桜井(外山)茶臼山古墳 被葬者は
Muさん 返信が遅れ申し訳ありません
昨夜遅くに粉雪舞う北海道から港、横浜の自宅に帰還しました。羽田からバスで横浜港に向かうと夜景が実に美しい、巨大な観覧車の電飾が色とりどりに輝き回転し摩天楼のビルの窓の光と調和し素晴らしい夜景を創り出しています。
さて、桜井(外山)茶臼山古墳の件ですね。磐余(イワレ)の大王の墓である事に間違いは無いでしょうね、しかも古墳時代の初期の建造であり玉杖も出土し丘尾切断型という前方後円墳出現期の初期の形であるのも気になります。
磐余と言えばイワレ彦(神武天皇)ですね、ヤマト王権の創始者として記紀では語られている重要な人(神)ですね。彼は鳥見山を聖なる場所として祭祀をしたと記紀では記録しているのも気になります。森浩一さんが『記紀の考古学』で語られている以下の記述が気になっています。以下引用(第一章 イワレ彦とその妻たち より一部引用)
日本書紀によると、磐余の元の地名は片居(かたい)或いは、片立(かたたち)、物語の上では、元々拠点的な集落があって、そこを接収して地名を改めています。という事は、新しい支配者が拠点集落の地名を変え、その地名を自分の名にもつけたという想定のようだ。『紀』では、敵の大軍が集まった、つまり、『屯聚(いは)み居(い)』た大軍への勝利を記念してつけたとしています。(中略)大和入り以前の神武の名は年少時は狭野尊(さののみこと)とし、別に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の名前を記録している。しかし、彦火火出見尊の名前は神武さんの祖父である山幸彦、火遠理命(ほおりのみこと)の名でもあります。何という名の人がイワレ彦になったか関心が持たれる。
此処からは私の意見ですが、桜井(外山)茶臼山古墳はヤマト王権の創始者の墳墓であると考えると全て納得出来るのです。出雲王権の大物主の三輪山に睨みを利かし、物流拠点であり鉄の生産の場である、磐余の土地を抑え、聖なる鳥見山の裾に祭祀の場である巨大古墳を建造した。
勿論、イワレ彦が最初に葬られたのは畝傍の山裾だったと考えますが、その後、ヤマト王権が確立した頃に始祖伝説に相応しい巨大墳墓と国家祭祀の場である桜井(外山)茶臼山古墳を建造し、イワレ彦を改葬したと考えるとどうでしょうか。
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Comments
お説のうち、茶臼山古墳の被葬者は、大王・後の神武天皇さんらしい書きぶりですが、私は最近そう思うようになりました。
そのことと三輪王権の関係をJoさんは今一つ明確にされていないのが、不満です。三輪をすぐに出雲と結びつけるのは、最近感覚的に(笑)、私は避けるようになりました。なぜなら、三輪王権こそが日の姫巫女(ひのひめみこ)つまり、卑弥呼はんの王権で、後を崇神はんらが継いだと感じているからです。
で、崇神はんと神武はんの関係こそが、キーで、同一人物だと話が早いのですが、そこが難しい~。
小説ならなんとでも書けますが、ふむふむ。
JOさんの三輪山シンポの記事を全部再読したら、解があるでしょうか。
追伸
三輪王権とイワレ王権とが並立していただなんてぇ~。
Posted by: Mu | 2009.11.08 06:11 PM
Muさん 御無沙汰
以前にも書きましたが、ヤマトトトビモモソヒメは孝霊天皇の娘さん、弟に吉備津彦がおられます。この二人が魏志倭人伝に書かれた卑弥呼と弟王を想像させますね。
吉備津彦は吉備の中山茶臼山古墳に眠るといいますね。彼は古代最大の内戦と呼ばれた武埴安と木津川で戦い武埴安を滅亡させています。
神武さんは記紀によれば、九州を出発してから、吉備で8年間も過ごしてからヤマトに進軍しています。神武さんと吉備との深い関係が気になります。
神武さんと崇神さんの関係が今だに私も未解決です。それにつけても、桜井茶臼山古墳の搬出された高野槇の棺やその他石室内の遺物の年代測定の結果が楽しみです。
来年の夏頃には橿考研は学会で発表すると希望的観測をしています。
Posted by: jo | 2009.11.08 10:49 PM