事を述べられていたと思います。今、手元に資料が無いので詳細は省きます。

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葛野 松尾大社 その2

Photo  秦氏に関してもう一つ重要なものに伏見稲荷大社であります。秦氏が創建したと考えられていますが、稲荷さんの総本山ですね。この稲荷山、松尾山、日枝山(比叡山)は秦氏に取り重要な場所であったと考えられます。元糺の杜即ち木嶋坐天照御魂神社を中心に何らかの関係があると考えて無理は無いように思います。

 京都ではもう一つ重要なランドマークがあります、それは愛宕山ですね、陽が沈むあの世とも異界とも考えられ幾多の鬼の話や天狗の話や小松和彦さんの説では愛宕山を『天界・魔界へと結ぶ世界樹』と呼んでおられます。愛宕山と秦氏との関係については今のところ私には関係する材料を持っておりません。しかし、グーグルの衛星写真でみると日枝山(比叡山)と伏見稲荷大社(稲荷山)と愛宕山を結ぶと綺麗な正三角形をしていますね。

 (葵祭と糺の杜)

 現在の葵祭は御所から天皇の勅使や斎王代が列を作り下賀茂神社の糺の杜を目指し、五穀豊穣を願う行事であるが、桓武天皇の時代は元糺の杜を目指し三つ鳥居のある神泉で五穀豊穣の祭祀がなされていたと記憶しています。秦氏は農業を支配する太陽を神とする祭祀を司っていたと考えられます。

 参考 葵祭 2008年度

200911kyoto_102  例えば、松尾大社の鳥居に注目してみましょう。

200911kyoto_085 鳥居には榊の束が12個ぶら下がっていますね。これを『脇勧請』とよぶそうで、毎月の農作物のでき具合を占っているそうです。

 鳥居の原型であると神社の看板には書いてありますね。

 京都市観光協会の葵祭の説明ではルーツは欽明天皇の時代に遡るそうで、五穀が実らなかった時に占いで賀茂氏の神をおろそかにしている祟りであるとでたそうです。賀茂氏は秦氏の仲間ですが、古代からこのグループは農業、即ち太陽を支配する占いの世界では天皇家が認めていた事を示唆しています。

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葛野 松尾大社 その1

200911kyoto_069  秦氏が築いた葛野に坐す松尾大社であります。秦氏は現在太秦と呼ばれる場所を本拠地として桂川(昔は葛川呼んだと個人的には思っています)を土木工事で氾濫を食い止め京都の盆地を賀茂氏とともに開発し整備した。

 元糺の杜には木嶋坐天照魂神社を祀り湧きだす泉を力の源泉とした。此処が秦氏の出発点であり聖なる場所だと思います。

 参考 元糺の杜 魔界巡礼

 松尾大社は神社建築でも独自の様式を持ち松尾造りと呼ばれている。祭神は大山咋神(おおやまくひのかみ)と宗像の女神である中津島姫命(なかつしまひめのみこと)である。秦氏が朝鮮半島大陸との交易に関わっていた事が宗像の女神を祭る事で判りますね。それでは大山咋神とはどんな神か私も良く知りません。

 名前からして大山に杭を打つ神ですから、三輪山を御神体とする考えと同じで山の神なんでしょうね。古事記によれば、日枝山(現在の比叡山)と葛野の松尾山に坐す神であり鳴鏑(なりかぶら)を用いる神であると記録されている。というと、戦闘的な雰囲気がしますね。近江の比叡山坂本にある日吉大社が大山咋神を祭神とされています。

Photo  (秦氏の聖なるライン)

 グーグルで地図を確認すると不思議な事が見えてきました。

 それは比叡山と松尾山を繋ぐライン上に秦氏の関係する重要な遺跡が連続する事です。

 比叡山(日枝山、大山咋神)→下賀茂神社、糺の杜→御所(皇居、元は秦氏の館)→木嶋坐天照魂神社、元糺の杜、蛇塚古墳→松尾大社(大山咋神)となります。

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葛城 一言主神社(ひとことぬしじんじゃ) その2

200911kyoto_043  (役小角えんのおづぬ)

