葛城 一言主神社(ひとことぬしじんじゃ) その2
葛城と言えば、役小角を思い出す人が多いでしょうね。続日本紀、日本霊異記に登場する実在の修験道の開祖さんです。
役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ飛鳥時代から奈良時代にかけて数々の呪術を行った不思議な人物として描かれている。
日本霊異記によれば、役行者が金剛山と葛城山の間に橋をかけようとして多くの鬼神を使用した。それに反抗した葛城の一言主神が文武天皇に訴えた。母を人質にとられ役行者は捕えられ伊豆に流された。その時に、役行者は一言主神に呪をかけ呪縛をかけたという。そして、谷底に置き去りにして呪縛から逃れるために今も一言主神の唸り叫ぶ声が今だ絶えないという。
考えてみると、一言主神はかわいそうである。外来の勢力に制圧され、その後は役行者にまで呪縛された神なのだ。
小松和彦さんの話では、一言主神社境内には三つの『蜘蛛塚』があるという。神武天皇が土蜘蛛を退治したときに胴と頭と足の三か所に分断し別々に埋めたという。私は一箇所しか発見出来ませんでした。
栄華を誇った5世紀にはこの辺りには巨大な建物が建っていたのでしょうか。今は静かな田園風景となっています。
私は三輪山山麓に外来勢力が侵入し邪馬台国である卑弥呼・崇神王権が3世紀に発生するまではこの葛城に土着の王権が存在したと考える、鳥越憲三郎さんの仮説もロマンを感じます。
明らかに王権が転換した応神天皇の時代から葛城は河内王権とも呼ばれる新しい王権の中枢に葛城は座ったと考えています。5世紀の時代は河内王権と葛城の連立政権であったと思います、その理由は葛城から河内王権の皇后に沢山送りこみ、多くの河内王権の大王を輩出させたからです。
しかし、5世紀末の雄略天皇の時代に攻め滅ぼされ葛城は四散する事になりました。しかし、京都盆地に転身した秦氏・賀茂氏は京都盆地を開拓し富を貯え聖徳太子さんの時代には飛鳥王朝を支える勢力となっていた。秦河勝は誰でも御存知、そして、蘇我氏も河内の石川に転身するがその後、明日香に勢力を結集し飛鳥時代をリードした。
奈良時代も終わり、桓武天皇の時代には再度、京都盆地に勢力を蓄えた秦氏・賀茂氏が遷都をさせる迄復活していました。全てのルーツがこの葛城にあるのです。
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