 葛城と言えば、役小角を思い出す人が多いでしょうね。続日本紀、日本霊異記に登場する実在の修験道の開祖さんです。

 役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ飛鳥時代から奈良時代にかけて数々の呪術を行った不思議な人物として描かれている。

 日本霊異記によれば、役行者が金剛山と葛城山の間に橋をかけようとして多くの鬼神を使用した。それに反抗した葛城の一言主神が文武天皇に訴えた。母を人質にとられ役行者は捕えられ伊豆に流された。その時に、役行者は一言主神に呪をかけ呪縛をかけたという。そして、谷底に置き去りにして呪縛から逃れるために今も一言主神の唸り叫ぶ声が今だ絶えないという。

200911kyoto_051  考えてみると、一言主神はかわいそうである。外来の勢力に制圧され、その後は役行者にまで呪縛された神なのだ。

 小松和彦さんの話では、一言主神社境内には三つの『蜘蛛塚』があるという。神武天皇が土蜘蛛を退治したときに胴と頭と足の三か所に分断し別々に埋めたという。私は一箇所しか発見出来ませんでした。

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葛城 一言主神社(ひとことぬしじんじゃ) その1

200911kyoto_031  葛城の一言主神社さんです。

グーグルアース:葛城一言主神社

「Hitokotonushi.kmz」をダウンロード

 纏向遺跡と天照御魂神社を歩いた後、同行の浅茅原の旦那と食事をし、さてこれから何処に行くかという話になった。

 私は以前より気になっている葛城の一言主神社に行きたいとと申し出た。Photo_2 

 葛城は謎の地域であり、日本の古代史には纏向地域と同様に重要な場所と考えています。

 葛城に関する事項を簡単に御紹介しておきます。

 (葛城王朝説)

 これは、鳥越憲三郎さんが唱えた仮説であり崇神天皇が纏向地域(三輪山山麓)で王権を築く前、即ち神武天皇から欠史8代と呼ばれる王権はこの葛城を拠点とした王朝であったとする。

200911kyoto_041

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『坂の上の雲』 第一回 少年の国

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』は数年前に再度、全巻購入し読み直した経験があります。司馬史観の全てがこの小説に内蔵されていると思います。江戸時代を倒した20歳代の若者には国家をどうするか青写真が無かった、しかし、懸命に欧米列強の文明を学び植民地支配から逃れる為に頑張った、そんな時代だった。

Tankun_013  数年前に、私はベトナムのハノイに住んでいました、その時に日本の東京工業大学に留学し日本の企業に数年間勤めベトナムの国の発展の為に帰国した青年と仕事を一緒にしていた。その彼の父はハノイの大学の教授を定年退官し隠居されていたが、その翁と旧正月に自宅でゆっくりお話した内容がこの『坂の上の雲』に通じるお話でした。

Tanroniseki_104  翁はベトナム戦争や中国侵略との戦いの前線で戦った戦士でもありました、さぞかし日本を恨んでいると私は慎重に話を聴いていました。意外にも翁は言います、日本という国は明治維新を行った歴史を持つ、ベトナム人否、アジアの人間にとり日本は憧れの的であったという。帝国主義の欧米に対してアジアの小さな島国の国が明治維新を行い欧米の帝国主義に果敢に立ち向かった国であるという。

 アジアの民衆にとり日本は輝ける国に見えたと言う。第一次日英同盟にてロシアの艦隊を破った時には頂点に達した。『坂の上の雲』ではここで全巻を終えている。問題は、その後の第二次日英同盟では、アジアに人にとり日本も欧米と同じ侵略者の立場を取る訳です。司馬さんは、幕末から明治維新を描き、美しき日本の精神の最後である日露戦争終結までの歴史を好んで描いた。

 これは、アジアの人々にとり共感を得る歴史時代でありました。日本という国は鎖国を解き、アジアが欧米の植民地として悲惨な運命にある時果敢にアジアを代表して近代化を行い欧米帝国主義に立ち向かった時代があったのですね。この時代は、敗戦後の日本の歴史とも何処か通じる所があると思います。

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